風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
'09年8月~  詩吟三昧の徒然日記

心身と頭

2020年08月18日 | 徒然に日々のことを
阪井修一さん《歌人・情報科学者》の奥様は、不思議な直観力をお持ちだそうです。
(2020年8月2日(日)”うたごころは科学する” =日経新聞=コラムより

奥様は、まだ、それが定説ではなかった40年も前に、「鳥は恐竜の子孫」だとわかっていたそうです。
どうして?と尋ねても、「当たり前じゃない。みればわかるのよ」とこたえが帰って来たそうです。

片や、科学者の夫は、帰納と演繹を何度も繰り返して確認してからでないと、不安で前に進めないのだそうです。

これほどに、両極端の人がいても、家庭は成り立ち、世の中も成り立っているわけです。
だからこそ成り立っているともいえますね。

わけがわからなくても、心地よければ、直感で、「良し」とする私は、感覚のみで、選択して、果ては、「これいいよ」と人様に平気で勧めている。

それを長く信じて、破たんが無いということは、そんなにも前の選択が間違ってなかったってことよねぇ。

きっと、阪井さんタイプの方は、長い時間をかけて、帰納と演繹を重ね、繰り返し確認してから、「大丈夫かも」と、やっと、分かってくれるのだろう。

それを、遅いといったり、意外に早かったとか、判断をしてはいけないのだろう。


この記事を読んでから、確実に、「遅い、まだ?」と言う感覚薄れてきたように思う。

そのように、一歩も二歩も引いた立ち位置でいると、意外にも、向こうから、声がかかってくる。

それが、ちょっと、うがちすぎかもしれないが、らんらんと輝かせた眼からは、いったんは、逃れたいものだからね。

そして、この切り抜きの隣には、「猫を待つ」という東山彰良さんのエッセイがある。(2020年7月19日(日)日経新聞文化面)
これにも、「慌てず騒がず、風向きが変わるのを待つことだ」という記述がある。

今の、ゆっくり流れる時間の中に身を置いていたから、この二人の人の書いたものが、勝手に私の中で、繋がった様です。

せっかちな私にも、「ゆっくりと待つ」気になって、それによって、暖かさと、豊かさとを感じることができました。そうして得た繫がりは、ゆるぎないものとなるだろうということを。

心身という言葉があっても、体と頭、あるいは脳という言葉はあったかしら。

心と体は一体となることが出来るが、脳で帰納と演繹を繰り返したことがらについては、心身と書き表すように切り離せないものとは、成らないのだろうか。

理屈で、わかった事や証明できたことを体は、どのように受け止めて、反応するのだろうか。

突き詰めていくと、脳と心とは、一体化するのだろうか。

最後には、するのかもしれないねぇ。



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