震災の時にいただいた
支援物資の紅茶。
遠い遠い、イスラエルから。
大きな袋に
ティーバックが沢山。
その袋もだいぶ前に
最後のものが開封されて、
ティーバックも
これで最後となりました。
毎朝食卓に並んでいた
イスラエルの紅茶。
それも最後かと思ったら
名残惜しくて
名残惜しくて
忘れたくないので
写真に収めました。
七ヶ浜の海。
たくさんのヨットや
波乗りをする人で
賑わっていました。
この近くには、
菖蒲田(ショウブタ)浜海浜公園
が、あります。
7月の終わり、3日間だけ
海開きをしたそうです。
この海水浴場は、実家から程近い、
ダンナさまには馴染みの場所。
昔は、「ショウブタ」を
「シオブタ」だと
思っていたそうです。
「菖蒲田」が読めた頃、
「塩豚」ではないことに
気がつくそうです。
ダンナさまの友達の間では
よくある話、
あるあるネタだったと
言っていました。
6月の中頃、
はじめて雄勝に行きました。
この日は「うに祭り」。
ウニを買うために
整理券も出ていて、
暑い中、たくさんの人が
並んだようです。
水産業が盛んなこの町では、
恒例の行事だったようで。
去年はできませんでしたが
今年、再開したそうです。
本当は、もっと小さなお祭りかと
思っていたら、
観光バスやら県外からの車やらで、
小さな会場には
たくさんの人がいました。
また、海沿いの催しを見つけては
足を運んでいきたいものです。
地震、その後。
1ヶ月前の新港。
元は、波乗りポイントそば。
地震後はじめて
来てみました。
新しかった駐車場は
すっかりなくなり、
この下は津波で削られて
崖のようになっているようです。
砂浜。
新港の新たな波乗りポイント。
こうして海を見て
思い出すことの
意味を考えます。
蒲生。
ここは、養魚場が
あった場所だと
思います。
蒲生の河口も
波乗りポイントで、
ほかには水鳥たちがいた干潟、
乗馬場や、
食べに来たことがあった
うなぎ屋さん、
民家が並んでいました。
跡。
津波や火事で焼けた建物は、
取り壊されるか
こうして骨組みだけに
なっているところが
多くなりました。
近所の仮設住宅は、
冬には断熱材が入り
玄関に目隠しができたりと
少しずつ変化がありました。
仮設住宅も
建てるところによって
だいぶ違います。
最近、
その、近くの仮設住宅に
天皇陛下が訪問。
いつか
海沿いの一帯が
津波なんて
なかったくらいになる日が
来ることを
心から
待ち望みます。
地震のあと、
しばらくの間
この長靴を履いて
リュックを背負い
会社へ行っていたダンナさま。
その長靴もいつの間にか壊れ、
物置の奥に
仕舞ったままに
なっていました。
最近、
ダンナさまのもとにも
この長靴よりも
だいぶカッコのイイ、
ウォータープルーフの
ブーツがやってきました。
だから
さよなら長靴サン。
おつかれ長靴サン。
あんまり惜しくて
写真を撮りました。
3月11日から
1年とちょっと、
経過しました。
今年のその日、
わたしは
ゲレンデにいる
たくさんの人たちと一緒に
黙祷をし、
その時となりにいた人は、
何か、まぶしいものが
見えたと言っていました。
あの時から今でも
たくさんの人が
たくさんの人に
お世話になりました。
わたしも。
その節は、本当に、
ありがとうございました。
いろいろな事を考え
過ごしていますが、
とにかく
あの時、すごく大勢の人たちが考えてた
誰かに何かできること、
の気持ちは
とても、すごいコトだったと
あらためて思います。
感謝の気持ちを
ずっと忘れずにいたいです。
この頃は
出会う人と
地震の話もほとんど
しなくなりました。
しばらく停電していた
多賀城の港近くも
いつのまにか復旧していました。
津波にのまれてしまった
おじさんは、
最近、
うちの父と母、
おじさんの息子によって
パラオに散骨されました。
そこは、
おじさんの父親
わたしの父の父親でもある
おじいちゃんが
戦争で亡くなった場所で
パラオでの散骨の話は
おじさんの息子が
提案してくれて。
父はそれを
「なかなか粋な事を・・」と
喜んでいました。
今年の年賀状は
来た人にだけ
遅れて返事を返すことに
なりそうです。
今日も蕪栗沼で
鳥たちを見てきました。
地震の事が
遠い夢のようです。