英国の国民投票で離脱が僅差で勝利をおさめたのが
去る6月23日のことであった。
離脱を予期していた方々もいらっしゃるが、
わたしはおそらく希望的観測から残留が勝つだろう、と
たかをくくっていたので、この結果には正直驚いた。
あの日以来、毎日BBCの国際放送を一日の大半かけて
見ているのだが、正直、あらあらイギリスさん、何やってんの?
と、あっけにとられることばかり連日起きている。
ロンドン、スコットランド、北アイルランドでは残留票が
多かったにもかかわらず、ロンドン以外のイングランド、
ウェールズでは離脱が過半数を占めていた。
開票されたときには残留が予想されていたが
後半、離脱票がどんどん開票されていった理由は、
残留派と離脱派が均一にそれぞれの地域で混在しているのではなく、
地域によって真っ二つに分かれていた、ということによるものだろう。
離脱派の多くは50代以上の人たち、そしてイングランドの
農家であるようだ。
ロンドンはやはりビジネスと金融の中心地であるから、
EU離脱によるデメリットが大きいことを十分認識していた。
離脱が勝利した直後は、イギリスのいわゆる労働者階級の人たちが
満面の笑みで、これからは外国人の移民に仕事をとられることもないし、
自分たちのことは自分たちで決められる、と豪語しているインタビューが
よく見られたが、その後、労働党のシャドウキャビネット(影の内閣)の
混迷ぶり、そしてキャメロン首相の辞任表明にともなう
後継者選びのごたごたなど、どこか見苦しい様相を呈している。
離脱をあおっていた張本人のひとり、元ロンドン市長のボリス・ジョンソン氏は
金曜日の演説で、英国はこれで繁栄する、自由になる、などと
きれいごとをのべたあとで、この国の将来をリードしていく人物は
わたしではない、と、不出馬宣言をして、彼を応援している人々を
唖然とさせた。
そのあと、出馬を表明したマイケル・ゴーブという男はジョンソンの
盟友であるが、この人は国民投票以前には
ジョンソンと一緒に、EU離脱したらNHS(国民医療)予算を増やし、
付加価値税や市税を軽減し、年金を引き揚げ、
交通システムを改善し、EU拠出金を芸術・科学、農家などにまわす
と言って離脱キャンペーンを大々的にやってきた輩なのである。
それが、いざ投票で離脱が決まると、そうした豪語はたちまち
魔法が解けたように、空約束、となってしまった。
離脱に投票した農家も、実際にはEUからの助成金が
農家一軒あたり、年間17,735ユーロ出ていて、
EU域内から安い労働力が24,000人も来ていて、
このEUの助成金が農家の所得の55%を占めていること、
など、いまさらながら気づいたような、そんなテイタラクである。
離脱に投票してみたものの、実際には離脱がどういう結果を
もたらすか、あまり考えていなかった愚かさ加減が
今になって露呈されてきている。
国民投票、とは愚民政治につながる危険性をはらんでいるのだ。
英国のパスポートがいますぐEUでは認められない、と
思ったのか、アイルランド国籍取得しようとする人たちが
殺到して、アイルランドから懸念の声も上がった。
スコットランドは英国からの独立の是非を、再び
国民投票で問いたい意思をあらわし、
イングランドとは別にスコットランドという地域として
EU残留をブリュッセルにかけあっている。
ひどい混乱ぶりであるが、やはり一番ひどいのは
英国内の政治がリーダーシップ問題で停滞していることだろう。
ただよく考えてみると、国民投票で離脱が過半数だった、というだけで、
英国が国として離脱を宣言するまでは、何も起こらないわけである。
その宣言をするのは自分ではなく、次の首相にまかせる、と
キャメロン首相は責任を逃れるように言っている。
離脱派がのぞんでいるのは、人の自由通行をやめたい、ということである。
EU域内から移民が大量にやってきて、英国人の失業が増え、
貧富の格差が広がっている、という不満が離脱につながった。
しかしEU本部は人の自由通行とEU市場アクセスはセットのものであって、
「ア・ラ・カルト」ではない、としている。たしかに
人の自由通行は拒否しながら市場アクセスは今まで通りというのは
虫のよすぎる提案である。
さて、これからどうなっていくのか、だれにも予測ができない。
