3日の論語の日をお休みしたので、とても久しぶりに先生にお目にかかる気がしました。
教室が変わっていたのを失念していて、廊下のベンチでぐずぐずしていたので、授業が始まる前に、キチンとご挨拶ができず、大変失礼をしました。
菜根譚もあと1回を残して、終了となる予定で、今日は、前半を総復習の形で、原文と解説文とを全員で素読をした上で、さらに先生の解説を聞きました。
菜根譚の言葉を読み、素読をして、先生の解説を聞き、ひらかなで読んでいたのが、漢字で読んでいるような気分になってきました。
ただ、漢字で読めるようになると、その意味するところの、単一ではない伝わり方がして、ゆるぎない理解とはならないことを知るのです。
それは、その言葉が、まだ、体にしみこむところまで行ってないので、わかった気になってみたり、わかったつもりが全然わかっていなかったり、聞けば聞くほど、奥深い学びがあることを知ります。
安易に、「今日はこれを習いました」と書けなくなってきました。
それは、何もわかっていないことがわかって、わかっていないことを知られるのが、恥ずかしいと思うからでしょうか。
一歩前進したと考えて良いのでしょうか。
教室が変わっていたのを失念していて、廊下のベンチでぐずぐずしていたので、授業が始まる前に、キチンとご挨拶ができず、大変失礼をしました。
菜根譚もあと1回を残して、終了となる予定で、今日は、前半を総復習の形で、原文と解説文とを全員で素読をした上で、さらに先生の解説を聞きました。
菜根譚の言葉を読み、素読をして、先生の解説を聞き、ひらかなで読んでいたのが、漢字で読んでいるような気分になってきました。
ただ、漢字で読めるようになると、その意味するところの、単一ではない伝わり方がして、ゆるぎない理解とはならないことを知るのです。
それは、その言葉が、まだ、体にしみこむところまで行ってないので、わかった気になってみたり、わかったつもりが全然わかっていなかったり、聞けば聞くほど、奥深い学びがあることを知ります。
安易に、「今日はこれを習いました」と書けなくなってきました。
それは、何もわかっていないことがわかって、わかっていないことを知られるのが、恥ずかしいと思うからでしょうか。
一歩前進したと考えて良いのでしょうか。