原田写真館からいただいたモノクロ写真のネガをパソコンの画像データに変換する作業が一段落しました。
どこの場所で撮影したのか不明な所もあります。
何枚か思いつくままに紹介します。
学校のグランドみたいです。広いグランドです。
三島中学校でしょうか?よくわかりません。
松岡洋右が室積に戻った時に行われた歓迎行事です。
歓迎会で兵隊さんを演じている女性は、まだご存命だそうです。
歓迎行事の場所は峨嵋山(月待山)です。
光と周防村合併と光製鉄開所のお祝い行事が同時に行われています。
旧室積小学校の玄関前です。
私も小学校1年生で、昭和38年4月~7月まで通学しました。
松岡洋右? 書をしたためています。
この書は額縁に飾られるのでしょう。
島田市交差点です。
パチンコ甲子園も見えます。
島田川にあった潅漑用水車です。
当時は約60前後あったそうです。
田村峰政さんは、水車の思い出を次のように綴っています。
・・・・大川の一隅にかかって、力強く、ぶんぶんと海鳴りにも似た音を周囲に響かせながら、一杓一杓、水を汲み上げる光景は、何ともいえない感じでした。水車全体が黒く濡れている中、汲み上げた清水のみが白く光って見える姿は本当に見る人をして元気づけ、勇気づけてくれていました。今では見ることのできえない、手づくりの、人間の叡智を象徴する偉容な光景でありました。この自然と共生する光景は、六十年たった今も、私の脳裏に焼き付いております。・・・・・・・・・・・・・
尋常小学校、尋常高等小学校、女学校、青年学校の学年の流れが、昔の学制について不勉強のためよくわかりません。
おそらく、附属小学校の運動会でしょう。
後ろの山は峨眉山(高山)だと思います。
松の大木もグランドの向こうにたくさん見えます。
光海軍工廠空襲後の焼け跡の風景です。
この焼け跡の鉄骨が、広島の海田市駅横の鉄橋に使われています。
この鉄骨には、戦闘機の機銃掃射跡が残されています。
島田方面から浅江を見渡しています。
引き込み線の土手がくっきりと見えます。
個人的には、この頃の素朴な味わいのある浅江の地域性が大好きです。
大正時代の千歳橋も味わいがあります。
室積の英雄、松岡洋右のお出迎え場面です。
ここから50㍍先に海浜荘(福祉作業所つつじ園)があります。
二つの学校が見渡せます。
手前が旧浅江小学校、右奥が三島中学校です。