なんとなくそんな気持ちの日々に

本ブログは、もう更新の予定はありません。しかし閉鎖はせずに、記事を残しておきます。

水俣でワシもそれなりに考えた

2007-11-25 22:56:24 | 身辺雑記
 水俣の出張から帰ってきました。せっかくの連休が水俣出張でつぶれてしまいましたが、人間の安全保障を研究する上で重要な示唆を与えてくれるところでした。
 現在、水俣は、自然が美しく、山の恵みも海の恵み豊富で、サカナ、肉、野菜、なんでもおいしいところです。「水俣病」という未曾有の人災によって一度ずたずたにされた人と人とのつながり(水俣病は患者だけでなくコミュニティにもダメージを与えたのです)を再生しつつある、そういうところでした。
 その再生の手法のひとつが、「地元学」です。これは、自分たちが地元にもともとあるものを「発見」して、見つけたものを組みあわせ新しいものを作り出し、自分たちに誇りをもつことを目的とするユニークな取り組みです。基本的なやり方を学んできましたが、これは人間の安全保障で重要とされているエンパワーメントという概念そのものでした。また、ちょこっとですが胎児性患者さんたちの授産施設も訪問することができ、患者さんたちが社会の中で生きていく望みを持っているという話を理事長さんから伺うことができました。
 このように水俣はすばらしいところなのですが、前回のブログでも書いたようにIWD東亜という企業による大規模な産業廃棄物最終処分場建設の計画が持ち上がっています。建設予定地にはいけませんでしたが、この会社が産廃物処分場が周辺環境に影響を与えないことを説明するのに、データを持ち出して、(水俣病を引き起こした)チッソより安全だと主張するということを聞いてきました。水俣市が産廃施設に反対する背景に水俣病があることは言うまでもありませんが、IWD側も水俣病を説明に出してきています。ここに、「水俣病」をめぐる表象の争いとでもいうべきものが起こっています。
 そして、高濃度ダイオキシン汚染土が見つかった百間排水路を見てきましたが、皮肉なことに、その近くには水俣病の小さな慰霊碑がありました。汚染土が海に影響を与えている様子は今のところありませんが、早期に処分しなければ、慰霊碑の意味がなくなってしまう気がしてなりません。
 人間の安全とは何かということを、いろいろな視点から考えることができる水俣という土地のことを、少しだけですが知ることができ、自分にとって有意義な出張となりました。

明日から水俣へ

2007-11-22 22:03:08 | 国内関係
チッソ、新救済案を拒否 「補償問題、訴訟で決着」毎日新聞 - goo ニュース

 仕事で水俣に行くことになってしまった。せっかくなので、今日は水俣についていろいろ勉強していた。こういうとちょっと問題があるかもしれないが、「面白い」都市である。
 水俣は、どうしても「水俣病」のイメージが付きまとう。今でも、その被害に苦しむ人が多々おり、また農産物も「水俣産」ということがわかると倦厭される傾向がある。その負のイメージを乗り越えるべく、水俣市では環境政策にずいぶん力を入れているようである。また、「サラダたまねぎ」という新たな名産物も評判をよんでいるようである。
 水俣市では、現在、IWD東亜という企業による大規模な産業廃棄物最終処分場建設の計画が持ち上がっている。昨年の市長選挙では、これが争点となり、明確に反対を打ち出した宮本勝彬氏が当選をしている。市のホームページを見ると、産業廃棄物最終処分場問題のコーナーが設けられており、市民団体とともに反対運動を行なっているようである。行政が市民団体とともに反対運動を行なっている例は興味深い。どうやら、市には法的にこの計画を止めさせるだけの権限がないらしく、地道な反対運動を行なうより方途がないようである。
 そして、水俣病を引き起こしたチッソとの関係は、水俣市がかかえる最大の苦悩である。チッソは資本金78億の大企業であり、現在でも水俣市に「水俣本部・水俣製造所」を置いている。水俣市民の中には、チッソで働いている人びともおり、市の経済・産業面で重要な位置にあることも事実である。チッソは、水俣病の原因となったメチル水銀はもう出していない。しかし、現在でも、水俣市・百間排水路の堆積土砂の高濃度ダイオキシン問題を引き起こしいる。環境と経済が複雑にからんだ問題の難しさを示す都市である。
 せっかくの連休が水俣での仕事でつぶれてしまうのはシャクなので、現場がどうなっているのか、この目で確かめて研究に生かしたい。

理想の大学人

2007-11-13 21:17:48 | 身辺雑記
 日曜日に出張したため、今日は代休をとった。そこで、久しぶりに引きこもり生活を送ってみた。好きな時間に昼寝をしたため、すこぶる体調がよいのだが、反面あまり楽しい生活ではない。仕事がなければ、図書館にでもいって勉強しているところなのだが・・・
 それにしても、なぜ人間は仕事をせねばならないのだと思うことがある。無論、勤労の義務の存在や、もっと端的に生活のためには働かねばならないという事実も知っている。仕事を通じて、生きる価値を見出すこともあるということも知っている。しかし、どうも人間は働きすぎのような気がする。
 最近の日本の労働環境はよいとは言えない。ワーキングプアの存在は氷山の一角である。研究業界に限ると、なかなか職は見つからないし(=屍が累々としている)、運よく職が見つかると研究職であるにもかかわらず膨大な雑務のため研究ができない(=生ける屍)状況である。研究には、適度な知的刺激と適度な休息が必要なのだが、最近の社会的環境はそれに反するものである。日本の優秀な研究者ほど、グローバルCOEやらなにやらで、自分の研究をさせてもらえない(もっとも優秀でない私には関係ない)。こうした状況は、少子化の影響と、社会の大学に対する過剰な期待に由来しているのであろう。
 しかし、世の中には、しかるべき地位に就き、必要最小限の授業の負担だけで、自由な時間を最大限確保している大学研究者がいる。私の前任校に所属する哲学を専門とするO准教授である。O准教授は、必要最小限の学部生を対象とする教養科目を担当し、ゼミは持っていない。学内委員会にも、どうやって抜け出したのか、まったく所属していない。以前は学部紀要の編集委員だったが(唯一の学内業務!)、現在は何もしていない模様である。学内の誰ともつるまず(学内に友人がいないという噂もある)、朝8時には研究室に姿をあらわし夜11時に去る生活は、哲学者らしく孤独に事実に向かうとは何かを身をもって示しているかのようである。私は、「日本のカント」と名づけようとしたぐらいだ。そして、有り余る時間を、研究室内での炊事と研究室外でのタバコと自販機コーヒー、そして研究に費やし、昨年ついに単著を出したのである。
 私は、O准教授こそ、理想の大学人の生活だと思っている。私は、O准教授になりたい。まぁ、大学の経営が厳しくなるとリストラ候補でしょうが…