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不思議活性

ちょっとした幸せを感じられたらな

 古いアルバムより

2025-04-17 04:43:02 | 想い出
『古いアルバムより』


 先日、古いアルバムのなかの、両親の若かりし頃の写真を見て、両親について何か残しておかなくてはと思った自分です。


 最初の写真は、自分が生まれる前の姉と兄が映っている写真です。

 父は1923年(大正12年)生まれ~1989年(平成元年)享年66歳でした。母は1924年(大正13年)生まれ~2014年(平成26年)享年91歳でした。

 次の写真は父の二十歳頃の写真です。



 調べてみると、太平洋戦争は、1941年(昭和16年)12月7日~1945年(昭和20年)9月2日とあり、父は18歳から22歳の頃でした。
 私は、父が31歳のとき母が30歳の時の誕生でした。

 ふり返って、私は幼い頃から父と話すということはほとんどなく、時に父に反発ばかりしていた人生で、父は私の結婚を知ることなく私が35歳のときに死去でした。それが、亡き父以上のこの歳になり(母の死去は私が60歳のときです)、父親の歩んで来た人生を思うと、父親のすごさというか愛情を改めて思うのでした。
 小さい頃から、母親にべったりだった私は、母の愛情に育まれてきたことは言うまでもないのですが・・・・。母もいなくなり10年は過ぎ、ふと、人生って繰り返しかなと思うのでした・・・・。




古い日誌帳より

2025-04-15 05:05:15 | 想い出
『古い日誌帳より』



 私が田舎に帰ってきたのは、27歳(1981年)の頃だったかなと・・・・。でも、 詳しく調べてみると、私は、(1980年)昭和55年12月8日に、七年ほどの東京での一人暮らしから田舎に帰ってきていたのです。というのも、今は亡き父親の日誌帳に記されていたのです。親父はその頃、心房細動等で入院していて、私自身、東京での暮らしに行き詰っていて、母親からの「帰ってこないか」の声かけで、それではと、帰ってきたのでした。
 
 親父は、その後、1988年(昭和63年)に、再び脳梗塞となり、翌1989年平成元年一月を十日ほどで帰らぬ人となったのです。親父はまさしく良き昭和の人だったのです。いつからか、親父は日々の日記を書いていて、今手元には何冊かの日誌帳が残っています。その残された日誌帳から、親父の日々の暮らしと、その頃の私自身のことを、この令和の時代となった今、改めて知ることになったのです。以下、残された親父の日誌帳より。

 1980年 昭和55年度 (57歳)

 12月8日 (月) 朝 零下三度 晴れ 日中 六度

 ○○○、昨日、東京を引上げる為、荷物持ちに行き、運送屋頼み3.700円ばかりで2トン車にて、午后2時10分頃、無事○○○一緒にトラックにて帰る。
 一軒分の荷物なので、小さくとも、一通りの品あり。大変な荷物であった。
 自分、4ヶ月目で、身体の具合、もと通りのしっかりした身体にならず、だるいような気分、床に入り休む。

(初めて親父の日記を読み、私は、その頃の親父の身体のこと気持ちなど、ほとんど何も理解していなかったことを思うのでした。)

 12月9日 (火) 朝 零下四度 晴れ 日中 七度
 
 ○○○、9時半頃、市役所。転入証明、国民健康保険等の手続き。また、銀行へ行き生命保険などの支払いの手続き。運転免許証の住所変更をして、11時半過ぎ帰る。

(私のその日の出来事を、細かく記していた親父の姿に驚きです。)

 1981年 昭和56年度 (58歳)

 4月5日 (日) 朝九度 曇り 日中 十二度

 今日は、長女の○○1年生、4月2日入学式終わったが、祝いをしてないので、今日、中棚温泉を借り、料理一人2.000円とのこと。三人で参加する。11時半頃、祝賀会始まる。料理もいろいろとあり楽しく過ごす。

 5月17日 (日) 朝 八度 曇り 日中 十三度 夜になり雨

 9時半頃 起床。今日は第三日曜日、又、暦では21日が小満祭。臼田の稲荷山は16日~17日が小満祭で、長土呂の開運出世稲荷大明神も、今夕4時頃より講中者集い掃除しお祭りすることに○ちゃんより連絡あり。
 夜11時頃休む。今夜は皆よく飲んで十分やった。一日、無事過ごす。

