ビーンの不定期日記

その日の事や思ったことを…

 「思いつき
   いかげん日記」

【父の戦争体験⑥】

2020-09-29 00:37:01 | 日記
私の父は大正4年生まれ。91歳の天寿を全うした。農家の三男として生まれ兵役後そのまま軍隊に残り職業軍人として終戦まで満州に駐留した。中学出の父だったが准尉まで出世し下士官となった。終戦時ソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留され昭和24年に帰国。
戦争のことはあまり話したがらない父だったが私(現在64歳)が子供の頃に時々話してくれたいくつかの戦争の話を書き留めておきたい。
戦争体験者が少なくなってきている日本で貴重な体験談を受け継ぎ次の世代に伝えていくことは私達子供の役目ではないかと思う。私は平和主義を蔑(ないがし)ろにする今の日本の風潮に危機感を持っている。
「戦争は絶対してはならない」の立場から父が話してくれた戦争の話をお伝えしようと思う。



【父の戦争体験⑥】

満州では現地の中国人が日本の兵隊を接待することがよくあったようだ。
父もそうだった。
或る日、中国人の家に招待された。大層なご馳走のもてなしを受け、帰りには沢山のお菓子を貰った。そのうえ馬車(馬で引く人力車のようなもの)を用意してくれてそれに乗って兵舎に帰った。
父は気分が良かった。馬車に揺られながら「帰ったらこのお土産のお菓子を部隊の皆に分けてあげよう」と思った。皆の喜ぶ顔が目に浮かんだ。

兵舎に帰ると父は直ぐに上官に呼ばれた。
「貴様、兵隊の分際で馬車に乗って帰ってくるとは何事だ!」
と怒鳴られ殴られた。
父は悔しくて悔しくて堪らなくなった。
その夜、皆が寝静まった頃、誰にも気付かれないように父は便所へ行き貰ったお菓子を全て便所に捨てた。
要領のいい者だったら兵舎の少し手前で馬車を降りて歩いて戻ったかもしれない。でも父はそんな知恵など思いつくことなどない愚直な人だった。頑固だったが嘘をつくことが嫌いな人だった。

【父の戦争体験⑤】

2020-09-27 08:45:42 | 日記
私の父は大正4年生まれ。91歳の天寿を全うした。農家の三男として生まれ兵役後そのまま軍隊に残り職業軍人として終戦まで満州に駐留した。中学出の父だったが准尉まで出世し下士官となった。終戦時ソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留され昭和24年に帰国。
戦争のことはあまり話したがらない父だったが私(現在64歳)が子供の頃に時々話してくれたいくつかの戦争の話を書き留めておきたい。
戦争体験者が少なくなってきている日本で貴重な体験談を受け継ぎ次の世代に伝えていくことは私達子供の役目ではないかと思う。私は平和主義を蔑(ないがし)ろにする今の日本の風潮に危機感を持っている。
「戦争は絶対してはならない」の立場から父が話してくれた戦争の話をお伝えしようと思う。



【父の戦争体験⑤】

シベリアへ抑留され極寒の地で帰国するまでの4年間を耐えた。
辛い捕虜生活に耐えることが出来ず収容所から脱走する者も多々いたそうだ。
しかし脱走してもソ連兵は追跡しなかった。何故か?その必要がなかったからだ。
収容所から逃げ出しても、行けども行けども何もない。そして脱走者は皆広大なシベリアの地で皆凍死するのだった。
後日父達捕虜が捜索に駆り出される。死体を探しに行くのだ。発見するとその場で埋めた。埋めるといっても土は凍っていて硬く穴を掘ることは出来ない。仕方なく雪をかぶせるだけだった。
このような脱走者の遺骨が今もシベリアの大地には眠ったままになっているのかもしれない。


【父の戦争体験④】

2020-09-21 22:13:16 | 日記
私の父は大正4年生まれ。91歳の天寿を全うした。農家の三男として生まれ兵役後そのまま軍隊に残り職業軍人として終戦まで満州に駐留した。中学出の父だったが准尉まで出世し下士官となった。終戦時ソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留され昭和24年に帰国。
戦争のことはあまり話したがらない父だったが私(現在64歳)が子供の頃に時々話してくれたいくつかの戦争の話を書き留めておきたい。
戦争体験者が少なくなってきている日本で貴重な体験談を受け継ぎ次の世代に伝えていくことは私達子供の役目ではないかと思う。私は平和主義を蔑(ないがし)ろにする今の日本の風潮に危機感を持っている。
「戦争は絶対してはならない」の立場から父が話してくれた戦争の話をお伝えしようと思う。


【父の戦争体験④】

纏足(てんそく)。
昔中国の貴族の間では女性の足を小さく見せる風習があった。小さい足の女性は美の象徴とされたためだ。そこで女性は子供の頃から纏足という小さい靴を親に履かされその靴を脱ぐことは許されなかった。
この風習は農村でも広まったが、父が言うには女性が村から逃げ出さないために行われたそうだ。
女性は貴重な労働源で農家の仕事は辛く村から逃げ出す者もいた。そこで纏足を履かせ歩きづらくして逃げないようにした。

