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不思議活性

ちょっとした幸せを感じられたらな

老子道徳経 81

2024-04-28 05:26:07 | 老子道徳経
  
  第八十一章 顕質(質朴を顕す)

信言は美ならず、美言は信ならず。
善者は弁ぜず、弁者は善ならず。
知る者は博からず、博き者は知らず。
聖人は積まず。
既に以て人の為にして 己 愈(おのれいよ)いよ有り。
既に以て人に与えて 己 愈いよ多し。
天の道は利して害せず。聖人の道は為(な)して 争 わず。

 この章は、天の道は、万物に対して、利することがあって、損を与えることがないが、その、天の道を、常に行っている聖人は、信言については如何に対処しているか。善ということ、知るということ、蓄えるということについては、いかに対処しているかということを明らかにするものである。

 老子八十一章を通じて、道について説いている言葉は、老子が、信言としているところであるが、世人の憧れるような、美言をもって述べることはできなかった。
 また、道を行う善人は、世人の憧れるような活動をしているようには、弁ずることができなかった。また、真にものごとを知っているということは、華やかに見える博識のようには説くことができなかったことを、
信言は美ならず
と言ったのである。

 美言は、聴く人の意を迎えるように、或は、感情を損なうことのないようにと、修飾せられた言葉であるから、それだけ信実とは違ったところがある訳である。

 真にものごとをよく知っているものは、博くものを知っているものではないのである。博くものを知っている、という者は、外見のための物識りである場合が多いので、深く事理を極めているというわけではないから、信念というものがないのである。従って、知っているだけである博識は、よくものごとを知るものとは言えないのである。

 天の道は、万物を養い育てるというところにあるのである。万物は、自然から限りなき恵みを受けて生れ、成長し、繁殖し、祖先から受けたものは、その子孫に受けつがせているのである。これは、万物が自然の恵みを充分に利用できる機能を備えているからである。

 聖人が平等を尊ぶのは、人は、お互いが平均した力をもち、平等の立場にあるようにするのが、争いの心を生ぜしめないためには、最もよいことだと考えたからである。
 人を、道から遠ざけているものは、争いの心である。
 もし、争いの心が無くなれば、その人は、怒る心も、人を侮る心も、人を憎む心も、人を恨む心も、悲しみも、一切を忘れたようになって、心の平静を保つことができるようになるばかりでなく、何がなくても満ち足りた、豊かな心になれるのである。
 
 老子の書に、一貫して述べられていることは、人の心から、争いの心を無くすことである。以上のような訳で、
 聖人の道は為して 争 わず。 
の言葉をもって、老子の全文の、結びの言葉にしたことと考えられるのである。

・『老子』<万物平等の人生論>瀬尾信蔵著より紹介しましたが、老子八十一章、いかがでしたか。長いお付き合いありがとうございました。
 道を求めて、道に従って生きるということ。これは、きょうを生きるということであり、改めて、次のようになれたらなと思うわたしです・・・・。

 人が、苦しむようなことがあるのも、
 迷うようなことがあるのも、
 悲しむようなこともあるのも、
 争う心が起こっているのである。
 もし、争いの心が無くなれば、
 その人は、怒る心も、人を侮る心も、
 人を憎む心も、人を怨む心も、
 悲しみも、一切を忘れたようになって、
 心の平静を保つことができるようになるばかりでなく、
 何がなくても満ち足りた、
 豊かな心になれるのである。


老子道徳経 80

2024-04-26 05:32:31 | 老子道徳経

  第八十章 独立(国は独立して民は移ることがない)

国を 小 とし民を寡とす。
民をして什伯 (じゅうはく)有らしむ。
人の器にして而も用いざれば、
民をして死を重んじ、而して遠く徒(うつ)らざらしむ。
舟輿(しゅうよ)有りと 雖 も之を乗ずる 所 無し。
甲兵有りと 雖 も之を陳(つら)ぬる 所 無し。
民をして 結縄 に復して之を用いしむ。
其の 食 を甘(うま)しとし、其の服を美とす。
其の居に安んじ、其の俗を楽しむ。
隣国相望みて鶏狗(けいく)の声相聞こゆ。
民、老死に至るまで相往来せず。

