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不思議活性

ちょっとした幸せを感じられたらな

小倉百人一首 100

2024-12-28 06:07:08 | 小倉百人一首
   第百首

百敷や ふるき軒端の しのぶにも
なほあまりある 昔なりけり    

順徳院  
(1197-1242) 後鳥羽天皇の皇子。藤原定家に和歌を学ぶ。承久の乱で敗れ、配流地の佐渡で没した。

部位 雑  出典 続後撰集 

主題
栄えていた昔の御代を懐かしみ朝廷の衰微を嘆く心 

歌意
宮中よ、時代を経て古びてしまった建物の軒の端に、しのぶ草が生い茂っている。それを見るにつけ、朝廷が栄えた昔のよき時代がしのばれて懐かしく思われることだ。

 古くは、「ももしきの」で「大宮」の枕詞。「忍ぶ」と「忍草」とをかける。
 宮中の、古く荒れた軒端には、忍ぶ草が生えているが、その忍ぶ草を見るにつけても、いくら忍んでも忍びきれない昔の御代であることよ。

 『続後撰集』雑下、一二〇二に「だいしらず 順徳院御製」として見える。巻頭に天智天と持統天皇の御製二首をおき、巻末に御鳥羽院と順徳院のこれまた御製二首を据えたのは、やはり相照応しているものと見なければならない。
 『百人一首』がはじめは色紙の形であって、定家自筆の色紙の残存から、すくなくとも撰歌までは定家と考えられるのに対して、それを成書し配列し、まとめるまでの段階は、確実には知るすべもないが、『百人秀歌』から『百人一首』への過程の間に、やがて配列にも意を用いていることは察せられよう。

後鳥羽院の期待を受け即位したが、討幕を計って承久の変に敗れ、佐渡に遷御。『続後撰集』以下に百五十四首入集。

・『百人一首』の紹介でしたが、長いお付き合いありがとうございました。
 どれだけそれぞれの思いに近づけたか心もとないのですが、日本には、和歌という古典詩があったということ。そして、短歌は、俳句とともに日本人の心を表現する一篇の詩として、いつまでも愛され続けていくのでしょう。
 私は短歌、俳句と作ったことはありません。自由詩というか、散文詩というか、若かりし頃、浮かんでくるおもいを詩にしていました。いつからか、醒めてしまったというか、詩を書くということから遠ざかっています。
 こうして、初めて『百人一首』を読んだのですが、千年も前の平安時代の人、この令和の人、人としての思いは相通ずるのですね。これからも、その人としての思いを大切にして、平凡な日々を過ごしていけたらなと・・・・。


小倉百人一首 99

2024-12-27 05:37:03 | 小倉百人一首
 第九十九首

人もをし 人も恨めし あぢきなく
世を思ふゆゑに 物思ふ身は    

後鳥羽院          
(1180-1239) 高倉天皇の皇子。承久の乱で鎌倉幕府打倒を図るが失敗。配流地・隠岐で没した。

部位 雑  出典 続後撰集 

主題
愛憎が交錯し、思い悩みつつ世に生きる身の嘆き 

歌意
ある時は人々を愛しく思い、またある時は恨めしいとも思う。この世はどうにかならないものだろうが、それゆえに物思いをする私であるよ。

「をし」は「愛し」いとしく思う。「あぢきなく」 つまらなく、この世を思うところから、いろいろともの思いをしている自分は。

 後鳥羽院は第八十二代天皇で、五歳で即位し、十九歳で譲位し上皇となりました。時に不興をかいつつ、院を心情から慕っていた定家にとって、讃岐配流後の境遇はあまりにいたましく、この述懐歌がえらばれたと思われる。

 御子左家風を指示して、新古今歌風を形成させ、和歌所を復興、『新古今集』撰進を親裁した。御集に『後鳥羽院御集』。『新古今集』以下に二百四十八首入集。


小倉百人一首 98

2024-12-26 06:24:19 | 小倉百人一首
  第九十八首

風そよぐ ならの小川の 夕暮れは
みそぎぞ夏の     しるしなりける             

 従二位家隆  
藤原家隆 (1158-1237) 父は光隆。藤原俊成に和歌を学び、定家らとともに『新古今集』を撰した。

部位 四季(夏) 出典 新勅撰集 

主題
秋の気配が感じられる、夏の終わりの夕暮れの情感 

歌意
楢の葉を揺らすそよ風が吹き、夕暮れは秋のように涼しい。しかし、上賀茂神社の境内を流れる御手洗川で行われるみそぎの光景を見ると、やはりまだ夏なのだなあ。

「ならの小川」京都市上賀茂神社の近くを流れる御手洗川。「みそぎ」川原などで水によって身を浄め、罪や穢れを祓い落とすこと。ここは六月祓(みなづきはらえ)の神事。
 『後拾遺集』夏の「夏山の楢の葉そよぐ夕暮れはことしも秋の心地こそすれ」の歌は本歌であろう。