(ここに、村のお稲荷さんの祭りについて記されていたのを知り、懐かしく思いだしました。子どもの頃、この村のお稲荷さんのお祭りでお菓子などをすそ分けいただいたことを。いつからか、小屋のような建物のなかにあったお稲荷さんでしたが、その小屋はなくなり、小さな祠となって残った令和のお稲荷さんです。)


 1983年 昭和58年度 (60歳)

 1月23日 (日) 朝 零下十五度 晴れ 日中 二度くらい

 昭和五十八年度 御嶽山 寒参り(八名にて)。四時頃、目覚め。
 6時15分出発。天気よく風もなくよい日。無事、9時40分には、三合目・清滝不動明王に着く。今日は日曜日なので参拝者多い。12時近く前に滝旅館に入り、それぞれ打合せし、お札15本頼み、昼食過ごし、2時帰宅の途へ着く。6時に着く。
 自分風呂に入り、10時頃床に入り、休む。今日1日無事過ごす。

(私も若かりし頃、いつだったか、御嶽山八合目まで登ったことが思い出されます。また、私の村にも御嶽山座王大権現の碑があります。)



 2月15日 (火) 朝 零下九度 晴れ 日中 三度

 6時30起床。今日自分(還暦)、生まれて60年目のとし。
国民年金、60才にて受給するべく手続きをとる。
今日1日無事過ごす。

・親父の日記は、1984年(昭和59年度)61歳 5月21日をもって終わっています。

 6時起床する。朝のうち稲荷神社祭りの後、片付けをする。
 8時頃、近津ゲートボール場へ。

 そのときの私は、30歳で、親父は61歳でした。記憶はさだかではないのですが、その頃、親父は幾度目かの入院となり、以後、言葉を話すこともなくなり、66歳で別れとなりました。不思議なことに、その5年間ほどの親父の姿があまり思い出せないのです。こうして、35年過ぎ、振りかえってみると自分は35歳の時でした。
 そして、親父の歳を過ぎ、古希を迎え振り返ると、親父の生きてきた姿を自分のこととして見ることが出来るようになったのです・・・・。


・goo ブログが終了ということで、驚きです。はじめてから3年ほどです。いつもgoo ブログの仲間たちのブログを訪問するのが楽しみで、自分のブログが、読まれることも励みです。どれだけ更新できるかわかりませんが、これからもよろしくお願いいたします。


『浅間山と信濃追分と・・・』

2025-04-07 05:00:20 | 想い出
 追分とは、道が二つに分かれる場所をさす言葉であり、甲州街道と青梅街道の分岐である新宿追分や、中山道と北国街道の分岐である信濃追分など、各地に地名として残っています。
 私が50代の頃の勤務地が軽井沢町追分にありました。信濃追分は、北は群馬県嬬恋村、西と南は御代田町、東は大字長倉に隣接し、浅間山南麓の地で、南部の中央部を湯川が南西に、御影用水が西に流れ、北陸新幹線、しなの鉄道、国道18号が東西に走っています。
 その追分宿から信濃追分駅へ行く途中には、浅間モーターロッジと呼ばれた廃墟があり、その傍らの勤務でしたが、今では跡形もない懐かしい想い出です。



『木漏れ日と透明人間』

誰もいない
木漏れ日のなか
ひとつの人影が
足もとのどんぐりを
浮かびあがらせます

ふと 目にとまったのは
あかげら
悠然と どんぐりの幹を
餌を 啄ばみながら
上へ上へと

すると
チィ チィ チィー
サッと 風を切る音が

見あげると 今度は
紅葉した雑木林の
葉から葉影へと
青い痩せた小鳥たちが
飛び交っています

誰もいない やわらかな
木漏れ日のなか
雑木林は 風に揺れ
ぼくは
透明人間になりました




          <浅間モーターロッジ> <廃墟と恋人達>

 立原道造『萱草に寄す』(わすれぐさによす)より。

 はじめてのものに

ささやかな地異は そのかたみに
灰を降らした この村に ひとしきり
灰はかなしい追憶のように 音立てて
樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきった

その夜 月は明かったが 私はひとと
窓に凭れて語りあった(その窓からは山の姿が見えた)
部屋の隅々に 峡谷のように 光と
よくひびく笑い声が溢れていた

……人の心を知ることは……人の心とは……
私は そのひとが蛾を追う手つきを あれは蛾を
把へようとするのだろうか 何かいぶかしかった

いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか
火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
その夜習ったエリーザベトの物語を織った

