Re:SALOON & VBA

「個人の探求」読了2 「個」に宿す影

『「個人」の探求 日本文化のなかで』河合隼雄編、最後の論文は、『「個」に宿す影』稲賀繁美著でした。

実は、テーマというか、主張というかは、判然としない文章ではあるのです。
(僕も人のことは言えませんが・・・)、そんなにきれいな構成をしている訳ではない、どちらかというと、流れに自然としたがって書いている。でも、力がある。
この論文の、下敷きは、ローレンス・ヴァン・デル・ポストという人の『種子と蒔く人』(邦訳は『影の獄にて』)という小説です。「戦場のメリークリスマス」の原作のひとつと言ったら、分かりやすいと思います。

説明はちょっと諦めます。「あまりに煩雑すぎて、ここで説明は出来ないので、興味のある人は、読んでみてください」。と、言うよりないです。要約したら、意味がなくなってしまう文章・・・そんな感じです。

『「ハラはどうして自分が有罪を宣告され、死刑に処せられるにいたったかを理解できない。・・・どこが間違っていたかを教えてもらえば、自分は毅然として死ねるでしょうとロレンスに語る。」・・・、「ハラを、彼の掟でもなく、また彼がかつて聞いたことさえない掟のもとに弾劾することは・・・」自らの罪を納得することのないまま、刑死をとげる』

当時の戦犯として裁かれた者達は、だれも、自分が罪人という意識はなかったんじゃないか・・・
日本という国の中にあって、その中で、日本という国の命ずるままを忠実に生きた人だったのではないか・・・ただ、国際法とか、民主主義とか、日本以外の外の規範では、罪となるだけなんじゃないかと・・・。

ただ、僕が、思い描いたのは、今の北朝鮮です。
今、横田めぐみさんの遺骨が別人の物という鑑定結果が出て、経済制裁云々の論調が高まっているところなんですが・・・。
北朝鮮という国の内部にいれば、別人の遺骨を出すことは、当然の帰着かも知れないと思うのです。
当然のというと変ですが・・・。
ジェンキンスさんが、北朝鮮では、「はい」を「いいえ」と言い、「いいえ」を「はい」と言うと言ってましたね。自分がどう思うか、自分がどう判断するかではなく、国がどう判断するか、どう行動して欲しいかを考えて、行動しなくてはならない国なのです。

「遺骨を何とかしろ」と言われる。何とかしろと言われても、ない(生きていることを祈るばかりですが・・・)のですから、それは、他人の遺骨を出せと命令されているようなもの。
誰が首謀者とかそういうことではなくて、どう考えても、国はそう求めていると判断せざるを得ないのでしょう。
金正日も、実は、もう、止められない。
どどどーっと、誰も止められない。
嘘をつくことが、正義になってしまっている国なのです。体制の維持、これ以外の正義はないのです。

だから、不誠実だ、経済制裁だと、騒ぐことがいい方法なのかどうかは、慎重に考えた方がいいと思います。
遺骨、遺骨と騒ぐと、もし横田めぐみさんが存命なら、殺して本人の遺骨を提出しようじゃないかと思いかねない国なのです。

日本が、半世紀前は、そうだったのです。
右傾化している今日、どうも集団の中に埋没したくてならない日本人なのだと思えてなりません。
勿論、オウムの犯罪のように、内部においては、それは正義だったのかも知れません。
でも、世界の標準に照らしたときにどうか、あるいは、未来の子孫の評価に照らしたときにどうなのか・・・。

僕たちは、これから、集団の一人であると同時に、確立した個人で在ねばならないと思います。
きっと、そうなのだと思います。
それは、容易くないでしょうけど、方向は、そっちを向いているような気がします。

最後は、そのまま判然としない文章になってしまいましたが、雰囲気だけ・・・理解してもらえれば・・・いいのかも知れません(自分でもうまく消化できていない・・・)、これも日本人の作文のひとつですから・・・。

コメント一覧

ひる
伝わりましたよ
なんとなく、感じてらっしゃることが伝わってきました。

こういうのって、うまく言えないですよね~。
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