 この章は、小国で少数の人民よりいない所こそ道が行なわれ易いのであって、人民の幸福には、勝れた人も、便利な器物も、美食も、美肌も必要としないものであることを説く。

 自然の状態において、最も道に近いのは赤子である。赤子が誰にも愛されているのは、人は道に近いものを愛するということである。

 什伯人之器は、十人、百人の長となることができる器量人の意。
 死を重んじは、身体を大切にする意。
 舟輿は、船と車のことで、人や物資を遠くへ運ぶのに使われるものである。
 縄を結びは、文字のなかった太古においては、大切なことを後になって思いだすために、縄を結んでおいて心覚えとしたことをいう。
相望みは、お互いに、隣国の樹木や、家や、人馬の動く有様等が見えるのをいう。

老子道徳経 79

2024-04-24 05:30:35 | 老子道徳経

  第七十九章 任契(契を司る者に任す)

大なる怨みに和(むく)うは 必 ず余怨有り。安んぞ以て善と為すべ
けんや。
是を以て、聖人は左契を執りて人を責めず。
有徳は契を 司 り、無徳は徹を 司 る。
天道は親しみ無し、常に善人に与(くみ)す。

 過酷な政治を行って民の怨を受け、その怨をやわらげようとして、税を軽くしたり、税の取りたてをゆるめたりしても、怨は消えるものではないのである。
 一度重い税をかけられ、激しく取り立てられると、民は食う物や着る物までが足りなくなって、飢えや寒さに苦しみ、親子兄弟が共に暮らすことができず、はなればなれになるものさえ生ずるからである。

 以上のようなわけであるから、聖人は約束をしたことを引合すための左契を取るが、債権者の持つべき右契は持たないのである。これは、催促をして、人からものを取り立てるということを忠実に行えば、相手が不作であったり、病気であったりしたときは、相手を困らせ、怨みを受けることになるからである。
 有徳者は人を困らせるような催促は決してしないようにするために、契約したときには債務者の持つ左契をとって、相手が、契約を実行しようとして、来たときにのみ、それを合わせるように使うのである。

 左契を執りの、左契は、割符の左半分である。昔は貸借の契約をなす場合、二つに割った割符の右半分、即ち右契は、貸した方、即ち債権者である方が執り、借りた方は左半分、即ち左契を執ったのである。左契を執りは、債務者が持つ方を執ることである。

 無徳は徹を司るの、徹には、明らか、通す、とげる、剥ぎ取る等の意あり、無徳は徹を司るは、徳のない為政者は、わりつけた税は必ず取り立てることをいう。


 




老子道徳経 78

2024-04-20 06:07:47 | 老子道徳経

  第七十八章 任信(信に任すことのできる 言(ことば) )

天下の 柔弱 は水に過ぐるは莫し。
而して 堅強 を攻むる者の之に能く勝れるもの莫し。
其の以て能く之より易きは無し。
弱の 強 に勝ち 柔 の剛に勝つは、天下知らざること莫(な)く、
能く行なうこと莫し。
故に聖人云く、国の垢を受くる、是を 社稷 (しゃしょく)の主と謂う。
国の不祥を受くる、是を天下の王と謂うと。
正言は反するが若し。

 水は他の物を脆弱にしたり、崩壊させたりすることとができるのであるが、水と同じように、他の物を脆弱にしたり、崩壊させたりすることのできるものは、他にはないのである。

 柔弱が、常に剛強に勝つということは、柔弱はいつも急がず、あせらずに、剛強の分子と融合し、分解し、或は、結合してその剛強性をゆるめ、或は、崩壊させる作用をするのである。
 老子が、柔は剛に勝つ、ということは、物理的の分解や結合のことである。この理を心理作用に用いれば、対立の心、争いの心を、固執することの無益なることを悟り、これを無くするのに最もよい方法であると考えていたのである。

 社稷の社は、土の神、稷は、穀の神、国は土と穀によって人を養う故これを祀る。転じて、社稷は国家の意に用いられる。


老子道徳経 77

2024-04-18 05:46:49 | 老子道徳経

  第七十七章 天道(天道は弓を張るがごとし)