 そう、夭折の詩人・立原道造も、この追分の地で浅間山の噴火に遭遇していたのです・・・・。



 そして、私の故郷から見る浅間山です。




・子供の頃、浅間山を富士山だと思っていたことがあります。ともかく、山と言えば浅間山が目の前に浮ぶ故郷なのです。七年ほどの東京での一人暮らしから戻ってきた頃、次のように書いていた私です・・・・。

 コンポーズグリーンと、エメラルドグリーンに下腹部を蔽われ、コンポーズブルーに胸部は際だち、コバルトバイオレットに頭部は染まり、水色の空に浮かぶ巻層雲の下、もこもことした積雲が、ところどころに影をグレーに落している山並みである。が、抜ける大気圏へと、幾筋もの雲が、三百六十度の空を流れてゆく。高峰・浅間の山並が北側に、物見山・荒船山が東側に、続く八ヶ岳の山々・・・・、蓼科高原が南に下方のなだらかな山々を抱えている。遥か彼方は北アルプス。
 心のなかの風景として眠っていたわたしのふるさとに迂回している上昇気流は、空を飛び交う鳥たちや、ポプラ並木や、あたり一面を透明なエネルギーに変え、放り投げられたわたしは、コンポーズグリーンの麓、透明な大気と共に・・・・。


『スターゲイザーと廃墟と・・・』

2025-03-30 04:56:01 | 想い出
 
 
 私の40代・50代は働くことに追われた日々でした。音楽を聴くということも殆どありませんでした。音楽「スターゲイザー」を知ったのはその頃です。
 YouTubeでスピッツの「スターゲイザー」を見ると2004年(平成16年)頃の自分を思います。そのときは、プロモーションビデオを見て、その廃墟での演奏する姿がカッコイイなあと思ったものの歌詞のことはよくわかりませんでした。

 
 今回、歌詞を確かめてみました。

遠く遠く あの光まで届いてほしい

ひとりぼっちがせつない夜 星を探している
明日君がいなきゃ 困る 困る

明かされていく秘密 何かがおわり また始まり
ありふれた言葉が からだ中を巡って 翼になる

ひとりぼっちがせつない夜 星を探している
明日君がいなきゃ 困る 困る







『ハートブレイカー』

2025-03-24 06:07:28 | 想い出

 このグランド・ファンク・レイルロードの「ハートブレイカー」を、先日、YouTubeで目にしました。振り返れば、英語が苦手な私は意味もわからないまま、そのツエッペリンもぶったまげたというグランド・ファンク・レイルロードの「ハートブレイカー」を高校生のときに耳にしていたのです。
 そして、今回、YouTubeでのグランド・ファンク・レイルロードの映像を初めて見ると共に、その和訳を目にしたのでした。

「心が張り裂けそうだ あの子はいない」
「心が張り裂けそうだ 俺は辛いぜ」

の文句に、今になって、GFRの「ハートハブレイカー」に共感でした・・・・。

 それでは、GFRの「ハートハブレイカー」の歌詞です。

Once I had a little girl
Sometimes I think about her
But  you know
She′s not really there

When memories do call
I just, I just can't live without her
But trying all the time
Is so hard to bear

Heartbreaker,
can't take her
bringing me down

Heartbreaker,
can't take her
bringing me down
Heartbreaker,
can't take her
bringing me down

I don't cry no more
I live while  I′m flying
But I′ think back
And you can hear me say

Heartbreaker, can't take her
心が張り裂けそうだ あの子はいない
Heartbreaker, bringing me down
心が張り裂けそうだ 俺は落ち込むぜ
Heartbreaker, can't  take her
心が張り裂けそうだ あの子は戻らない
Heartbreaker, bringing me down
心が張り裂けそうだ 俺は辛いぜ




『雨を見たかい』

2025-03-22 05:44:32 | 想い出
 

 私は眠る前ときどき、スマホでYouTubeの音楽を聴いています。そのとき、ふと、流れてきたのが「雨を見たかい」でした。そのビートに遠い昔に戻ってみました。1968年にバンド名をクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルと改め再出発したとあり、71年の「雨を見たかい」はビルボード8位のヒットとなり、人気バンドになったCCRだったが、楽曲のほとんどを作曲し、サックスからピアノまで自分で演奏するジョンの才能に注目が集まりすぎたためにメンバー間の軋轢が生じ、1972年10月にバンドはおよそ4年余りの活動で解散しました。
 ヒッピー文化全盛だった60年代後半に登場した西海岸のバンドは、アルバム志向のバンドも多く存在したが、CCRはシングルヒットが多かったバンドで、CCRの音楽は元祖サザンロック(南部のロック)と呼ばれていたと・・・・。
 ふり返れば、私は高校生の時で、そのシグル盤をなぜか手にしていたのでした。改めて、訳詩(立川直樹)の紹介です。

