“終活”で真っ先に思う浮かんだことは、物理的実質的な整理です。
家にある不要品の処分(物理的な整理)、遺産相続時の法的手続きを円滑に進めるための準備、葬式資金の準備、自分が意思決定できなくなった場合に保有する資産管理をどのようにするか(社会的整理)
同時に重要なのが心の整理、思考の整理だと思っており、今回は気持ちの上で“やめる”ことを中心に書こうと思います。
心や気持ちは処分できない
物理的実質的な整理は、簡単だと思っています。
不要品を処分する、必要なモノを使いやすく整理整頓しておく、この2つの行動を実行するだけです。
社会的整理は、法律を理解する必要があったり、手続そのものが複雑で時間がかかったりするので、専門家の手を借りる場合もあります。
残される人たちにとっても、これは放置してよいことではなく最優先すべき整理です。
ところが、心の整理となると心や気持ちを捨てたり仕舞ったり処分したり...などということはできません。心がある限りは、いつか思い出したり行動に影響が出たりします。きっぱり忘れたつもりでも、心の奥にはいつまでも残っていますし、気持ちは常に変化していきます。
それは、人間として生きていれば仕方のないことです。完全に忘れてしまったとしたら、それは記憶障害を有する何かしらの疾病が考えられるので、すぐにでも医療機関を受診する案件です。
ただ、完全に心から取り去ることができなくても、気持ちの上で穏やかになるためにやめられる思考や行動はあると思います。
それが、心を整理することだと思っています。
やめたこと
気持ちの上で、すでにやめていることがあります。それは、人目を優先しないこと。
最近、忖度という言葉が流行語のようになっていた時期があり、まるで悪いことのように認識されていますが、本来の意味は「他人の心をおしはかること。また、おしはかって相手に配慮すること。」(「デジタル大辞泉(小学館)」より)です。
相手に対して忖度することが大切な場面は、日常的にあります。しかし、それは人目を気にすることとは違います。
忖度は、相手に対する配慮から生まれる気持ちや行動です。人目を気にするということは、他人から良く思われたい自分本位の気持ちです。
若い頃は、人目を気にしてファッションを選んでいたし、行動にも気を付けていました。自分の評価を上げるためです。
ところが、意識していたファッションや行動はあまり人から高評価を得られません。むしろ、無意識に行動していたことや、自分の好みを優先したファッションの方が、人から褒められます。
それでも、自分のことを評価してほしくて、あまり似合っていないファッションを選び、いやいや行動することも多々ありました。
その結果、なんだか暮らし辛いし、行動も規制されている感じでつまらないしやる気も出ない。
年齢を重ねた今は、自分で自分を縛りつけていたのだとわかりますが、当時はそうすることが大事だと思い込んでいたようです。
今では、人目よりも自分の気持ちを最優先することにしています。ファッション選びも、流行よりも自分に似合っていて必要だと思うモノを選びますし、行動も自分の心を優先しています。
やめた結果
自分の心を優先した結果、友人知人が減りました(苦笑)
心に従って行動すると、表面的にしか仲良くしていなかった人達と、自然と距離を取るようになりました。
お互いの気持ちを素直に言い合っても大丈夫な友人だけが、最終的に付き合いが続いている、ということなのだと思います。
友人知人が減ると、気持ちの上でのメリットが大きいです。
気乗りがしない飲み会や食事会に行かなくても済みますし、お祝い事で品物を贈る必要もなく経済的に助かります。
お付き合いがなくなっても、特に残念だとも思っていません。所詮、表面だけのおともだちでしたから。
人目を気にしなくなったら、芋づる式にやらなくなったこともあります。
化粧と美容院選びです。
1年前ぐらいから、スキンケアはニベアだけにしています。最近は美白クリームを使い切った段階でやめました。アイメイク道具もアイブローもファンデーションも口紅も、数年前から買っていません。
化粧をやめてスキンケアを簡単にしたら使える時間が増え、精神的にも時間に追われる感じがなくなりました。
ただ紫外線リスクは怖いので、日焼け止めだけは使っています。
美容院選びは、時間とお金をかけると確かに素敵なヘアスタイルにはしていただけるのですが、それを維持していく体力がなくなってきました。
見た目はどうでもいいから、セルフケアのしやすいヘアスタイルで、施術時間が短いことが最優先と考えるようにしてから、カットのみで1,200円~の店舗で、カットだけしてもらうようになりました。
パーマもカラーも、セルフメンテナンスができないのでやめました。白髪は目立ちますが、人目を気にするのをやめているので何の問題も感じません。
これからやめること
自分の心を優先しすぎると、厄介なことが起こりやすいです。それは、物欲です(笑)
あくまでも、優先する心はメリットが大きい場合。優先結果が所有物の増加に繋がったら、意味がありません。
所有物が増えたら、今度は処分や整理に手間取り、邪魔なものが増え、結果としてイライラしてしまうので、物欲は抑えなくてはいけません。
たまに、心の安定を求めて買い物に走ってしまいそうになることがあります。そういう時は、自分で決めた買い物の基準を思い出すようにして、購入を思いとどまります。
同じ用途のモノをすでに所有していないか?
