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Yasun's Such A Feeling

やあさんのこんなかんじ。

絶対に長浜をガラスの街に・・・。

2006-06-16 23:43:07 | 黒壁
10月ごろには“ガラス”を事業にするのはやめようと半ばあきらめムードが漂ったと・・・・・・。


ところが、黒壁の役員の方々が、自費でヨーロッパに行かれた事が事態を大きく変えた。と聞きます。
あきらめムードが漂っていた10月からわずか1ヶ月。
11月から12月にかけて、ヨーロッパのガラスで有名な地域を回られたということです。

そこで皆さんはとても“カルチャーショック”を受けたと聞きます。
“手作りのガラスの文化では、日本はヨーロッパの足元にも及ばない!!”と・・・。

長浜で、このガラスの文化を事業化できたら、ヨーロッパや世界を手本にしながら勉強していけば、長浜はガラスの“メッカのひとつ”になるのではないかと考えた・・・・と聞きます。

平成元年の正月から皆さんが集まり、「ガラスをやろう」と決め、そこで、初めて事業をしようという気になったと聞きました。

ここでひとつのエピソードを聞いたことを思い出しました。
これは、黒壁が有名になった後で聞いたことですので、このエピソードが本当かどうかはわかりませんが、結構有名なエピソードです。

それは、“黒壁”がガラス事業を行うことを決め、ある日本のガラスの有名なところへ役員数名でガラスを視察に言ったとき、
「ガラスは、素人が手を出して簡単に出来るようなものではない。悪いことは言わないからやめておかれたらどうですか。」
と言われ、帰りの飛行機の中で、「絶対長浜を、あんなこと言われた地域以上のガラスの街にして、あいつらを見返してやろう!!」
と誓ったそうです。

そのメンバーの方々を知っている僕は、“この人たちなら本当にそう言いそうだなぁ”とは思いますが・・・・。

そのガラスの有名な所とは、このWEBLOG過去の記事の中で触れているあの“街”です。
さて、見返すことは出来たのでしょうか?・・・・・。




ガラスをやるのか?

2006-06-14 21:10:53 | 黒壁
この先は、黒壁を設立された方に聞いた話が中心になります。
僕自身が直接聞いたことですが、僕の理解の仕方が間違っているかもしれませんから、あまり僕の主観をいれずに書いていこうと思います。



黒壁を設立してすでに4ヶ月たってしまっていた8月のある日のこと。
当時の黒壁の社長が、
「世界旅行をしたときにガラスを吹いている所に一番活気があって人が集まっていた。だから、ガラスをやろう。」と言われたのが、ガラスに向かう出発点だったと教えてもらいました。

ところがほかの方たちは、長浜にガラスの歴史もないし近畿でもやっている所をしらない。おまけにだれも経験もないので、
「無理です。」
と最初はそう言っていたといいます。

「ほかにいい考えがあるんか?!。」と社長に言われてもほかにいい案が浮かばない。
それでも「無理。」と思ったので、
「やれ!。」と社長、
「無理です。」と皆さん。
と議論がつづきましたが 、結局みんなでガラスの研究をすることで落ち着いた。とそう教えてくださいました。 

ガラスの研究をするために全国各地を回ったと聞きます。
ところが、赤や青やキラキラしたガラスを売っている大きいところはたくさんあったが、ガラスの文化アートを中心にそれを事業化していっているところがなかった。
ガラスの文化やアートをきちっと考えながら、それを商売にしている所はなかった。

工房もたくさん回ったが、行政が作家を雇い、経営が分からない者に経営まで任すものだから、赤字でどうしようもない。
全国各地を回っても、どうも自分たちの考えているコンセプトに合わない。

10月ごろには“ガラス”を事業にするのはやめようと半ばあきらめムードが漂ったと聞かせてもらいました。




ガラスでもやろか・・・。 と一言。

2006-06-13 21:48:16 | 黒壁


取り壊されることになりかけた明治の建物を、保存しようとすると当然お金がかかります。
そのお金を捻出するために何か事業をしなければなりません。

なぜ、ガラスだったのか?

