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年譜によるピート・デュエル物語

PETE DUEL as Hamnibal Heyes

1940年(0才) ニューヨーク州ロチェスターのデュエル家に2月24日、男児が誕生した。
父の名はエルスワース・デュエル、母はリリアンで、彼らは新生児の元気な産声を聞くとすぐ様、この長男にピーター・エルストーム・デュエルと命名した。母リリアンは元々、あまり丈夫な方ではなく、ピートがお腹にいる間にも、ひどい風邪をひいたり、食中毒をおこしたりで ―時は出産を見合わせなければならないという事態にもなっていた。しかし、その悪条件にもめげず「私の―番最初の子供なのだから、自分の命とひきかえても生んでみせます」とがんばって生んだ赤ん坊であったから、この母の喜び様は並たいていのものではなかった。この新生児の体重は3250g。生れた時から髪の毛がふさふさした可愛い赤ん坊であった。

1943年(3才) デュエルー家はそれまで住んでいた二ユーヨーク州のロチェスター市を離れて田園都市であるぺンフィールドに移った。
長男のピー卜がほんの少し気管支を悪くし、小児ぜんそくになりがけたからだ。医者である父は子供の健康状態には非常に気を使い、これまで、医者としての大きな信頼を獲得してきたロチェスターの地を離れてまでも息子の健康を守ろうとしたのである。またこの移転にはもう一つの原因があった。母リリアンが二番目の子供を身ごもっていたのだった。詩を愛し、花や小鳥を可愛いがる事が好きなリリアンは大都会ロチェスターにはもう―つ馴染めない所があった。「二番目の子供は田舎で生みたい」というリリアンの願望をも、このエルストームはかなえてやったのだ。

1944年(4才) デュエル家に二番目の赤ん坊が生まれた。また男の子であったので両親は大喜び。ピートも「自分に弟が出来た事を理解し、ベットの上に眠っている母に幾度も頼づりをして喜びを表現したという。この赤ん坊にはジョフリーいう名前がつけられた。体重は3500gでピートよりも更に大きく顔色も良い子供だったので「田舎に移ってきたのが正解だった」とエルストームは心ながら満足した。
 ジョフリーの誕生によって両親の注意と関心がすべてジョフリーに集り、ピートは自分がよけい者になったのではないかと考え、物をやたらとこわしたり、女中に八つ当りする日がこの頃続く。この様子を見ていた母は、「ピートは人一倍感受性が強く、大人びた子供だ」と感じるが、4才の子供の我ままには、全くどうしょうもなくただ彼の不可解な動作を見つめるばかりであった。

1946年(6才) 6才になるとピートはガ然兄貴らしさを発揮し始めていた。2才になったジョフリーも片言を話す可愛いい盛りだったので、ピー卜はこの弟にいろいろな言棄を教えたし、芝生の上に連れ出して一日中日光浴をさせ、イソップやアンデルセンの童話をたくさん聞かせてやったりした。ジョフリーはこの兄の話が分るのか分らないのか、彼の顔をジッと見つめて話に聞き入った。芝生の上で、いつまでも楽しげにはしゃいでいる我が子を見ながら、両親はこの上ない幸福感に浸った。

1948年(8才) 幸福なデュエル家に三人日の赤ん坊が生まれた。今度は目のくるくるした女の子だった。パメラと名づけられた。パメラの誕生は、特にリリアンを喜ばせた。というのも、上の子供2人が男で「将来、私の話し相手になってくれたり、家事を手伝ってくれる女の子が一人欲しいわ、ピートとジョフリー達は大きくなったらきっと私のつまらない話には耳も貸さないでしょうし……」と母が常にこぼしていたからだ。母の他にもうー人パメラの誕生をこ踊りして喜ぶ者があった。長男のピートである。彼は8才になって、ウェブリー・プライマリー・スクールに通っていたが、普適の男女生徒とほんの少し異なる所があった。人一倍感受性が強く物事に動じ易い性格はもっと幼い頃から表われていたが、小学校に通う様になって団体生活が始まると彼のこの性格には―眉拍車がかけられた。そして彼は幼いながら、どこまでも美しいもの、こわれやすいもの、純粋なものを追い求める子供になっていたのだった。こんな彼にとって、"女の赤ん坊"というのはまさにピートの求めてやまない美しく可愛いいものであった。パメラが生れてからはピートは学校からすぐ帰って人から話しかけられるまでは―言も喋らずに赤ん坊のべビーべッドの中をのぞきこんでばかりいた。そしてたまに小さな声で子守唄を歌ったり、「お前はいい子だね」とぶつぶつつぶやくのである。最初両親は「ピートもすっかり長男らしくなって、あんなにパメラの面倒を見てくれるので安心だ。」とのんびりしていたが、そのうち心配になって「ピートはやっぱりどこか変っている。私達には理解できない内面的なものをもっているみたいだ」などと言われる様になってきた。父も医者として真剣にピートの態度や行動を観察しはじめていた。