 『雨を見たかい』

誰かが昔、僕にいったんだ
嵐のまえの静けさのことを
僕は知ってるんだ
そのうち、いつかそんな日のやってくることを

その日が過ぎた時を
晴れた日の雨みたいだっていうだろう
僕は知ってるんだ
輝きの落ちた水に似ていることを

僕は知りたいんだ
雨を見たかい?
僕は知りたいんだ
雨を見たかい?
晴れた日にも雨は降るんだから

昨日もきょうの昼まえも
太陽は冷たく 雨は激しかった
僕は知ってるんだ
僕のいる間中 そうなっていることを

僕が仲間を抜けてやってくるまで
早くか、ゆっくりか・・・・・
僕は知ってるんだ
それをやめさせることができないことを

僕は知りたいんだ
雨を見たかい?
僕は知りたいんだ
雨を見たかい?
晴れた日にも雨は降るんだから




『映画・卒業とスカボローフェア』

2025-03-10 05:14:25 | 想い出

 『卒業』は、1967年のアメリカ合衆国の青春恋愛映画で、1968年日本公開とありました。私が見たのは高校生のときだったか・・・・。内容は、余り理解できなかったのですが、その映画音楽は衝撃でした。もっとも、その映画ストーリーも衝撃だったのですが。
 場内がまっ暗になってタイトルがスクリーンに映してだされると共に、流れてきた曲が「サウンド・オブ・サイレンス」でした。また、「ミセス・ロビンソン」は、主人公の最初の女性との関わりでした。そして、「スカボローフェア」は、主人公が赤いスポーツカーに乗って、街をドライブするときに、効果的に歌われていました。

 (スカボローフェア(Scarborough Fair)は、イングランドの伝統的な民謡。 スカボロー(Scarborough)とは、イギリス北東部ヨークシャー州にある海沿いの観光地で、 フェアー(Fair)とは、スカボローで定期的に開かれる市・マーケットを指します。)

 では、サイモンとガーファンクルが歌った『スカボローフェア』です。

Are you going to Scarborough Fair?
スカボローフェアに行きますか?
Parsley, sage, rosemary and thyme
パセリ、セージ、ローズマリー、タイム
Remember me to one who lives there
そこに住んでいる人にわたしのことを思い出させてください
She once was a true love of mine
彼女はかつて私の本当の恋人でした

Tell her to make me a cambric shirt
(On the side of a hill in the deep forest green)
彼女にケインブリックシャツを作ってくれと言ってください
(深い森の緑の中の丘の斜面で)
Parsley, sage, rosemary and thyme
(Tracing a sparrow on snow-crested ground)
パセリ、セージ、ローズマリー、タイム
(雪の被った大地の雀を辿って)
Without no seams nor needlework
(Blankets and bedclothes the child of the mountains)
縫い目も針の跡もなしで
(毛布と寝具に包まれた山の子どもは)
Then she'll be a true love of mine
(Sleeps unaware of the clarion call)
そうすれば彼女は私の本当の恋人になるでしょう
(甲高い呼びかけに気がつかないで眠る)

Tell her to find me an acre of land
(On the side of a hill, a sprinkling of leaves)
彼女に一エーカーの土地を探すように伝えてください
(丘の斜面で、まばらに散る葉が)
 Parsley, sage, rosemary and thyme
(Washes the grave with silvery tears)
パセリ、セージ、ローズマリー、タイム
(銀色の涙で墓を洗浄する)
 Between the salt water and the sea strand
(A soldier cleans and polishes a gun)
海水と海峡の間に
(兵士は銃を掃除して磨く)
Then she'll be a true love of mine
そうすれば彼女は私の本当の恋人になるでしょう 

Tell her to reap it in a sickle of leather
(War bellows, blazing in scarlet battalions)
革の鎌で刈り取るように彼女に言いなさい
(戦争は轟き、緋色の大隊で燃え上がる)
Parsley, sage, rosemary and thyme
(Generals order their soldiers to kill)
パセリ、セージ、ローズマリー、タイム
(司令官は兵士に命令する、人を殺すことを)
And to gather it all in a bunch of heather
(And to fight for a cause they've long ago forgotten)
ヘザーの一束として全部一緒にするように
(ずっと以前に忘れてしまった大義のために戦うことを)
 Then she'll be a true love of mine
そうすれば彼女は私の本当の恋人になるでしょう 