僕は、当時からずーっと不思議でした。
「明治の建物を保存する。保存のための資金のためにそこで何かをする。」
そこまでは理解できたのですが、その事業がなぜガラスだったのか?。

今も他の地域からお客様をお迎えすると、ほとんどの人は“黒壁”をご存知です。
そしてほとんどの人が、
“ガラスは、もっと遠い過去から長浜の代表的な産業だった・・・。”
と勘違いされていたりします。


もともと長浜に“ガラスの文化”があった。
昭和の終わりに“明治の建物”の保存話がわきあがってきた。
そこで、“明治の建物”と“ガラスの文化”を融合させ、街つくりに一役買った。
思ったより観光客にうけて、たくさんの観光客の方が訪れる街となり、街づくりの成功例として、いろんなところから街づくりの研究にこられるようになった。
そういったことが相乗効果を生み、ますます“黒壁”が有名になった。
「それじゃ僕も行こうじゃないか。」とますますいらっしゃる人が増え、今では年間200万人以上の方が長浜にいらっしゃいます。


もちろん、今書いたことは最初の、
「もともと長浜に“ガラスの文化”があった。」は真実ではありません。
しかし、長浜にいらっしゃった方の中には、ひょっとすると今書いたような図式を描いていらっしゃる方も多いと思います。

僕自身も、「なぜ“ガラス”だったのか?」を知りたかったから、黒壁のチャーターメンバー(?)の方に聞いたことがあります。

僕は、こう聞かせてもらいました。
ガラスにいきついたきっかけは、当時の社長がおっしゃった、

「ガラスでもやろか。」

だったと・・・・・・。



メンバーシップはエネルギー

2006-06-11 20:09:20 | 黒壁
「長浜曳山祭りのすべての文化や歴史を軸とした街つくり」それこそ長浜青年会議所が1980年に提唱した“曳山博物館構想”だったと僕は理解しています。

“曳山博物館”は平成2000年に、構想から始まった20年という長い時間、皆さんが「理想の博物館」を考え抜いた結果が具現化できました。

“青年会議所”が提唱したとおりの効果をあげているのかどうかは、僕にはわかりません。
今の青年会議所のメンバーさん、その頃“曳山博物館構想”を提唱され、具現化に一生懸命活動されていたOBさんたちはどう思っているのでしょうか?


さておき、黒壁を立ち上げた方の中には、“青年会議所”のメンバーさんも数名いらっしゃり、先輩後輩の中で人間関係は最初から出来ていたし、街つくりの情熱も、ほぼ同じ思いを持っていらっしゃったのだと思います。

黒壁へと成るプロセスの中には、

長浜市の策定した“曳山博物館構想”
“無一物、無所有、無尽蔵”の西田天香さんについての勉強会
“曳山博物館構想”を提唱した青年会議所
そして、青年会議所を卒業してしまうと、断ち切れてしまう“街つくりへの想い”を実現できる手法として設立された、
長浜21市民会議

この組織、発想、研究、研鑽、特に“つちかわれたメンバーシップ”、が大きな役割を担っていると思います。


1988年、桑田佳佑さんは“いつか何処かで(I Feel The Echo)”をHITさせ、光GENJIは“パラダイス銀河”を歌いながらローラースケートでTVに出まくっていた頃、黒壁を立ち上げた方たちは、“お金で出来ない何かを探して”いろいろ会議を重ねられていたと聞いています。



「曳山博物館構想」という構想

2006-06-06 23:50:33 | 黒壁
青年会議所(JC)の役割とは何だったのでしょうか?
青年会議所(JC)と言う組織があることを知らない人もたくさんいらっしゃると思います。

