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ビーンの不定期日記

その日の事や思ったことを…

 「思いつき
   いかげん日記」

写経

2011-01-21 19:57:09 | 般若心経
写経を時々しています。

とは言っても、本格的ではないのです。

書式に則った正式な書き方があるのですが、筆も硯もありません。

筆ペンを買ってきて、広告チラシの裏に書いています。

写経は修行の一つで、写経することはそれだけで功徳があるのだそうです。

般若心経全部で276文字を書きますが、いつも途中で足が痺れて、中休みをしています。(笑)

渇愛(かつあい)

2010-11-30 19:59:55 | 般若心経
瀬戸内寂聴さんの「あおぞら説法」(光文社)から抜粋です。


「“恋愛”を仏教では“渇愛”といいます。

渇愛というのは〈中略〉きりもなく相手に求める愛です。〈中略〉「もっと愛して、もっと愛して」とねだる愛です。

この渇愛は、愛した瞬間から苦しくなるんですね。しかもこの世でいちばん苦しい。

それは愛のかたちをとっているけれども、とどのつまりは相手の人を愛しているのではなく、自己愛だからなのです。

自分がその人を好きになったのがうれしいから、気持ちがいいから愛するのです。

自己愛は、結局相手に報酬を期待します。見返りを求めます。

恋愛をして、自分が好きになったら相手にも自分を好きになってもらいたい。

自分が心の愛を与えたら返してほしい。
いや、利息を付けて返してほしい。

期待どおりにいけば、これが人生でいちばん楽しいことだと思いますけれども、
〈中略〉ほとんどの場合、期待しただけのものは返ってきません。

そうすると非常に腹が立つ。〈中略〉

とにかく、愛すると同時に苦しみが起こる。

つまり、そういう恋愛-渇愛というものは、自分のものにしようという独占欲ですからね。

独占欲が起こると苦しくなるんですね。
嫉妬が伴うからです。

自分以外に恋人の目が移るのが心配でたまらない。

愛したと同時に苦しみが生まれる。

そんな苦しいことしなければいいと思うかもしれないけれども、
しかし、だれも愛さない、だれにも愛されない人は、やっぱり生きている甲斐がないような気がいたします。

神戸の被災者の仮設住宅の中で自殺する人は、もう愛する人がなくなって、
愛してくれる人もないと思うからだと思うんです。

家があって、衣食が足りていても、心が寂しいと人は生き甲斐を見失います。

そういう悲しいことにならないように皆さん、人を愛してください。

愛されるより愛する人になりましょう。

自分にだけじゃなく、そんな寂しい顔をしている人が身近にいたら、精いっぱい愛を注いでください。

それが私は生きていることだと思います。…」


 ………………………

生きることは
  愛すること

「欲」のない愛を、いつになったら注げるようになるのでしょうか。

なかなか光りが見えてきません。

生者必滅、会者定離

2010-11-20 09:36:15 | 般若心経
「しょうじゃひつめつ、えしゃじょうり」

 仏教のおしえです。


キサーゴータミーという若い母親がいました。

彼女は一人子を病で亡くしました。

彼女は死んだ子を抱きかかえ、正気を失って、この子を生き返らす薬をくださいと
誰彼と構わず問い掛け町中をさ迷いました。

ある人が彼女を釈尊の前につれていきました。

釈尊は哀れな女に言いました。

「どこかで一粒の芥子(からし)粒をもらっておいで。
それでその子は生き返る。
但し、死人の出たことのない家からもらってこないとだめだよ」

キサーゴータミーは喜び、そして勇んで町へ駆け出しました。

どの家でも「うちは祖母が死んだばかりだ」「うちは父が死んだ」「うちは両親も死んだし、夫も死んでしまったよ」…の返事。

キサーゴータミーはようやく迷いから醒めました。

子供を葬ると、釈尊のところに行きました。

「どの家でも、からし粒はもらえませんでした。

生きている人よりも、死んだ人の方がずっと多かったのです。」

彼女は、生まれたものは必ず死ぬということを、
愛する者の死によって覚ったのでした。

 ……………………

生まれた者は必ず死に、会った者には必ず別れがあります。

つまり、私たちは生まれた瞬間から、いつか必ず死なねばならない死の国に住んでいると言えます。

これは人として生まれた以上、誰ひとりとして避けて通れない運命です。

死があるからこそ、たった今の自分の生命が輝いてくるのです。


「法句経を読む 寂聴 生きる知恵」瀬戸内寂聴著(海竜社)より抜粋しました。

少欲知足

2010-11-18 17:35:33 | 般若心経
五百人の隊商が砂漠の旅をしていました。

途中途中のオアシスで水を補給しながら旅をしていたのですが、大きな山に差し掛かったところで、とうとう水を切らしてしまいました。

この山を越えないと次のオアシスまで水はありません。

リーダーはラクダを休ませて、皆に言いました。

「ラクダを休ませている間に、水が出るかわからないが試しに井戸を掘ってみよう」

こうして井戸掘りが始まりました。

するとどうでしょう!

水は一向に出て来なかったのですが、驚いたことに、金や銀、宝石が出てきたのです!

しかも掘れば掘るほど次から次へと面白いように出てきます。

皆は喉の渇きも忘れて血眼になって掘り続けました。

でも、早く山を越えて次のオアシスで水を補給しないと途中で皆倒れてしまいます。

リーダーは皆に向かって必死に叫びました。

「みんな、やめなさい! もう出発しないと山を越えられないぞ!」

しかし誰一人として言うことを聞く者はいませんでした。

そうして、この隊商はどうなったか…

 ……………………

「欲を少なくして、足るを知る心を持つ」

欲張ってはいけませんよ。

という仏教のおしえです。

法然さんのおしえ

2010-11-11 17:53:30 | 般若心経
法然は浄土宗の開祖です。

ただひたすら念仏を唱えなさい。
そうすれば極楽浄土へ徃けますよと説きました。

詩人の伊藤比呂美さんの
「読み解き 般若心経」(朝日新聞出版)の中で法然の教えを記述している個所があるので紹介します。
伊藤さんが現代語訳した文です。




 「となえるがよい-法然」


現世を生き抜くには

念仏をとなえるために生きようとするのがよい。

念仏に専念するためにじゃまになることは

何であれ

捨てて、忘れて、やめてよい。

ひじりとして生きておっては念仏ができぬというなら

妻を持ってとなえるがよい。

妻がおってはできぬのなら

ひじりになってとなえるがよい。

定住しておってはできぬというなら

家を追ん出てとなえるがよい。

放浪しておってはできぬのなら

一所(ひとところ)に住み着いてとなえるがよい。

生活をやりくりしておってはできぬというなら

人に食べさせてもらいながらとなえるがよい。

養われておってはできぬのなら

自力で生活してとなえるがよい。

一人ではできぬというなら

仲間とともにとなえるがよい。

人といっしょではできぬのなら

一人で閉じこもってとなえるがよい。


……………………

念仏を「ひたすら」に唱えるとは、このようにただひたすらに-、と言うことなのですね。

「ひたすら」の言葉には、無心さ、健気さ、そして何より一途な心の強さがあるということを知りました。