本当に好きなデザインや色や形か?
使い道が決まっているか?
揃えることが目的になっていないか?
使い勝手は自分好みか?
そもそもそれが絶対必要か?
一度立ち止まって考えると、不思議と購買意欲が下がりますね。人は考えることが大事ってことでしょうか?
これを繰り返すうちに、物欲が消えてくれたらいいのですが...
物欲とは別に、やめても大丈夫じゃないか?と思う、心の行動があります。
それは、神社の護符や御守の購入とおみくじ引きです。
毎年、神社への初詣とおみくじ引きと御守の購入をしてきました。また、旅先で観光名所の神社に立ち寄っても、同じことをしていました。
心のよりどころとして、また身代わりなどの力を信じて、御守、護符を買いおみくじを引く人がほとんどだと思います。
私もそういうつもりで、長年御守を買いおみくじを引いていました。
ところが、おみくじは神社の木に結んでくるのでいいのですが、御守はいつも身に付けていないと意味がないと思い、なるべく持ち歩くようにしていた結果、邪魔に感じるようになってしまったのです。
神様や神社でお勤めされている方々に対して、非常に失礼な心持ちだとは思うのですが、御守の御利益よりも物質的な存在にイライラするときがありました。
ならば、身に付けずにどこかにしまっておけばいいか?とも思ったのですが、そもそも私自信が御守や護符の存在を、心のよりどころとはしていませんでした。単なるグッズになってしまっていたのです。
なにかの困難や悩みが起きても、まず自分が何をすべきかを考えて解決方法を探せば、大体のことは解決してきました。御守に願いを掛けたことは、人生でたった一度ありましたが、それも実際は自分が行動を起こすことで解決しました。
それは御守のおかげだよ、と仰る方がいるかもしれませんが、私の気持ちとしては御守に願いをかけていなくても、心が限界に達した時には人って意外と行動に移すことができると実感していますし、そもそも行動に移す時には御守の存在は忘れていました(苦笑)
そんなこともあり、御守が邪魔になる気持ちも改善しないので、今後は神社へ寄った際はお詣りだけして、御守や護符は買わず、おみくじも引かないことにしました。その分、お賽銭を多くしようと思っています。
そもそも、神社へのお詣りをやめても良いような気がするのですが、建造物として興味を持っているためスルーできない自分がいます。
お詣りする意味は、神社を今から見学させていただきます、という意味を込めて、お賽銭は見学料だと思って、続けていきたいと思います。
心がザワザワして気分が下がることもやめる
物欲にしても、お詣りにしても、心を落ち着かせるために行動している部分が大きいですが、社会生活をしていると自分が望まないのに心がザワザワする出来事が起こります。
例えば、人から言われた言葉にひっかかりいつまでも引きずる。理不尽なことで注意されたり怒られたりする。自分が思っていたのとは違う結果にモヤモヤしたりイライラしたりする。不愉快になる行動言動をする人がいた...
こういったことは、なかなかコントロールできずに溜め込みがちです。
そんなザワザワした気持ちは、とても損をした気分にもなります。
損をした気持ちにならないためにも、こういった気持ちを回避する、あるいは浄化する方法があれば試したいのですが、今のところお寺で修行するぐらいしか思いつきません。
なので、自分ができる範囲で、心がザワザワしそうな場所に行かないようにしたり、人に会わないようにしています。非常に消極的な行動です。
しかし、今は自分の心を穏やかにする訓練をしたいので、その準備と考えて消極的な行動も良しとしています。
消極的な行動をしていても、特に気分が下がったことはありません。むしろ、自分のために費やせる時間や集中できる時間が増えたようなきがします。余計なことを考えたり、つまらないことに付き合ったりしなくて済むようになったからだと思います。
“やめる”ということは、簡単なように見えて実は難しいのだと思いますが、幸せになるためであれば、思い切ってやめるのはありだと思っています。
今後も、心の整理としてやめたいことが出てきたら積極的にやめて、10年ぐらい経ったら少しは心が軽くなっているといいのですが...
