ここ数日間、YouTubeやら、ネットに載っている論考などを見ている。
中でも面白い、と思ったものを二つ、あげてみる。
一つは、わたしがときどき見ている『チャンネル桜』で
7月18日からYouTubeで公開されている『平和安全法制討論』と題して、
『危機対応と安保法制』というサブタイトルで、8人の学者や
有識者を招聘しての三時間に及ぶ討論番組である。
司会の水島総氏はチャンネル桜の社長でもあり、
日本でいわゆる保守、と呼ばれる人たちを代表する存在でもある。
しかしこの討論では、先週衆議院を通過した安保法制に関して、
賛成派と反対派を4人ずつ招き、自由闊達な議論を展開する、
という、きわめて興味深いものであった。
反対派の筆頭には、6月に衆議院憲法審査会で集団的自衛権を『違憲』とした、
小林節慶応義塾大学名誉教授も含まれている。
賛成派の面々は、保守系の人たちだから、
司会の水島氏は公平を保つため、反対意見の人たちに
なるべく時間を与えて、見解を述べてもらっていた。
まあこうした地上波にのらないネット上の討論会としては
かなり冷静かつ、本音の部分が聞けたような気がする。
細かいことはいちいち書かないが、反対派の人たちは
ほとんどが弁護士、憲法学者、国際法学者、ということで、
やはり集団的自衛権は違憲である、ということの説明を
理論的にしていたが、中には、弁護士でもきわめて情緒的な
意見を長々と述べる人もいて、違和感を覚えることも多々あった。
しかしやはり憲法の厳密な解釈からいうと、自衛隊さえ違憲なのであって、
自衛権は認められていない。
砂川判決で最高裁が自衛権を認める、とした判例があるだけである。
反対派の多くは個別自衛権は認められているが、
集団的自衛権は憲法違反である、というのが基本的態度で、
これは憲法学者としては当然のスタンスであろう、とわたしも思う。
違憲、と発表して物議をかもした小林節名誉教授はしかし
憲法改正論者である。集団的自衛権を行使できるようにするには
法案を廃棄し、まず憲法改正をすべき、という態度である。
しかしその小林節名誉教授さえ、最近では、憲法9条のおかげで
日本はこれまで米国の戦争や紛争に巻き込まれずに済んで
平和だったのだから、現状維持でもいいのではないか、と
思うようになってきた、と、三時間目の後半でぽろっと本音を
つぶやいている。
反対派のほかの学者たちも、日本は平和なのだから、
むざむざ集団的自衛権を行使する必要はない、という意見なのである。
しかし、現状では自衛隊は武装しているけれども、
自衛隊法などにより、その行動はじつに限定されている。
これは別のところから得た情報なのであるが、
ほかの主権国家はみな軍隊をもち、行動規範は
ネガティブ・リスト、といって、最低限してはいけないことのみが
規定されているのに対して、日本ではポジティブ・リスト、つまり
していいことのみが規定されている。
ということは例えば、非番中の自衛隊員が、日本国内で、
外国人に攻撃されている友人を助けようと手をだすと、それは違反である、
つまり、ポジティブ・リストにない行為であるからしてはならないのである。
そして領空侵犯があっても、日本の自衛隊はそれを攻撃できない。
それは憲法違反になるからである。
日本は平和だ、といってはばからない憲法学者たちであるが、
実際に過去において、北朝鮮は日本人を500人あまりも拉致し、
その方々の生死さえ不明である。
日本政府の外交努力もむなしく、日本に帰国できないままなのである。
また近年尖閣諸島において中国からの領空領海侵犯が
頻発しており、これに対しても、日本は手を出せない。
小笠原諸島沖の日本海域において、無数の中国漁船が
さんごを無断で採取してきたことは記憶に新しいことである。
逆に危機感をもっている人たちは、やはり集団的自衛権行使し、
自衛隊法を整備して、出動できる態勢をはやく打ち立てるべきだ、としている。
一般国民の中での反対派は、この法案に『戦争法』とレッテル貼りし、
即、戦争になり、徴兵制がしかれ、日本国民の命が奪われる、と
大騒ぎしている人たちが少なからずいる。
学者たちは、さすがに、徴兵制などについてはありえない、と
否定しているし、現状では世界大戦のような全面戦争になることは
まず考えられず、日本に脅威を与える紛争解決をしていくことになるだろう、
また現在の兵器は十分に訓練を受けた自衛隊員でないと操作できず、
徴兵制は非現実的である、という解釈である。
しかしある学者は、紛争地域での軍事活動をしている自衛隊員が
捕虜としてとらえられたとき、国はなんの手出しもできない、という
解釈がある、として賛成派の人たちからブーイングに近い声が上がった。
このような解釈があるということは、政府内、あるいは学者たちの間でも
有事の際の日本の行動のありかたについて、十分共通の理解が
なされていない、という証拠であろう。
小林節名誉教授は、中国を黙らすには日本の国力をもって核爆弾を
搭載したミサイルを優秀な潜水艦につみ、(海域に)潜水艦を
数隻配備しておけば中国のちょっかいはピタッととまるだろう、
しかし世界唯一の被爆国日本としては、これはタブーなのである、
などと物騒なことを言って笑っていたが…。
まあ結局、憲法違反であるとかないとかいう論議は不毛なのである。
三権分立であるから、違憲かどうかは最高裁が判断を下すべきもので、
憲法学者の解釈で国会が100時間も無駄な討議をするなど
国民の税金の無駄遣いである。