定家と並称され『千五百番歌合』などの作者。和歌所寄人となり、『新古今集』撰者の一人。『千載集』以下に二百八十一首入集。


小倉百人一首  97

2024-12-23 06:17:51 | 小倉百人一首
  第九十七首

こぬ人を まつほの浦の 夕なぎに
焼くやもしほの     身もこがれつつ              

権中納言定家    
藤原定家 (1162-1241) 俊成の子。平安末期・鎌倉初期の代表的歌人。『新古今集』の撰に加わり、『小倉百人一首』を編纂した。

部位 恋  出典 新勅撰集 

主題
待てども来ぬ人を待つ女心のもどかしさ、嘆き 

歌意
待っても来ない人を待つ私は、松帆の浦の浜辺で焼いている藻塩の煙がなびいているが、この身も恋の思いにこがれていく、そんな気持ちなのだ。

「焼くやもしほの身もこがれつつ」 藻塩が焼けるのと、思いこがれる意とかける。身も心も恋いこがれつつ、私にはせつない毎日がつづくのです。

百人一首をえらんだとされる藤原定家本人の歌です。何よりもこの百首に、多くの作品の中からただ一首えらび入れた撰者定家の自賛歌である。

 天福元年で出家、法名明静。和歌所寄人として『新古今集』撰者に加わる。『新勅撰集』の撰者。家集に『拾遺愚草』。『千載集』以下に四百六十五首入集。


小倉百人一首 96

2024-12-22 06:15:35 | 小倉百人一首
  第九十六首

花さそふ 嵐の庭の 雪ならで
ふりゆくものは わが身なりけり          

藤原公経 (1171-1244) 内大臣実宗の子で、西園寺家を興す。太政大臣になった後、63歳にして出家した。

部位 雑  出典 新勅撰集 

主題
桜の落花に寄せて述べる自身の老いの嘆き 

歌意
桜を誘って散らす激しい風が吹く庭。そこに散り敷くのは雪かと思う。しかしふる(降る)のは雪ではなく、実は古びていく私自身なのだ。

 花を誘って、嵐が庭一面をまっ白にしているが

 落花をみての即詠だが、落花そのものをよむのではなく、眼前の「降りゆく」落花の光景から、「古りゆく」身へと掛詞を軸として想を展開させて、老いのなげきを述懐した歌。

 源頼朝の姪を妻にし、娘は関白道家に嫁がせ、孫娘は後堀河天皇の中宮にするといった婚姻政策で、権勢をふるいました。西園寺家の栄える基礎を築いた。
 定家の妻は、公経(きんつね)の姉で、公経およびその一家から、定家は大きな庇護をうけた。
 『新古今集』以下に百十二首入集。


小倉百人一首 95

2024-12-21 05:02:24 | 小倉百人一首
    第九十五首
 

おほけなく うき世の民に おほふかな
わが立つ杣に     すみぞめの袖  

前大僧正慈円    
(1155-1225) 藤原忠通の子で、兼実の弟。十代前半で出家して比叡山に入山。天台座主を四度歴任した。歴史書『愚管抄』の著者。

部位 雑  出典 千載集 

主題
世の人々のために仏の加護を祈ろうとする決意 

歌意
身のほどをわきまえないことだが、このつらい世の中を生きる人々に覆い掛けるのだ。比叡山に住み、修行の道に入った私の僧衣の袖を。そして人々のために祈ろう。

「おほけなく」 身分不相応に。比叡山にはじめて住んで、着しているこの墨染の袖を。

 形の上からは三句切、名詞止めの新古今調を形成してはいるが、どこかおおらかなところがあり、いかにも後に天台座主といった宗教界の大立物となった慈円のおもかげをよくしのばせてくれる歌である。

