喜多圭介のブログ

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落ちこぼれ親鸞(5-1)

2007-02-11 18:00:37 | 宗教・教育・文化
越後を離れた親鸞一家は常陸国笠間郡稲田郷に粗末な草庵を結び移り住んだ。『御伝鈔』によると「幽栖(ゆうせい)を占むといえども、道俗跡をたずね、蓬戸(ほうこ)を閉ずといえども、貴賎衢(ちまた)に溢る」と伝えられ、多くの人が親鸞のもとを訪ねてきた。

この地を中心に、ほぼ二十年ちかく関東一円から東北の一部に教化の足を延ばした。次第に、他力念仏の教えに触れ、教えを生活の中心にして生きる人々の交わりがおおきくなっていった。

このような人々の集まりを仏教の言葉でサンガという。親鸞は各地にあった太子堂にご本尊をかけ、一日の仕事の終わった後や、法然の命日に法座を開き、勤行や法話、お互いの信を深めるための話し合いをした。地域によって人の集まりの多いところには道場を建てた。やがて寺院となった。

しかし親鸞に寺院建立の意図はなかった。いつでもどこでも人の集まる場があれば、本尊をかけ、法座を開いた。このような伝統が「本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれ」という浄土真宗中興の祖、蓮如の言葉となった。

ところで当時の人々の暮らしはどんなだったか。今日の私たちの暮らしとは比べものにならないほど苦しい生活だった。それでも多くの人は小銭を出し合い、奉仕の時間を作り真宗の教えに触れていった。このことが苦しみ多く、報われることのない人生を生きていく生き甲斐となった。

現代社会の仏教は葬式や法事だけのつながりしかない方が多い。教えといっても先祖供養・精神修養や道徳が仏教と混同している、あるいは「ナムアミダブツ」と唱えて高いところから滝壺に飛び込む、自殺の合図と勘違いしているのもいる。

他力念仏の教えは私たちに深い意味での生きることの執着、「生きる」「生きたい」と真に言わしめる力。人間は自分の想像世界を生きようとする。その想いが通じている間は、活き活きとしている。しかし想像外の状況に投げ出されると、とたんに生きる力を喪失しやすい。親鸞も幼少の頃から状況は同じだった。

ただ親鸞は悲しみが悲しみだけでは終わらない道を見出した。それが南無阿弥陀仏。「阿弥陀」とは、限りがないと言うこと。宇宙と置き換えてもいい。「仏」とは私を導き目覚めさせようとするはたらき。「南無」とは私への呼びかけ。悲しいことや苦しいことの中に、必ず私に呼びかけてくる大いなるはたらきがある。無限の命がある。この頷きが「南無阿弥陀仏」であり、この世界に出会った感動は「南無阿弥陀仏」としか表現のしようがない。

この感動はどれだけ状況が悪化しようと、それを越えさせる力となっていく。

親鸞はこの地で「教行信証」という著書の執筆をする。ひとまずの完成が五十二歳の頃だが、晩年まで手を加え続けた。世間に出すための書物というよりは、自らの信仰を確かめ続けた、その覚え書きのようなものだった。

この頃、晩年の親鸞の世話をした覚信尼が生まれた。

六十歳頃、親鸞は関東を離れ京都に向かった。

親鸞の一生は解らないことだらけ。住み慣れた関東の地を離れ、三十五歳まで生活していた京都へ戻った。関東には、弁円(べんねん)をはじめ深い信仰で結ばれた多くの念仏の仲間がいた。それらの人々と別れ、何故京都へ向かったのか。その理由はさだかではない。

京都へは六十三歳頃に着いた。いくらなんでも長旅、誰と一緒に京都への旅をしたのか、何処に立ち寄ったのかもあまり判っていない。しかも妻である恵信尼は同伴していなかった。恵信尼(えしんに)は越後に戻っていた。所領の管理をして、三人の子供(小黒女房・信蓮房明信・益方有房)を養育していた。この地方の豪族の三善為教の娘であった恵信尼は、いくばくかの所領を相続していたと思われる。この地で生涯を閉じた。お互いに看取る、看取られることなく。

親鸞はわずかなお供とあちらこちらに立ち寄りながら京都へ向かった。

京都に着いた親鸞は関東の信仰を共にした人々から送られてくる金銭を生活の糧にし、住居も定めることなく、縁に従ってあちらこちらへと住まいを移した。今の時代ならば「ホームレス」といったところ。まぁ釈迦だって何も仕事をせずに托鉢生活をした人。だが当時の社会はこうした風采の人達を受け入れる社会だった。風采や地位ですべてを決めかねない現代は、なんと許容力のない社会か。

親鸞の「生」を支えていたのは純粋な信仰の世界への意欲だけ。

『歎異抄』に関東から信仰上の問いを抱えて、はるばるやってきた人々とのやりとりが記されている。親鸞はこれらの人々に「それぞれの選びである」と言い切る。

外からも内からも念仏の教えが乱れていく出来事が起こった。関東からは多くの同行(共に念仏を申す仲間)が親鸞の元を訪ねた。その内の一人唯円坊とのやりとりが『歎異抄』となった。

親鸞もしばしば消息を送り、関東の人々の疑問に答えていった。またこのような混乱を収めようと、八十歳になる頃長男に当たる善鸞を関東に送った。しかし、善鸞は散りじりになった人々の心を集めようとしたのか、教えにないこと、父親鸞が語りもしなかったことを語り始めた。信仰が人々を集めるための道具にされていった。善鸞が関東に行ったことにより、かえって弟子の取り合いということが起こった。

『歎異抄』に「親鸞は弟子一人ももたず」という言葉がある。誰の弟子でもない、まして親鸞の弟子でもない。すべて如来の弟子であり、如来の言葉をただ聞いていく道、これが他力念仏の教え。その道を歩もうとするのかどうかは、「それぞれの選びだ」と断言した。ここにもセンサーの毀れた親鸞を見る思いがする。

この人たちは親鸞を経済的に支える人々。そのような人々に対しても人間的な情や妥協を一切加えることなく、信仰の世界を見つめている親鸞の晩年の姿があった。すでに述べたが親鸞には情を温情として心の蔵に蓄積するためのセンサーが毀れていた。仏道の厳しさからだけ出た姿ではない。

長男である善鸞との親子の縁を切る事態にまでなった。

親鸞八十四歳の時、関東の同行の中心であった性信房に一通の手紙を書く。そこには、「自今已後は、慈信(善鸞)におきては、子の儀おもいきりてそうろうなり」とあり、「このふみを人々にもみせさせたまうべし」と結んでいる。どのような気持ちでこの手紙をしたためたのか。晩年に親子の情でこのような悲しみに出会うとは、親鸞とて思いもよらなかったことである。