天の道は其れ猶(なお)弓を張るがごときか。
高き者は之を抑え、下き者は之を挙ぐ。
余り有る者は之を損じ、足らざる者は之に与う。
天の道は余り有るを損じて足らざるを 補 う。
人の道は 則 ち然らず。足らざるを損じて以て余り有るに奉
ず。
敦(たれ)か能く余り有るを以て天下に奉ぜん。唯(ひと)り、有道の者な
是を以て聖人は為して恃まず、功成りて処(お)らず、其の賢を見
わさんことを欲せず。

 天の道は、弓を張るときに、高い所を抑えて低くなし、低い所を挙げて高くするように、総ての高き者は抑えるように、低き者は挙げるように、また、有余あるものはそれを減じて、足りない者に補ってやるように、平均させるように働くものである。
 然るに、人のやることは、これと反対であって、足りない者の方を減損させて、有り余っている者へ献上しているのである。
 為政者も、下の役人も、富裕者も、地主も、皆自らを利することを先に考えて、他を利することは考えないのである。

 聖人は、天の道に順って、余っているものを、足りないものに与えて、誰もが平均するようにと計っているのであるが、なしたことが成功しても、そのことに対して、何かを期待したり、恩にきせたりしないのである。

老子道徳経 76

2024-04-16 04:28:16 | 老子道徳経

  第七十六章 戒強(強を戒める)

人の生くることは 柔弱 なればなり。其の死することは 堅強
なればなり。
万物草木の 生 ずることは 柔脆 なればなり。其の死すること
は枯槁(ここう)なればなり。
故に、堅強 なる者は死の 徒 にして、柔弱 なる者は生の 徒
(ともがら)なり。
是を以て、兵強ければ勝たず。木強ければ共にす。
強大 なるは下に処り、 柔弱 なるは上に処る。

 人の生れたときは全身柔軟であって、骨さえ柔らかである。
 心のかたくなのところがなくて、自由に変えることができる。
 泣いていても、直ぐ笑うようになるし、おこっていても、直ぐにこにこと、機嫌をよくすることができるのである。
 しかし、人は生長し、年を取るに従って柔軟さがなくなって、身体が硬くなり、死ねば身体は全く固くなって、手足を曲げることも難しくなってしまうのである。
 また、心に潤いとか、自由さというものが少なくなると、怒りや、憎しみや、悲しみの心が生じたときに、これを無くすることは容易にできなくなるのである。
 以上述べたようなわけで、兵が強がっているときは身体も強張り、柔軟さがなくなるから武技も上手になれず、敵に計られやすくなるのである。
 強大なるもの、人の上に立つ者は、その大きな使命を果たすために、柔弱謙譲の徳を守らなければならないことが明らかである。


老子道徳経 75

2024-04-12 05:59:37 | 老子道徳経

  第七十五章 貪損(たんそん)(貪(そこな)れば 損 う)

民の 飢 するは、其の上の税を食むことの多きを以てなり。
是を以て 飢(いいうえ) す。
民の治め難きは、其の上の為すこと有るを以てなり。是を以
て治め難し。
人の死を軽んずるは、其の生を求むることの厚きを以てな
り。是を以て死を軽んず。
夫れ唯り生を以て為すこと無き者は、是れ生を 貴 ぶに賢れ
り。

 上に立っている為政者は、民の租税を以て仕事をなし、生活をしているものである。
 もし、上に立つ者が名利の念に駆られて、大きな事業を起こしたり、豪奢な暮しをしたりすれば、必ず重税を取り立てることになり、そのために、民は自分の食料にもこと欠くようになり、飢えに苦しむ者が多く生ずるようになるのである。

 地位を得、或は富を得れば、その生活を豊かにし、生を全うすることができると思ってやっていることが、実は、無理なことをしたり、冒険を犯すことになって、常に身を危険にさらすことになり、自らの死を軽んずることになっているのである。

 真に生を愛するものは、生を豊にすることに執着をもたず、何も目立ったことをしないのである。このことが、生を豊かにすることよりも勝ることになるのである。


老子道徳経 74

2024-04-10 06:00:34 | 老子道徳経

  第七十四章 制惑(惑いを制すべきところ)