家にある不要品の処分(物理的な整理)、遺産相続時の法的手続きを円滑に進めるための準備、葬式資金の準備、自分が意思決定できなくなった場合に保有する資産管理をどのようにするか(社会的整理)
同時に重要なのが心の整理、思考の整理だと思っており、今回は気持ちの上で“やめる”ことを中心に書こうと思います。
心や気持ちは処分できない
物理的実質的な整理は、簡単だと思っています。
不要品を処分する、必要なモノを使いやすく整理整頓しておく、この2つの行動を実行するだけです。
社会的整理は、法律を理解する必要があったり、手続そのものが複雑で時間がかかったりするので、専門家の手を借りる場合もあります。
残される人たちにとっても、これは放置してよいことではなく最優先すべき整理です。
ところが、心の整理となると心や気持ちを捨てたり仕舞ったり処分したり...などということはできません。心がある限りは、いつか思い出したり行動に影響が出たりします。きっぱり忘れたつもりでも、心の奥にはいつまでも残っていますし、気持ちは常に変化していきます。
それは、人間として生きていれば仕方のないことです。完全に忘れてしまったとしたら、それは記憶障害を有する何かしらの疾病が考えられるので、すぐにでも医療機関を受診する案件です。
ただ、完全に心から取り去ることができなくても、気持ちの上で穏やかになるためにやめられる思考や行動はあると思います。
それが、心を整理することだと思っています。
やめたこと
気持ちの上で、すでにやめていることがあります。それは、人目を優先しないこと。
最近、忖度という言葉が流行語のようになっていた時期があり、まるで悪いことのように認識されていますが、本来の意味は「他人の心をおしはかること。また、おしはかって相手に配慮すること。」(「デジタル大辞泉(小学館)」より)です。
相手に対して忖度することが大切な場面は、日常的にあります。しかし、それは人目を気にすることとは違います。
忖度は、相手に対する配慮から生まれる気持ちや行動です。人目を気にするということは、他人から良く思われたい自分本位の気持ちです。
若い頃は、人目を気にしてファッションを選んでいたし、行動にも気を付けていました。自分の評価を上げるためです。
ところが、意識していたファッションや行動はあまり人から高評価を得られません。むしろ、無意識に行動していたことや、自分の好みを優先したファッションの方が、人から褒められます。
それでも、自分のことを評価してほしくて、あまり似合っていないファッションを選び、いやいや行動することも多々ありました。
その結果、なんだか暮らし辛いし、行動も規制されている感じでつまらないしやる気も出ない。
年齢を重ねた今は、自分で自分を縛りつけていたのだとわかりますが、当時はそうすることが大事だと思い込んでいたようです。
今では、人目よりも自分の気持ちを最優先することにしています。ファッション選びも、流行よりも自分に似合っていて必要だと思うモノを選びますし、行動も自分の心を優先しています。
やめた結果
自分の心を優先した結果、友人知人が減りました(苦笑)
心に従って行動すると、表面的にしか仲良くしていなかった人達と、自然と距離を取るようになりました。
お互いの気持ちを素直に言い合っても大丈夫な友人だけが、最終的に付き合いが続いている、ということなのだと思います。
友人知人が減ると、気持ちの上でのメリットが大きいです。
気乗りがしない飲み会や食事会に行かなくても済みますし、お祝い事で品物を贈る必要もなく経済的に助かります。
お付き合いがなくなっても、特に残念だとも思っていません。所詮、表面だけのおともだちでしたから。
人目を気にしなくなったら、芋づる式にやらなくなったこともあります。
化粧と美容院選びです。
1年前ぐらいから、スキンケアはニベアだけにしています。最近は美白クリームを使い切った段階でやめました。アイメイク道具もアイブローもファンデーションも口紅も、数年前から買っていません。
化粧をやめてスキンケアを簡単にしたら使える時間が増え、精神的にも時間に追われる感じがなくなりました。
ただ紫外線リスクは怖いので、日焼け止めだけは使っています。
美容院選びは、時間とお金をかけると確かに素敵なヘアスタイルにはしていただけるのですが、それを維持していく体力がなくなってきました。
見た目はどうでもいいから、セルフケアのしやすいヘアスタイルで、施術時間が短いことが最優先と考えるようにしてから、カットのみで1,200円~の店舗で、カットだけしてもらうようになりました。
パーマもカラーも、セルフメンテナンスができないのでやめました。白髪は目立ちますが、人目を気にするのをやめているので何の問題も感じません。
これからやめること
自分の心を優先しすぎると、厄介なことが起こりやすいです。それは、物欲です(笑)
あくまでも、優先する心はメリットが大きい場合。優先結果が所有物の増加に繋がったら、意味がありません。
所有物が増えたら、今度は処分や整理に手間取り、邪魔なものが増え、結果としてイライラしてしまうので、物欲は抑えなくてはいけません。
たまに、心の安定を求めて買い物に走ってしまいそうになることがあります。そういう時は、自分で決めた買い物の基準を思い出すようにして、購入を思いとどまります。
同じ用途のモノをすでに所有していないか?
