公益社団法人 関西吟詩文化協会公認
東京芦孝会 東大島教室初吟会
毎年野田 芦孝先生ご自身が書いて、お持ちくださる
健吟献上寿
縁起の凧と七福神の手ぬぐい。
その意味は、健やかに吟じて長生きをしましょう。
「健吟」とは、野田先生が創った言葉です。これから、みなさんで、ひろめましょう!
「上寿」とは百歳(中寿 八十歳、下寿 六十歳)
御酒剣菱で、新年の乾杯。
昨年、85才の長寿で逝ってしまったKさんへの追悼もいたしました。
好んで、吟じられていた「静夜思」を思いだします。
初吟会なので、講習はなく、いつもより多い出席者が一言述べて、一吟。
そののち、一月に行われる当センターの成果発表会の打ち合わせ。
新年となって、所信表明の時が来ても、昨年来の混沌から抜け出せてなくて、自分にはよくわかっているのですが、聞く立場になると支離滅裂の一言でした。
今までは、何事も感覚的に、深く考えず吟と連れ添ってきました。
昨年頂いた大きな大きな贈り物をきっかけに、また、須藤明実先生からの学びによって、多少はものを考えるようになっています。
珍しく、前日から、明日の初吟に備えて、何にしようか、それにつける伴奏のCD番号はと、選びました。
けれど、今日になってみると、そのどれも、今日の私の思いにふさわしくないと感じて、みなさんのコメントは、しっかり聞いて、吟詠の時に、テキストをひっくり返して、選び直し。
結局「中庸」を吟じることと決まったのは、私の順番の三番前。ちょうど、休憩に入ったので、一呼吸置いての吟詠になりました。
せっかく昨日練習した吟をさて置いて、不出来な吟詠をすることに決めた私ですが、今の思いといえば、これなのよねぇ。
やっぱり、思いとか心意気というのを受け止めてくださる方々がいるという安心感からこういうことをしてしまうのだ。
懇親会で、思った通り、私の思いを十分汲んでくださって、今日は力吟をしたかったんだねと、どうしても「中庸」だったんだねと、言ってくださる方がいました。
そう言えば、今日の乾杯の時も、小さなカップに程よい量のお酒が、前におかれていました。
配ってくださった方の心配りに、お酒を飲む前に胸が暖かくなりました。
お酒はことのほか、胸がどきどきするので、いつも、お隣の方にもらって頂いていたのですが、今日は、配られたそのままを飲み干すことができました。ありがとう。
今まで、頑張らねばという思いで、体を固くして、心まで固くしていたかもしれない。
ものを考えるようになって、迷いが生じ、隙ができることによって、相手の言葉や、しぐさに敏感になってありのままに受け止められる時がきたのだろうか。
この感覚もよいなぁ。
そうそう、私の前に吟じられた、新教室の会員さんと指導者さん、想像以上にしっかりとみなさんの前での初独吟をなさり、連戦錬磨の吟詠家であっても、その方の先生としての初独吟。
「初」と言うのは、いつどんなときでも、ドラマがあり、美しい。
こんなことが、詩吟には、一杯あって、ずいぶん長くになるけれど、いつも新鮮に感じる場面がある。
どなたかがおっしゃっていたように、これも「初心」だ。
嗚呼、いいなぁ。こいつぁ春から縁起がいいわい。
東京芦孝会 東大島教室初吟会
毎年野田 芦孝先生ご自身が書いて、お持ちくださる
健吟献上寿
縁起の凧と七福神の手ぬぐい。
その意味は、健やかに吟じて長生きをしましょう。
「健吟」とは、野田先生が創った言葉です。これから、みなさんで、ひろめましょう!
「上寿」とは百歳(中寿 八十歳、下寿 六十歳)
御酒剣菱で、新年の乾杯。
昨年、85才の長寿で逝ってしまったKさんへの追悼もいたしました。
好んで、吟じられていた「静夜思」を思いだします。
初吟会なので、講習はなく、いつもより多い出席者が一言述べて、一吟。
そののち、一月に行われる当センターの成果発表会の打ち合わせ。
新年となって、所信表明の時が来ても、昨年来の混沌から抜け出せてなくて、自分にはよくわかっているのですが、聞く立場になると支離滅裂の一言でした。
今までは、何事も感覚的に、深く考えず吟と連れ添ってきました。
昨年頂いた大きな大きな贈り物をきっかけに、また、須藤明実先生からの学びによって、多少はものを考えるようになっています。
珍しく、前日から、明日の初吟に備えて、何にしようか、それにつける伴奏のCD番号はと、選びました。
けれど、今日になってみると、そのどれも、今日の私の思いにふさわしくないと感じて、みなさんのコメントは、しっかり聞いて、吟詠の時に、テキストをひっくり返して、選び直し。
結局「中庸」を吟じることと決まったのは、私の順番の三番前。ちょうど、休憩に入ったので、一呼吸置いての吟詠になりました。
せっかく昨日練習した吟をさて置いて、不出来な吟詠をすることに決めた私ですが、今の思いといえば、これなのよねぇ。
やっぱり、思いとか心意気というのを受け止めてくださる方々がいるという安心感からこういうことをしてしまうのだ。
懇親会で、思った通り、私の思いを十分汲んでくださって、今日は力吟をしたかったんだねと、どうしても「中庸」だったんだねと、言ってくださる方がいました。
そう言えば、今日の乾杯の時も、小さなカップに程よい量のお酒が、前におかれていました。
配ってくださった方の心配りに、お酒を飲む前に胸が暖かくなりました。
お酒はことのほか、胸がどきどきするので、いつも、お隣の方にもらって頂いていたのですが、今日は、配られたそのままを飲み干すことができました。ありがとう。
今まで、頑張らねばという思いで、体を固くして、心まで固くしていたかもしれない。
ものを考えるようになって、迷いが生じ、隙ができることによって、相手の言葉や、しぐさに敏感になってありのままに受け止められる時がきたのだろうか。
この感覚もよいなぁ。
そうそう、私の前に吟じられた、新教室の会員さんと指導者さん、想像以上にしっかりとみなさんの前での初独吟をなさり、連戦錬磨の吟詠家であっても、その方の先生としての初独吟。
「初」と言うのは、いつどんなときでも、ドラマがあり、美しい。
こんなことが、詩吟には、一杯あって、ずいぶん長くになるけれど、いつも新鮮に感じる場面がある。
どなたかがおっしゃっていたように、これも「初心」だ。
嗚呼、いいなぁ。こいつぁ春から縁起がいいわい。