民、死を畏れずんば、奈何ぞ死を以て之を懼(おど)さん。
若し民をして常に死を畏れしめ、
而して奇りを為す者は吾執らえて之を殺すことを得ば、
敦(たれ)か敢えてせん。
常に司殺する者有り。
夫れ司殺する者に代わる、是を 大匠 に代わりて斲(けず)ると謂う。
夫れ大匠に代わりて斲るは、其の手を傷つけざること有ること希なり。

 民が死を畏れないならば、死刑という重罰を以て嚇かしてもききめはないであろう。
 民が死を畏れないようになるのは、重税を課せられたり、職業上に種々の煩わしい禁令を出されたり、絶えず強盗や騒擾が人民を悩ましていて、この世に生きる喜びも楽しみもないと思うからである。
 
 第二十七章に、
 聖人は常に善く人を救う。故に棄人なし。常に善く物を救う。故に棄者なし。不善人は善人の資なり。その資を愛せざれば、智なりと雖も大いに迷う。
 とあり、人を棄てるということは、有道者にはないことである。
 大匠 に代って木をきれば、無理なことをすることになって、必ず手を傷つけることになるように、天道に代って人を重罰するということは、必ず失敗し、自らも傷つくことになるのである。

 大匠は、功匠と、自然の偉大にして匠みなるわざとの両方を指す。



老子道徳経 73

2024-04-08 06:07:47 | 老子道徳経

 第七十三章 任為(天は人の為すところに任す)

敢に勇なれば 則 ち殺す。不敢(ふかん)に勇なれば 則 ち活く。
此の両つの者、或いは利し或いは害す。天の悪(にく)む 所 、
敦(たれ)か其の故を知らん。
是を以て、聖人は猶これを 難(はばか) るがごとし。
天の道は、争わずして善く勝つ。言わずして善く応ず。
召かずして自ずから来る。繟然(せんぜん)として善く謀(はか)る。
天網は恢恢として、疎といえども 失 わず。

 敢えてするに勇となることは、生を生ずるの厚きことであって、第五十章に述べてあるように、死の徒となることである。
 これに反して、敢えてせざるに勇なる者は、善く生を摂する者であるから、生の徒であり、其の死地無き者であり、常に活路を開いているものである。

 天地自然の道は、古来から今日に至るまで、少しも変らないものである。人間は、自然に背き、自然に逆らうときは、真に微力のものであるが、自然の理に従うときは、自然はこれに応えてくれるのである。

 自然のなすことはゆったりとして、性急なところが少しもないから、いつ春から夏に移ったか、その境目は分からないが、いつの間にか春は逝き、夏の季節に変っているように、自然のことは行われるのである。


老子道徳経 72

2024-04-02 05:46:22 | 老子道徳経

   第七十二章 愛己(己を愛する)

民、威(そこ)なわるることを畏れざれば大威至る。
其の居る 所 を狭むること無かれ
其の生くる 所 を 厭(しいた) ぐること無かれ。
夫れ唯り厭げず。是を以て厭わず
是を以て、聖人は自ら知りて 自 ら見わさず。
自ら愛して 自 ら貴しとせず。
故に、彼を去てて此を取る。

 聖人は、自分の身を何よりも大切にしているのであるが、第七章に、
 聖人は、其の身を後にして身先んじ、其の身を外にして身存ず とあり、第十三章には、 身を以て天下をおさむることを愛すれば、乃ち以て天下を託すべし とあるように、人の望むような地位や、権勢には少しも執着心をもたないようにして、天から附与せられたことは厭うことなく、固く守るべきである。それが、道に適うことであるからである。

 威を畏れざれば、の威は、天命のことを指す。
 其の居る 所 を狭しとすること無く、の無は、勿れの意。居る所は、現在の立場とか、境遇とかを指す。
 故に、自分の居住している所や、自分の地位や、自分の生活上のことには満足して、天与の分を固く守るようにすれば、天意に適うことになり、また、人からも信頼を受けることになって、その身は安泰となるのである。

 自ら知りて自ら見はさずは、道について明るくても、自らそのようにあらわさないのである。