1955年(15才) ウェプリー・ハイスクールに通っていたピートには心の中に大きな悩みが唯一つあった。"将来の自分の生き方"についてだった。デュエル家は何代にも亘る医者の家系で長男は必ず医師としての道を歩む事が義務づけられている。そして同代もの間、この習慣は守リ続けられてきた。その何代目かの医師としての運命が今、ピートの前に迫ってきたのだ。所が困った事になった。ピートはどうしても医者になる気がないのだ。それどころか、"医者" と聞いただけで目の前がクラクラッとなる程なのだ。まず第―に彼は血を見るのが苦手だった。それに薬の名前や病名に大きな違和感を持っていた。「僕は残念ながら医者には向いてない様だ」と心ながら思っていたが、とても口に出していう勇気はなかった。両親の落胆のし様と怒りがハッキりと予想されたからだ。

1958年(18才) 遂にビートにとって運命の時がやってきた。大学進学である。彼は本当は哲学科へ進みたかった。しかしもう年老いて―日も早く医師の座をピートに譲りたいと訴えている様な父の眼や、息子がアメリカ一の名医になるだろうという事を信じて疑わない母の顔を見ているとついつい自分の胸の内は告白できず、涙をのんでセン卜・ロ―レンス大学の医学部に籍を入れた。

1960年(20才) 医学部に進んではみたものの勉強はおもしろくなく、研究にも―向身がはいらない。ピートにしてみればそれもその筈で「やっぱり僕には医写は無理なんだ」と悩む日が続いた。ただこんなジレンマに陥いっている彼を救ったのは大学で所属していた"演劇サークル" での活動だった。ここでの彼は本当に活き活きしていた。芝居のけい古をしていると「僕は医学が僕に向いているかどうかで毎日苦しんでいるが、そんなに辛いのならきっぱりやめてこの演劇の道に進んでみよう」という気になってくるのだった。そしてピートは勘当を覚悟で大学を中退したい、と両親に告げた。

1961年(21才) ようやくの思いで医学という重い足かせをはずしたピートは演倒の研究を続けるためただちに、"アメリカン・シアター・ウイング"(通称ATW)に進んだ。ここで2年問を費してみっちりたたきこんだ芝居の基礎勉強は後、ピート・デュエルが人気俳優になるための第―ステップになった。

1964年(24才) "ATM"を立派な成績で卒業した彼は、そこの講師の紹介で"シェクスピア・ライツ・レパートリー"という劇団に入団した。ここではシェクスピアの古典劇が多かったため、性格俳優を目指すピートには格好の劇団であった。稽古、稽古……の日々が続いた。

1965年(25才) 前年に所属した"ファミリー・サービス・グループ"という巡業劇団で彼は実習的に演技を学び、ついにこの年、グリニッジ・ピレッジのプレイヤーズ・センターの「エレクトラ」に主演するチャンスをつかみ、この好評によってプロ俳優の身分証明言を授与された。

1966年(26才) ピート・デュエル26才にして「WOUNDED OF ACTION」で映面デピュー、『アームストロング劇場』でテレビテビューを果たした。彼は決して派手な、人目をひく役者ではなかったが、地道に積み上げた基礎レッスンと奥深い内面性から来る独得の雰囲気で、プロデューサー達から「性格俳優としての素質が充分見受けられる」と賛辞をもらった。

1967年(27才) 大プロデューサー、ウイリアム・ザックハイムは新シリース『ギジェットは15才』のセミ・レギュラーに新人ピート・デュエルを起用。この抜擢に気を良くしだピートも大いにハリキって番組は大ヒットした。この年の7月になると、例年通り新番組の制作会議が各プロダクション、各テレビ局で活発に行なわれた。この中で、先のウイリアム・ザックハイムプロデューサーは、自分が起用しだピート・デュエルという新人を主役にして、一つ番組を作ろうと構想をねっていた。それが『可受い妻ジュリー』だった。勿論、主役のデビットにはピートが、その妻ジュリーには当時売り出し中のジュデイ・カーンが配役された。この所シリーズによってピートはテレビ俳優として立派に―人歩きを始めたのだ。

1968年(28才) 『可愛い妻ジュリー』のレギュラー出演によって広く顔を知られる様になったピートは、この様な頃にテレビシリーズに客演を続けた。『逃亡者』『ザ・ネーム・オプ・ザ・ゲーム』『ラブ・アメリカン・スタイル』『インターン』『ドクター・ウイルビー』等である。またキム・ダービー、デビッド・ジャンセンと共演の映画「ジェネレーション」に出演したのもこの年である。

1969年(29才) ユー二バーサルTVとパブリック・アーツの共同制作になる『Alias Smith and Jones』のハンニバル・へイズ役を得た。ピートはこの番組にかなり大きな期待と、自分の大飛躍をかけた。そして出来映はよかったし、彼自身満足していた。彼はこれによって卜ップクラスのテレビ俳優にのし上った。

1971年(31才) 12月31日、ニューイヤー・イブに原因不明のビストル自殺を遂げた。
(『テレビジョンエイジ1973年臨時増刊号』より)
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