20世紀に二つの世界大戦を戦った悲惨な歴史から、
欧州統合の理念が生まれた。しかし、
EUの規則などにがんじがらめになり、移民問題がますます
暗い影をおとすようになって、EU離脱を望んでいるのは
英国だけではない。この英国の離脱がきっかけで
ドミノ現象がおきることを、ブリュッセルのEU本部は恐れている。
さて、そんなEU離脱の嵐のなか、7月1日早朝、
ソンムの戦い、100周年を記念して、おごそかな
追悼の儀式がフランス、そしてイギリスで行われた。
1916年7月1日、午前7時30分(フランス時間)、合図の笛がなる。
塹壕から英国兵たちが這い上がって、ドイツ軍と戦ったのである。
"Over The Top"とよばれるこの作戦は、大失敗に終わり、
一日で19,240人の英国兵が命を落とし、
57,470人が戦傷した、という、英国陸軍の歴史で最悪の戦いとなった。
そのご11月18日まで続いたこの戦いで、100万人ほどの人たちが
死傷し、捕虜になったという。
またこのソンムの戦いで、英国の秘密兵器
戦車が始めて使用された、という。(これは10月になってから)
7月1日、北フランスでは赤いポピーの季節である。
だから英国ではポピーは無名戦士の象徴となっている。
イギリスに住んでいた時、車で北フランスをよくとおったが、
延々と続く麦畑のあいまに、白い十字架や墓碑がならんでいる墓地が
いくつも目に入った。
『西部戦線、異状なし』、というレマルクの小説があるが、
まさに西部戦線となったところ、国のために戦って亡くなった
無辜の人々がいたからこそ、わたしたちの今の生活がある。
フランスでもイギリスでも、そうして亡くなった兵士たちの
慰霊碑があちこちに建てられている。
だから戦争はやめろ!軍備をするな、
などと、欧州の人たちは言わない。
戦争は悲惨である、しかし起きてしまうものである、
だから国を守るための軍隊強化が必要であり、
戦争が起きないように国同士が連合してお互いを
牽制しあおう、という哲学がうまれたのである。
それはよくわかる。
しかし、EUは成功したか?
こたえは明白である。
結局EU委員会のエリートたちが決める規則などで
それぞれの国の主権がおびやかされるほどがんじがらめになり
各国の経済はそれぞれの国にまかされていても
金融がEU主導ではにっちもさっちもいかない。
第一次世界大戦のときの英仏は、ドイツの覇権をおさえるために
戦い、多くの人々の生命が犠牲になった。
そして再び第二次世界大戦でも、あまたの命が戦場に散っていった。
空爆で一般市民も犠牲となった。
BBCではソンムの戦いの貴重な映像の一部を
サミュエル・バーバー作曲の Agnus Dei をBGMに
繰り返し流している。
それを見ると、わたしは目の奥が熱くなってしまう。
もう30年ほども昔のこと、東京の世田谷に住んでいたとき、
自由が丘まで、東急コーチという、ミニバスでよく出かけたものだ。
午後には、近くの学芸大学付属小学校の児童たちが乗ってきて、
バスの中はたちまち騒々しくなる。
ある日、わたしの座っていた席のすぐ横に、小学3年生くらいだろうか、
あどけない顔の男の子が同級生の女の子たちに
自慢げに話しているのが耳に入った。
第一次世界大戦って、トレンチ・ウォー、って呼ばれてるんだぜ、
トレンチ、って塹壕のことなんだ、ほら、穴をほってその中に
兵隊が隠れて、敵がやってくるのを見張っている、
その塹壕なんだ・・・、知ってるかい?
その男の子は実に熱っぽく話をするのだが、女の子のほうは
ふーん、とあまり関心をもっているふうでもない。
今でもあの子どもたちの会話と紺の制服姿が
記憶の中から鮮やかによみがえってくる。
男の子ってやっぱり戦争とかに興味をもつんだな、
と思いながらその会話を聞いていたわたしであった。
「戦った人たちの目を見たり、体に触れたりすることはできない、
でも、わたしたちにできることは、その人たちのことを忘れずに
思い出してこういうこと、
ありがとう、と」
BBC、「ソンムの戦い」記念日特別番組の予告編から
もとの投稿はYahooブログの『アンダルシアの猫便り』です。
そちらでは画像も載せています。
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