集団的自衛権を拒否した場合、日米安保にはどのような影響が
あるか、米国はどのような態度にでるか、という一歩踏み込んだ
議論がなかったのはさみしい。
さて、もう一つ、興味深かったのは、東京大学哲学研究室から
ネット公開されている、一ノ瀬正樹教授の論文である。
(追記: 一ノ瀬教授は、「ハチ公と上野英三郎博士像」の発案者である。)
「『いのちは大切』、そして『いのちは切なし』――放射能問題に
潜む欺瞞をめぐる哲学的再考」というタイトルがついている。
注釈を入れて47ページに及ぶ大作なのであるが、内容はそれほど難しくない。
簡潔に概要を説明すると、2011年3月11日の東日本大震災のあと
津波震災により起きた福島原発事故の直後、無理な避難によって
多くの方々が命を落とされた「双葉病院の悲劇」、そして長い避難生活で
健康を害したり、亡くなられたりした方々、つまり避難行動に伴う震災関連死が
すでに1600人以上現実に発生してしまっている事実にかんがみ、
放射線被ばくによらず放射線被ばくを避けることによって惹起されてしまった
被害についての哲学的考察である。
まずこの論考の根底には、福島原発事故による放射線被ばくのリスクは
結果としてかなり低い、という科学的根拠を前提としている。
リスクというのは確率や有害性の度合いという量的尺度を本質的に
含む概念であるから、リスクのあるなしで語るのではなく、「どのくらい」
リスクがあるか、という量的語りをしなければならない、というのである。
そして「多くの部外者が過剰危険視の情報を発信したことによって、
心理学でいうところの『曖昧さ耐性』が低い状態に導かれてしまった、
換言すれば、『曖昧さへの非寛容』という事態に導かれてしまった」と
分析する。
すなわち、グレーゾーンの状態が耐えられず、「曖昧さの非寛容」状態に陥り、
冷静な判断ができなくなる、ということである。そして心理学で言う、
いわゆる「手に入れやすさヒューリスティックス」、つまり人は
身近に生々しくあって手に入れやすい・知覚しやすい事象に関して、
そうでないものと比較して、発生する確率が実際のデータや頻度よりも
一層高いと思ってしまう傾向性がある、ということである、としている。
「いのちは大切」という、金科玉条を主張して、避難推奨発言をするのは
欺瞞である、という論理展開である。
「『いのちは大切』というスローガンは、それを根拠に何かを正当化しようと
しているときには、むしろ受け取るほうとしてはつねに懐疑的にならなければ
ならないほど、欺瞞的な思想である」
だから放射線被ばくの問題と、原発の是非の問題とは切り離して
考えなければならないが、避難すべき、という提言は実際は
善意からの提言であるから、やっかいである、しかし
当事者意識をもって発言に責任を持つべき、という考えである。
実際、福島の被災者が受けている困難性への想像力を欠いた視点で、
福島原発事故を、「ヒロシマ、ナガサキ」のようにカタカナで
「フクシマ」と呼称することが、被災者の方々にどれだけ精神的負担を
強いているのか、われわれはよく考えてみなければならない。
また同様に、「帰宅したほうがいい、という言説にも同様に欺瞞性、
あるいは当事者視点を欠いた偽善性さえもが、漂わざるをえないのである。
この両面の欺瞞性に鋭敏でなければ、たぶん、当事者以外の人が何を言っても
空虚である。なんとしたらよいのか」と一ノ瀬教授は悩む。
倫理の究極の目的は「私たちの幸福」である、としたら、被ばくさせられたという
「不快感」「不条理感」「不安感」「不信感」などの「不の感覚」の不必要な部分を
繰り返し言説を重ねることで払拭していくこと、「それがささやかながらも
私のできるミッションである」という結論に達する。
サミュエル・ジョンソンの言った言葉
『地獄への道は善意で敷きつめられている』という
善意が被害に転じていく過程、これはわたしも経験したことがある。
みな善意なのだ、悪意はない、それなのに皮肉にも被害への道へと
迷い込んでいく。
あくまで「いのちは切なし」、つまり「いのち」ははかなく、壊れやすく、、私たちの
能力ではそうした脆弱さを引き留めることはできないという、ある種の無常観や
諦観とともに語られるのでない限り、「いのちは大切」という思想は
ほとんど空虚でありむしろ虚偽である、というのである。
この論文では一ノ瀬教授が、自らが感じた恐怖心の源泉を模索し、
分析し、悩み、考え、そしてなんとか結論らしきものを手探りで求めていく過程が
率直に、そして謙虚に記されている。
意思決定は可能な限り全力でベストな中庸を探らなければならず、
「いのちは大切」という思想をカテゴリカルに主張するのではなく
「いのちは切なし」というはかなさ、脆弱性を、この世界の
実相だとして受け入れる高潔さが求められるのである。
随所で、たしかにおっしゃる通り、と思わせる文章に出会う
稀有な論文であった。
チャンネル桜『平和安全法制討論』危機対応と安保法制 (平成27年7月18日)
一時間目のURLのみ載せておきます。
https://www.youtube.com/watch?v=Z4kxJcVNI8c
一ノ瀬正樹教授、「いのちは大切」、そして「いのちは切なし」 ―放射能問題に潜む欺瞞をめぐる哲学的再考
PDFはこちら↓
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf/Ichinose2015b.pdf
こちらこそ、よろしくお願いします。