風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
'09年8月~  詩吟三昧の徒然日記

味付け

2022年04月11日 | 詩吟
吟詠に慣れてくると、様々に味付けをしたくなるものです。

その際たるものが、「揺り」です。

大山の七にきれいに上がるために、六の高さの発声が、要です。
しっかりと、太さと伸びやかさのある声が出せたら、揺ろうと思わなくても揺れるものです。

それには、力を入れるのではなく、きっちりと支えられた声を出すことがとても大事です。
支えられた声が出れば、楽に声を押したり引いたりすることが出来ます。

それは、喉でするのではなく、お腹でするものです。

その、支えられた声が出ていないのに、彩を添えようと思うと、失敗します。
時には、譜に反する音が混じったりします。
それを、声に彩が付いたとか変化を付けたと、慢心してはいけません。

それは、小手先のことです。毎回同じにはいかないし、まして、コントロールをや!なのです。
声をコントロールするには、真っすぐで豊かな声をどこまでも出せるようになりましょう。
たまたま、出来ちゃったではなく、この形でこの長さでと計算して出せるようになって、初めて正しい揺りができるようになります。

いそがないで、慌てないで、しっかりと支えられた声を出しましょう。
細い声では、揺りの幅が出ません。

しっかりと張った根を持った枝木は、よーく水を吸い上げ、これから花を咲かせる大出力を出すように準備をしています。その時の若緑は、本当に瑞々しく無限の力を発揮しようと待ち構えています。若緑の声がだしたいねぇ! 出しましょう。


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2022年04月11日 | 詩吟
詩吟をしているうえで、何が大事なのかを考えました。

最終的には、楽しくのびのびと詠えることなのですが、最初から自己流では、「のびのび」と歌える域には達しないように思います。

流派の約束事を守ったうえで、先ず、型に入って見よう。
型に入れ込むこともできなくて、何が自分らしさなのだろうかと、思います。

と、偉そうに思っていました。

果たして、私は、きちんと型に入ったのだろうかと、疑問に思うようになりました。

理想の型は、しっかり頭にあるのですが、果たしてどれだけ型を表現しているのだろうか。
自己流になってはいないだろうかと。

先日、他流の方々とご一緒に、八聖殿で、まことに自由に思うさまの吟詠をする機会がありました。
その、吟詠は、まことに自由でした。(ビデオ撮影をして下さって、速、見て聴きました。)それほどまでとは思いもせぬほど、自由でした。この気持ちよさはこれまでになかったなぁ...
フムフム、これだ。

自分の教室では、出してないつもりでも出た居たのだろうねぇ。
私の頭の中の理想と、私の発声する吟詠と、それを聞いて詠う会員さんたちの吟詠と、どこがどう違っているのだろうか。
何の疑問もなかったところに、先日の、昇段試験の講評で、「自己流」というキーワードが出ました。
それについて、会長をはじめとして複数の先生のご指摘、ご意見を頂いて、それは、会員さん向けの言葉でありながら、教室指導者の私に向けた言葉であったのだと、ふと、気が付いてしまいました。

はじめは、なんて優しいことと思い、次の感情の波は、何で直接ご指導ご意見をつたえてくれないのだろう!と言う感情に変わっていきました。

数年前の吟道大学で、「三半、三」に対する音程の不確かさに、とても丁寧なご指摘があってから、開眼したつもりでしたが、ややもすると、外れがちであることを思うと、そのほかの部分もあるのかもしれないと、思い至る。

そんな前から?う~~~ん、これは大問題。
これは、どう解決する?


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