体のゆがみが直ってくると、あれほど難しかった住所シール貼りが、ガイドなしでも難なく水平に貼れるようになった。
届きにくかった竿に、手が届き、大物の洗濯物が干しやすくなった。
出かけた先で、ふと気がついてみると、背中をまっすぐにして座っていた。
駅からの帰り道、いつもは追い抜かれる人を、追い抜いた。足音は同じリズムで刻んでいるのに、どんどん後方に離れていく。
気がついたら、膝の痛みがなくなって(ただし水平歩行のとき)足がまっすぐに振り出されている。
何よりも、詩吟の声が、山口先生による発声法のレクチャーにあった支えられた声に、ぐっと近づいている。
そして、肺活量が変わらないのに、四行目の結句の大山が最後まで息が続いている。
昨日は、声がかれなくて、いつまでも吟をしていたい、心地よさに包まれている感覚を覚えました。
講義をする山口先生の声は、ほんとに心地よく響き、先生は、朝、昼、夕、夜と練習をしても声は嗄れませんとおっしゃっていたのが、このことかと、体がうなずいた。
長い長い間、詩吟をすると声は嗄れるものだとおもっていました。
学生の頃の「声が嗄れなくてなんぞ詩吟であろうか」、との教えは、スメ[ツの部活としての教えであったこと。
時が流れて、つぶした声ではなく、開かれて支えられた声が基本となり、詩吟は、詩吟の音色を出すことと、今は、理解しました。
”Amazing Voice”で、聞いたオルティンドーの歌手も、お腹をぺこぺこやっていませんでした。
今までの、お腹ペコペコの発声は、丹田からの力で出していた声で、前から出る音。
前から出る音は、喉を痛めます。
斜腹筋使った音は、後ろから喉を通過し,口蓋に当たって出てくる音で、決して喉を痛めることはありません。
これこそが、支えられた音。大音量でも、うるさい音ではない。
穏やかに体を整える技法は、誰にでも出来て、年を重ねてるほど、その健康へと導く良い結果として、声も出るようになるのでした。
この爽快感は、年を重ねた人にこそ、知って欲しい。
届きにくかった竿に、手が届き、大物の洗濯物が干しやすくなった。
出かけた先で、ふと気がついてみると、背中をまっすぐにして座っていた。
駅からの帰り道、いつもは追い抜かれる人を、追い抜いた。足音は同じリズムで刻んでいるのに、どんどん後方に離れていく。
気がついたら、膝の痛みがなくなって(ただし水平歩行のとき)足がまっすぐに振り出されている。
何よりも、詩吟の声が、山口先生による発声法のレクチャーにあった支えられた声に、ぐっと近づいている。
そして、肺活量が変わらないのに、四行目の結句の大山が最後まで息が続いている。
昨日は、声がかれなくて、いつまでも吟をしていたい、心地よさに包まれている感覚を覚えました。
講義をする山口先生の声は、ほんとに心地よく響き、先生は、朝、昼、夕、夜と練習をしても声は嗄れませんとおっしゃっていたのが、このことかと、体がうなずいた。
長い長い間、詩吟をすると声は嗄れるものだとおもっていました。
学生の頃の「声が嗄れなくてなんぞ詩吟であろうか」、との教えは、スメ[ツの部活としての教えであったこと。
時が流れて、つぶした声ではなく、開かれて支えられた声が基本となり、詩吟は、詩吟の音色を出すことと、今は、理解しました。
”Amazing Voice”で、聞いたオルティンドーの歌手も、お腹をぺこぺこやっていませんでした。
今までの、お腹ペコペコの発声は、丹田からの力で出していた声で、前から出る音。
前から出る音は、喉を痛めます。
斜腹筋使った音は、後ろから喉を通過し,口蓋に当たって出てくる音で、決して喉を痛めることはありません。
これこそが、支えられた音。大音量でも、うるさい音ではない。
穏やかに体を整える技法は、誰にでも出来て、年を重ねてるほど、その健康へと導く良い結果として、声も出るようになるのでした。
この爽快感は、年を重ねた人にこそ、知って欲しい。