本当に好きなデザインや色や形か?
使い道が決まっているか?
揃えることが目的になっていないか?
使い勝手は自分好みか?
そもそもそれが絶対必要か?
一度立ち止まって考えると、不思議と購買意欲が下がりますね。人は考えることが大事ってことでしょうか?
これを繰り返すうちに、物欲が消えてくれたらいいのですが...
物欲とは別に、やめても大丈夫じゃないか?と思う、心の行動があります。
それは、神社の護符や御守の購入とおみくじ引きです。
毎年、神社への初詣とおみくじ引きと御守の購入をしてきました。また、旅先で観光名所の神社に立ち寄っても、同じことをしていました。
心のよりどころとして、また身代わりなどの力を信じて、御守、護符を買いおみくじを引く人がほとんどだと思います。
私もそういうつもりで、長年御守を買いおみくじを引いていました。
ところが、おみくじは神社の木に結んでくるのでいいのですが、御守はいつも身に付けていないと意味がないと思い、なるべく持ち歩くようにしていた結果、邪魔に感じるようになってしまったのです。
神様や神社でお勤めされている方々に対して、非常に失礼な心持ちだとは思うのですが、御守の御利益よりも物質的な存在にイライラするときがありました。
ならば、身に付けずにどこかにしまっておけばいいか?とも思ったのですが、そもそも私自信が御守や護符の存在を、心のよりどころとはしていませんでした。単なるグッズになってしまっていたのです。
なにかの困難や悩みが起きても、まず自分が何をすべきかを考えて解決方法を探せば、大体のことは解決してきました。御守に願いを掛けたことは、人生でたった一度ありましたが、それも実際は自分が行動を起こすことで解決しました。
それは御守のおかげだよ、と仰る方がいるかもしれませんが、私の気持ちとしては御守に願いをかけていなくても、心が限界に達した時には人って意外と行動に移すことができると実感していますし、そもそも行動に移す時には御守の存在は忘れていました(苦笑)
そんなこともあり、御守が邪魔になる気持ちも改善しないので、今後は神社へ寄った際はお詣りだけして、御守や護符は買わず、おみくじも引かないことにしました。その分、お賽銭を多くしようと思っています。
そもそも、神社へのお詣りをやめても良いような気がするのですが、建造物として興味を持っているためスルーできない自分がいます。
お詣りする意味は、神社を今から見学させていただきます、という意味を込めて、お賽銭は見学料だと思って、続けていきたいと思います。
心がザワザワして気分が下がることもやめる
物欲にしても、お詣りにしても、心を落ち着かせるために行動している部分が大きいですが、社会生活をしていると自分が望まないのに心がザワザワする出来事が起こります。
例えば、人から言われた言葉にひっかかりいつまでも引きずる。理不尽なことで注意されたり怒られたりする。自分が思っていたのとは違う結果にモヤモヤしたりイライラしたりする。不愉快になる行動言動をする人がいた...
こういったことは、なかなかコントロールできずに溜め込みがちです。
そんなザワザワした気持ちは、とても損をした気分にもなります。
損をした気持ちにならないためにも、こういった気持ちを回避する、あるいは浄化する方法があれば試したいのですが、今のところお寺で修行するぐらいしか思いつきません。
なので、自分ができる範囲で、心がザワザワしそうな場所に行かないようにしたり、人に会わないようにしています。非常に消極的な行動です。
しかし、今は自分の心を穏やかにする訓練をしたいので、その準備と考えて消極的な行動も良しとしています。
消極的な行動をしていても、特に気分が下がったことはありません。むしろ、自分のために費やせる時間や集中できる時間が増えたようなきがします。余計なことを考えたり、つまらないことに付き合ったりしなくて済むようになったからだと思います。
“やめる”ということは、簡単なように見えて実は難しいのだと思いますが、幸せになるためであれば、思い切ってやめるのはありだと思っています。
今後も、心の整理としてやめたいことが出てきたら積極的にやめて、10年ぐらい経ったら少しは心が軽くなっているといいのですが...