或る日、そんな村の女性を可哀想に思った父は同僚の兵隊と村の若い女性の纏足を無理矢理脱がせることにした。
子供の足の大きさほどしかない纏足を脱がせると そこからはくの字に曲がった大きな足が出てきた。足は成長するが子供の頃から小さい靴(纏足)を強制的に履かされている為、真っ直ぐに伸びるはずの足の骨は纏足の中で曲がって成長したのだ。くの字に曲がった足は骨が固まっておりもう真っ直ぐにはならない。この足では歩くことが精一杯で、到底走ることなど出来ない。これでは村から逃げ出すことなど不可能だと合点したそうだ。


【父の戦争体験③】

2020-09-20 22:16:25 | 日記
私の父は大正4年生まれ。91歳の天寿を全うした。農家の三男として生まれ兵役後そのまま軍隊に残り職業軍人として終戦まで満州に駐留した。中学出の父だったが准尉まで出世し下士官となった。終戦時ソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留され昭和24年に帰国。
戦争のことはあまり話したがらない父だったが私(現在64歳)に時々話してくれたいくつかの戦争の話を書き留めておきたい。
戦争体験者が少なくなってきている日本で貴重な体験談を受け継ぎ次の世代に伝えていくことは私達子供の役目ではないかと思う。私は平和主義を蔑(ないがし)ろにする今の日本の風潮に危機感を持っている。
「戦争は絶対してはならない」の立場から父が話してくれた戦争の話をお伝えしようと思う。



【父の戦争体験伝言③】

夜戦。
ある日、夜戦となった。皆喉が渇いていた。もはや水筒に水は残っていなかった。闇の中で一晩中敵と対峙していた。
するとチョロチョロと水の流れる音が聞こえてきた。塹壕に何処からか水が流れてきたのだった。兵隊たちは「水だ!水だ!」と喜び、手ですくい、またある者は直に口を付けて飲んだ。お陰で喉を潤すことが出来た。
夜が明け辺りが明るくなり出すと1人の兵隊が隣の兵隊を見て言った。
「おまえの顔、真っ赤だぞ」
するとその兵隊が言った。
「おまえの顔も真っ赤だぞ」
どの兵隊の顔も赤くなっていた。そして塹壕に流れてきた水を見るとその水は赤かった。戦死者の血であった。
戦場で多数の兵隊が流した血が合流し川のように流れていたのだった。
戦場とは血の海であり、血の川なのだ。


【父の戦争体験②】

2020-09-19 01:03:45 | 日記
私の父は大正4年生まれ。91歳の天寿を全うした。農家の三男として生まれ兵役後そのまま軍隊に残り職業軍人として終戦まで満州に駐留した。中学出の父だったが准尉まで出世し下士官となった。終戦時ソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留され昭和24年に帰国。
戦争のことはあまり話したがらない父だったが私(現在64歳)が子供の頃に時々話してくれたいくつかの戦争の話を書き留めておきたい。
戦争体験者が少なくなってきている日本で貴重な体験談を受け継ぎ次の世代に伝えていくことは私達子供の役目ではないかと思う。私は平和主義を蔑(ないがし)ろにする今の日本の風潮に危機感を持っている。
「戦争は絶対してはならない」の立場から父が話してくれた戦争の話をお伝えしようと思う。



【父の戦争体験②】

慰問袋。
兵隊を元気づけ励ますために国民は袋に食べ物や洒落た小物を入れ手紙を添えて戦地の軍隊に送った。
父にも慰問袋が配られた。何回か同じ人から慰問袋が届いた。毎回励ましの手紙が入っていた。女性の名前でとても綺麗な字だった。その内父は彼女から慰問袋が届くのを楽しみにするようになった。
父はお礼の手紙を書いて遂に彼女に会うことにした。
待ち合わせの駅に行ったがそれらしい女性の姿が見当たらない。不安に思っている父へ赤ん坊を抱えたお婆さんが近づいてきた。
「○○さんですか?」と言って父に挨拶した。父は合点したそうだ。“彼女は都合が悪くなって代わりに母親が来たのだな”と。
お婆さんは言った。
「手紙の主はこの子です。兵隊さんは若い女性の名前の慰問袋だととても悦ぶと聞いたので、この子の名前で私が手紙を書いていました。」
父は大層ガッカリした。そして苦笑い。お婆さんを責めることなど出来ない。父が勝手に早合点していた、と言うだけの話だ。

戦地の兵隊は配られる慰問袋に添えてある手紙を読んでは「この人はどんな人なんだろう」と想像し、またその想像をすることをひとつの楽しみとしていたのかなと思う。
もはや「慰問袋」を知っている日本人は少ない。