長浜の商店街は、昔「浜行き」という言葉があったように、着飾って買い物に来るのは長浜が中心だったという。
昭和30年代から40年代の半ばくらいまでは、滋賀県で一番活気のある商店街だと言われ、約400店ぐらいの商店が集中していて、湖北の広域行政区で20万~25万人くらいのマーケットがありましたが、人口の割には“大きい”と言える商店街がありました。
そこに国道8号線のバイパス付近の開発に伴い、当時長浜にもお店を出していた大手スーパーと地元スーパーが国道8号線のバイパス沿いに大型ショッピングセンターの計画を表明したのが1977年、それから1983年に商調協3条結審で大手スーパーのみの出店が認められ1988年に完成するまで商店街は大変混乱したように覚えている。
その頃から商店街にはポツリポツリと空き店舗が出始め、僕たちが子供の頃のようなえびす講での“えべっさん”がクリスマスになると“サンタクロース”に変わる顔の看板も見られなくなっていたと思う。
商店街の人々は大型ショッピングセンターの出店で、お客様がよりいっそう郊外で買い物をされ、商店街は“どうなるんだろう”と危機感を持っていらっしゃったと思う。
大型ショッピングセンターは協同組合を作り地元の商店街の出店をしていたが、もちろん出店にはそれ相応の資金が必要であり、確か商店街の店を閉めないことも条件になっていた?から、一部では
「今の商店街のままでも地獄。郊外に出店しても地獄。」
なんて、冗談とも本気とも取れる言葉が飛び交っていたりしました。
方言のシリーズでもチラッとその名前が出てきていた“キャンス”が出来たのが1985年。
僕の記憶では、この頃から8号線(いつからバイパスが8号線になったか記憶にありませんが・・・)沿いに、これでもかこれでもかと商業施設が出来ていったと思う。
郊外が開発され大型ショッピングセンターが出来ると、商店街の50店舗くらいが出店され、そこに人が集まるようになると同時に、長浜の商店街はどんどん集客力が無くなっていったように思う。
以前からの商店街の1987年から1988年頃の1ヶ月の平均買い物客数は、約4,000人くらいだった・・・・。という調査結果があります。
これはもう商店街と言っていのかわからないような事になったしまったのです。
“札の辻”と呼ばれる北国街道と大手通の交わるところとして、一時はとてもたくさんの人の往来があった交差点に、白い漆喰の壁のカトリック教会がありました。

この教会も郊外に出て行く、という事になってしまったのです。
それは、1987年の暮れのことだったと記憶しています。
昭和30年代から40年代の半ばくらいまでは、滋賀県で一番活気のある商店街だと言われ、約400店ぐらいの商店が集中していて、湖北の広域行政区で20万~25万人くらいのマーケットがありましたが、人口の割には“大きい”と言える商店街がありました。
そこに国道8号線のバイパス付近の開発に伴い、当時長浜にもお店を出していた大手スーパーと地元スーパーが国道8号線のバイパス沿いに大型ショッピングセンターの計画を表明したのが1977年、それから1983年に商調協3条結審で大手スーパーのみの出店が認められ1988年に完成するまで商店街は大変混乱したように覚えている。
その頃から商店街にはポツリポツリと空き店舗が出始め、僕たちが子供の頃のようなえびす講での“えべっさん”がクリスマスになると“サンタクロース”に変わる顔の看板も見られなくなっていたと思う。
商店街の人々は大型ショッピングセンターの出店で、お客様がよりいっそう郊外で買い物をされ、商店街は“どうなるんだろう”と危機感を持っていらっしゃったと思う。
大型ショッピングセンターは協同組合を作り地元の商店街の出店をしていたが、もちろん出店にはそれ相応の資金が必要であり、確か商店街の店を閉めないことも条件になっていた?から、一部では
「今の商店街のままでも地獄。郊外に出店しても地獄。」
なんて、冗談とも本気とも取れる言葉が飛び交っていたりしました。
方言のシリーズでもチラッとその名前が出てきていた“キャンス”が出来たのが1985年。
僕の記憶では、この頃から8号線(いつからバイパスが8号線になったか記憶にありませんが・・・)沿いに、これでもかこれでもかと商業施設が出来ていったと思う。
郊外が開発され大型ショッピングセンターが出来ると、商店街の50店舗くらいが出店され、そこに人が集まるようになると同時に、長浜の商店街はどんどん集客力が無くなっていったように思う。
以前からの商店街の1987年から1988年頃の1ヶ月の平均買い物客数は、約4,000人くらいだった・・・・。という調査結果があります。
これはもう商店街と言っていのかわからないような事になったしまったのです。
“札の辻”と呼ばれる北国街道と大手通の交わるところとして、一時はとてもたくさんの人の往来があった交差点に、白い漆喰の壁のカトリック教会がありました。

この教会も郊外に出て行く、という事になってしまったのです。
それは、1987年の暮れのことだったと記憶しています。