僕自身ももちろんメンバーでもOBでもありませんから、何をする組織か、どんな人がメンバーになれるのかは知りません。
ただ知っているのは、青年会議所とは若手実業家の集団で、この組織の綱領から言葉を借りると・・・・・・、
社会的、国家的、国際的な責任を自覚し・・・明るい豊かな社会を築き上げ・・る組織だそうです。
(メンバーの方には申し訳ありません。でも知らない者の認識はこんなもんです。)

その青年会議所は、黒壁が立ち上がる以前、もちろん曳山博物館がなかった頃から、以前にもこの記事の中で書いた“曳山博物館構想”を提唱され、それを基本とした街づくりをしようとしていた・・・・。と記憶しています。

“曳山博物館構想”とは・・・・?
詳しいことはもちろん知りませんし、今となってはその“曳山博物館”は建設されていますのでその目的は達成された(?)のでしょうが、おぼろげに覚えている記憶で、その頃のメンバーさん達が語っていた“曳山博物館構想”とは・・・、

「長浜の曳山まつりは、歴史的にもすばらしいものであり、曳山で演じられる子供歌舞伎もまたすばらしい文化である。また祭りを取り巻く文化も次の世代に継承していかなければならないものである。
この街に伝統的に受け継がれていったこの祭りをわれわれの手でもっともっと育てていきたい。

曳山博物館構想とは、単に“曳山博物館”の建設を目指しているわけではない。
長浜の曳山祭りが持っている伝統・文化を全国に発信すること。
そして、その伝統を継承していき、歌舞伎の文化、曳山の文化、曳山の装飾品の文化、
長浜曳山祭りが持つ文化の全てを、建設する博物館から発信そして継承できるように。

また人材育成を活発に行い、子供歌舞伎の三役(振付・太夫・三味線)を始め、曳山の修理など祭りに関わる物の全てを長浜市民で出来るよう。

最終的には、歌舞伎といえば長浜、曳山=山車といえば長浜。と全国の皆さんがすぐ思い浮かべてもらえるような街となることを目指そう。」

と、いうような構想だったと・・・。
(あえてもう一度、メンバーの方、OBの方には申し訳ありません。でも知らない者の認識はこんなもんです。)

つづく・・・・・・。

無一物無尽蔵

2006-06-05 21:19:38 | 黒壁
さて、西田天香さんとはどんな人だったのでしょうか?
昭和42年(1967年)には、長浜名誉市民第1号となった人だといいます。
僕はその名前は知っていましたが、どんな人か、何をした人かは知りません。

調べてみると、
「与えてこそ与えられる」・「捨ててこそ生かされる」という無一物・無所有の中にこそ無尽蔵の喜びがある、すなわち、「懺悔奉仕」の心を持ち、争いのない社会を目指すもの。
といろんな所に書かれています。


西田天香さんの「無一物、無所有、無尽蔵の精神」については、黒壁の方からよくこんなことを聞かされました。

「無一物、無尽蔵とは何かというと、例えば1万円を持った人間は、1万円を少しでも増やそうという欲や、1万円を減らしたくないという欲とかで『ああしたい、こうしたい。』とか『どうしよう、どうしたらいいだろう。』とくよくよ考えてしまう。しかし、1円も持たない人間は、そういう欲を持たず一番大きい心が開ける。

 無所有とは、第3セクターのわれわれは出資して経営をしているけれども、これは自分のものではない。経営とは預かり物であり、もっと無欲に町のためにいいことをしていくことが経営の哲学というか、倫理観みたいなものだ。大きい考え方の中で、欲を出さずに町のためにいろいろなことをやっていくことが、我々が考えた事だ。」

あまりむつかしいことはわかりませんので深く掘り下げませんが、黒壁を立ち上げた方たちのなかには、この西田天香さんの思想を学ぶ勉強会メンバーもいらっしゃるといいます。

「博物館都市構想」が長浜にあり、「市民会議」そして天香さんの思想を研究する「勉強会」そして「青年会議所」のコミュニケーションが、黒壁のコンセプトを確立していくのに大きく関わっていると僕は想像します。