 承久二年、『愚管抄』をあらわす。新古今時代の代表歌人の一人。家集に『拾玉集』。『千載集』以下に二百五十五首入集。


小倉百人一首 94

2024-12-18 06:13:05 | 小倉百人一首
 第九十四首

み吉野の 山の秋風 さ夜ふけて
ふるさと寒く     衣うつなり      

 参議雅経          
藤原雅経 (1170-1221) 父は頼経。和歌・蹴鞠の飛鳥井家を興した。『新古今集』の撰者の一人。

部位 四季(秋) 出典 新古今集 

主題
きぬたの音が身にしみる、吉野山の秋の夜の寂しさ 

歌意
吉野の山から秋風が吹き、夜も更けた。昔、都だったこの里では寒さもいっそう身にしみて、砧(木や石の台)に置いた衣を打つ音が寒々と聞こえてくる。

 旧都吉野の里は、寒さとともに、衣をうつきぬたの音が寒々と聞こえてくることよ。きぬたは、布地をやわらげたり、つやを出したりするために、布を打つのに使う木、または石の台。

 『古今集』の冬の「み吉野の山の白雪つもるらし古里寒くなりまさるなり」の歌を本歌とする。

 家集に、『明日香井集』。『新古今集』以下に百三十二首入集。


小倉百人一首 93

2024-12-17 06:20:33 | 小倉百人一首
  第九十三首

世の中は つねにもがもな 渚こぐ
あまの小舟の     綱手かなしも  

鎌倉右大臣      
源実朝 (1192-1219) 鎌倉幕府を築いた源頼朝の二男。三代将軍となるが、甥の公暁に暗殺された。

部位 羈旅  出典新勅撰集 

主題
漁師のさまを見て、世の無常を嘆く哀感 

歌意
変わりやすい世の中ではあるが、ずっと平和であってほしいことだ。この海辺は平穏で、渚を漕ぎ出す小舟が引き綱を引いている光景が、しみじみと愛しく心にしみることだ。

「常にもがもな」「もが」は願望の助詞。「も」「な」と詠嘆の助詞。
 由比が浜あたりでの実際の景色をしっかりと心にとらえて、「常にもがもな」という強い詠嘆と願望をおのずからに吐露した歌であって、深く無常への哀感をたたえている。

 世の中は常に変らぬものであってほしいものだなあ。  その綱手を引くさまの、おもしろくも、またうらがなしくも感慨深く心が動かされることよ。

 万葉集の歌人として真淵・子規に称揚された。『新勅撰集』以下に九十一首入集。


小倉百人一首 92

2024-12-16 06:09:55 | 小倉百人一首
   第九十二首


わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の
人こそ知らね    乾くまもなし              

二条院讃岐        
(1141-1217) 父は源頼政。二条天皇や宜秋門院(後鳥羽天皇中宮)に仕えた後、出家した

部位 恋  出典 千載集 

主題
人知れぬ片恋の嘆き、悲しみ 

歌意
私の袖は、まるで潮が引いたときでさえ姿を現さない沖の石のように、いくらあの人が知らないなんて言ったって、涙で乾く間もないのですよ。

 あのお方のことを思って忍び音に泣き濡らす私の袖は、人は知らないでしょうが、
「寄石恋」という題詠。沖の石をもち出してきたところに独自性があり、技巧の冴えがあった。 殷富門院大輔とともに晩年の定家が高く評価していた女歌人であったことは『新直線集』の歌数からも知られる。
 
 新古今歌壇の中で、『正治百首』『千五百番歌合』の作者ともなる。初期の歌を集めた『二条院讃岐集』があり、『千載集』以下に七十四首入集。


小倉百人一首 91

2024-12-15 05:44:33 | 小倉百人一首
  第九十一首

きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに
衣かたしき ひとりかも寝む    

後京極摂政前太政大臣  
藤原良経 (1169-1206) 父は関白九条兼実。藤原俊成に和歌を学び、歌合を主催するなど歌壇で活躍した。

部位 四季(秋) 出典 新古今集 

主題
寒い霜夜のひとり寝のわびしさ 

歌意
こおろぎが鳴いている、霜の降りるそんな肌寒い夜、寒いばかりか私は、粗末なむしろの上に片袖を敷いて独りぼっちで寝るのだろうか。

「きりぎりす」いまの「こおろぎ」。 「衣かたしき」 自分の袖の片袖だけを敷いて寝る。

「さむしろに衣かたしき今宵も我を待つらむ宇治の橋姫」と「足引の山鳥の尾のしだり尾の長々し夜を独りかも寝む」の二種の恋歌を本歌にしている。

恋歌の匂いがただよっていますが、もとより秋の歌であり、抒情的に四季の歌をよむことは、『新古今』の一つの特色でもあった。

 三十八歳で急死。御子左家を後見、花月百首・六百番歌合などを催し、『新古今』歌風の醸成に力を注いだ。建仁元年和歌所の寄人となり、『新古今集』の仮名序を書き、巻頭の作者となる。書にもすぐれ後京極様といわれる。
『千載集』以下勅撰集入集三百十三首。