Are you going to Scarborough Fair?
スカボローフェアに行きますか? 
Parsley, sage, rosemary and thyme
パセリ、セージ、ローズマリー、タイム
Remember me to one who lives there
そこに住んでいる人にわたしのことを思い出させてください
She once was a true love of mine
彼女はかつて私の本当の恋人でした




仏像と修学旅行

2024-10-25 23:13:35 | 想い出
 仏像について。
 
 『やさしい仏像の見方』西村公朝著より。

 仏像とは、仏教の信仰対象である仏の姿を表現した像。仏の原義は「目覚めた者」で、「真理に目覚めた者」「悟りを開いた者」の意である。また、仏像には大きく分けて4つの種類があり、位が高い順から「如来」「菩薩」「明王」「天」となっていて、最初に作られた仏像は、仏教の教祖「釈迦」の姿を写した「釈迦如来像」です。

 「弥勒菩薩半跏像・広隆寺」

 仏教の真髄とは何か。それは慈悲だといわれています。慈悲は、親子の愛情なのです。親が子に対する愛情です。例えば、子供に裏切られても、親はやはりその子がかわいい。この徹底した愛のことです。この慈悲を作品のどこかに表現しておかないと信仰の対象にならないのです。ではその慈悲を形にするとどういうものになるのでしょうか。
 満員電車の中で、自分の赤ん坊をだっこしている人がいたとします。もうほおずりしたいほどかわいいのですが、他に乗客がいるので、素知らぬ顔をして抱いています。ところが、もし電車が急停車しても、絶対その子は落とさないという抱き方をしているのです。例えば、足の踏ん張り、肱のかまえ、指先の形、すべてにその子をかわいいという一心の姿があります。これが慈悲の形になるのです。指先はあくまで柔らかくふっくらしたスポンジのような感じで、その赤ん坊を抱きかかえる。このように、指先にも慈悲の形があるのです。
 慈とは、お父さんのように激しい。悲とは、お母さんのように優しい。つまり仏像には、激しさと優しさの表現の役割が決められているのです。
 
 それから仏にはいろいろな異なった法力があります。これを表現するのに、服装とか、指先を動かしていろいろその法力を示す印相というのがあり、また蓮台に乗るもの、岩座に乗るものなど、台座の形も定められ、このように仏にはそれぞれの法力にふさわしい形が決められているのです。
 
    * * * * * * * *

 そう、私の仏像との最初の出会いは中学の修学旅行で見た、鎌倉の大仏様と言えるでしょうか。それから、法事のときに菩提寺の本堂に安置されている「釈迦如来像」を恐る恐る見たことが思いだされます。

 鎌倉の大仏様ですが、仏像が座っている像を「坐像」と言い、一般的には、如来と菩薩といった釈迦を模した姿であり、瞑想の修行中、説法をしているところの姿を表現しているとされています。 坐像の多くが穏やかな表情で描かれているのは、瞑想をしている姿と人に道理を優しく説く姿を現しているためであるのです。
 鎌倉大仏は、高徳院の本尊で青銅製の「阿弥陀如来坐像」。建立当時には金箔が施されていた。最初の大仏は木像で1243年(寛元元年)に完成したが、台風により崩壊したため、1252年(建長4年)、新たに青銅製の大仏の鋳造が始められ、大仏殿に安置された(完成した時期は不明)。
 大仏建立の理由は不明であるが、死者の怨霊を鎮めるためとする説が有力。
 高さ13メートル(台座共)、総重量122トンで宋の影響を受けた仏像は、国宝に指定されています。


 改めて、中学の修学旅行のときのアルバムを開いてみると、懐かしいクラスメイトが並ぶ後に鎌倉の大仏様が目を伏せてみんなを見守っているようです。

 また、高校の修学旅行の京都で手にした絵はがきより、幾つかの紹介です。

 「阿修羅像・興福寺」

 たとえば、阿修羅像ですが、三面六臂の美少年の仏像で、3つの顔と6つの腕が特徴的。3つの顔は全てとてつもなく美しいのですが、それぞれ微妙に表情が違う。右は幼少期の顔、左は思春期の顔、正面は青年期の顔とされています。幼少期の表情はどこかあどけなさが残り、下唇をかみしめた表情が愛らしく、眉をひそめた思春期の顔は、心の中を逡巡しているような雰囲気。眉間に力を入れ、まっすぐ前を見据える青年期のお顔は、迷いを断ち凛とした決意にみなぎるかのようです。
 戦いの神である阿修羅が、仏教に帰依して、悟りを開いていく様子を表していると。


「伐折羅大将・新薬師寺」


 「月光菩薩像・東大寺」

・不思議です。仏像というと、近寄りがたいちょっと怖い感じがして敬遠していた私ですが、リタイア生活となり、人生振り返るようになり、なぜか、仏像に親しみを持てるようになったのです・・・・。
 それは、仏像に向かい合うことは、いわゆる煩悩のかたまりである自分が、自分自身と向かい合うことでもあり、その仏像を作った人の思いに出会うことでもあるのかなと思うのでした・・・・。
       

アナログレコードの再会 2

2024-05-28 05:06:58 | 想い出
     2


 前回の続きになりますが、ポール・サイモンの『サウンド・オブ・サイレンス』をこの古稀を迎えるとともに聴いてみると、改めて、あの頃は、これといって、何もわかっていなかったのだと言えるのでした。

 『サウンド・オブ・サイレンス』ですが、こんな意味だったのかなと。

 何だか得体の知れない目には見えない精神寄生体のようなものが、頭のなかに寄生してしまったのだ。その精神寄生虫のような何かに、頭の中の思考をコントロールされてしまい、日常の生活を送ることが困難になってしまうこともあったのだと。頭のなかに植えられた種は、静寂のなかで、サウンド・オブ・サイレンス(沈黙の音)として・・・・。

 しかし、誰もその静寂を呼びさまそうとしない。
 自分だけの殻に閉じこもってしまい・・・・。
 生活して行くこともままならなくなり・・・・。

「愚か者たちよ」と、どこからか声が聴こえます・・・・。

 そう、いつか、気付くのです・・・・。

 頭の中に植え付けられた種が消えていたことに・・・・。

 私は、何十年も眠っていたレコードを、甦ったレコードプレーヤーで改めて聴くことによって、その頃の青春を取り戻すとともに、懐かしい想い出として受け入れたのです。四苦八苦の青春のなかにいるときに答えは見つからなくても、それが普通なのだと・・・・。

 ネオンサインや 地下鉄の壁や 安アパートと そして沈黙の音の中で


Hello darkness my old friend 
I've come to talk with you again 
Because a vision softly creeping 
Left its seeds while I was sleeping 
And the vision that was planted in my brain
Still remains within the sound of silence




アナログレコードの再会 1

2024-05-26 05:07:37 | 想い出
『アナログレコードの再会』

     1


 先日、もう四十年以上も顧みなかった、兄から譲り受けたアナログのレコードプレーヤーを修理して、青春時代に聴いたレコードを時々聴くようになったこの頃です。針を落として聴こえてくる曲は、確かに高校生の頃に聴いていた曲なのに、初めて聴くような新鮮な響きでした。
 高校生の自分は、自分がいったい何者か、これからどのように生きて行けばよいのか、まったくわからなく不和の周期にいたと言えるでしょう。これといった親しくする友はなく、東京での七年程の一人暮らしから田舎に戻ってきた頃も、さえない日々ではあったのです。で、このアルバム『ポール・サイモン・ソング・ブック』を最初に聴いたのはいつだったのか定かではないのですが・・・。


 「アイ・アム・ア・ロック」「4月になれば彼女は」「サウンド・オブ・サイレンス」が、若きポール・サイモンの訴えるような声で流れてくると、しばし、時は1960、1970年代に戻ったようです。
 アルバムジャケットの記事より。狂気に満ちた現代、この現代に己れの正気を支えて生きて行く困難さをポール・サイモンは語りかける。ポール・サイモンが、ガーファンクルと別々な仕事をしていた無名時代、イギリスに滞在して一枚のLPレコードを発売した。それがこの『ポール・サイモン・ソング・ブック』である。


 サイモン&ガーファンクルは、映画『卒業』(1967年)の楽曲で、一躍有名になったのですが、こうして、何十年ぶりかに聴く「ミセス・ロビンソン」「スカボローフェア」「サウンド・オブ・サイレンス」ですが、映画音楽としてのひとつの金字塔であったのだと改めて思うのです・・・・。その頃の自分は、悶々としたさえない自分ではあったのですが・・・・。


・次回に続く・・・。