あくまで僕の想像でしかありませんが・・・・。

お金で出来ない何かを探して・・・・。  黒壁とガラス

2006-06-03 18:10:07 | 黒壁
黒壁の設立当時は、建物の買取に約9,000万円、改装費に4,000~5,000万円かかるだろうと予測を立て、資本金は1億3千万円が必要だとなりましたが、市の出資額は4,000万円。
あと9,000万円を何とか民間で出資者を募ったと聞きます。

そうなってくると、たとえ4人と1匹の街角であっても経営者の方たちは責任を感じずに入られません。
たとえ3分の1でも税金を資本金にした会社ですし、民間からもたくさんお金を集めている。
経営者の皆さんは
「何とか、何かやらなあかんな。」
と思われたそうです。

とは言うものの、何をしたら良いのか決まらないまま時は過ぎ、議論は重ねるけれど“いい知恵“が出ないままだった時、

「いつも会議になると、金、金言うてるけど、世の中は金ばっかりで動いているのではないだろう。
金の力でできんことのほうがいっぱいある。
あまり金のことを言わんと、金の力でできんようなものを題材にして何かしたらどうや。」

という言葉がある役員の方から出て、金の力でできないことをコンセプトに事業を考えられたら、その事業に成功したときに、大企業が金の力でそれを取ろうということはできないだろうという発想を持たれ、黒壁のコンセプトとして3つを上げられたと聞きました。

その3つとは・・・・、
建物を含めた歴史、祭りを含めた文化・芸術性みたいなもの、国際性豊かなもの、これは金の力ではできないものとして、
「“文化性”・“歴史”・“国際性”を黒壁のコンセプトとして、この3つが内在する事業を世界中で何かないか。」
を考えようということになった。と聞いています。

なぜ“世界中で・・・・”なのか?。
たとえば、明治の建物を利用して郷土の歴史偉人館や地場産業館を作っても、成功しないだろう・・・。と考えた。と聞いています。
なぜ、成功しないと思ったか・・・、
は僕にはわかりませんが、立ち上げた人に直接このような言葉を聞きました。

その人は、黒壁の考え方は、郷土長浜が生んだ思想家、西田天香さんの
「無一物、無所有、無尽蔵の精神」だと言います。




新しい街の出現と4人しか通らない街角

2006-05-31 23:53:51 | 黒壁
貴重な通行人の4人と犬1匹とは誰だったのかひじょうに興味を持ちますが、通行人の数が異常に少ないのも、何か理由があったのかもしれません。

あのファミコンゲームで社会現象とまでなった“ドラゴンクエストⅢ”が2月10日に発売されているし、宮崎アニメの大ヒット作“となりのトトロ”は4月16日に劇場公開されたという。

“ドラゴンクエストⅢ”は当時なかなか手にはいらなっかたし、ゲームの特性上、長く遊べるので4月まで皆さんTVの前で一生懸命PLAYされていたのか、“となりのトトロ”をみんなで見に行っていらっしゃったのでしょうか?。

いやいや、当然ですがそんなことではなかったと思われます。
キーワードは自分の書いた記事の中にありました。

1988年4月といえば・・・・、
“大型ショッピングセンター”が8号線沿いにOPENしたのが、その通行人調査をした約1ヶ月前だったのです。

当時の新聞を見ると・・・・、
「長浜に新しい“まち”」とか「よぶか活性化 初日から大賑わい」とか、たくさんの人出を報道する記事ばかりが並んでいます。

核になった大手スーパーと地元商店が約40店舗の大ショッピングセンターには、OPEN初日に4万5千人のお客様がいらっしゃったという。
その頃の長浜の人口が多分5万5千人くらいだったと思うので、これはすごい数です。

モレラ岐阜と比較してはいけませんが、モレラ岐阜は敷地面積約185,000m²、延床面積115,800m²、店舗面積は57,653m²で、この長浜の大ショッピングセンターはOPEN当時、敷地面積約32,314m²、延床面積27,450m²、売り場面積は9,647 m²とその規模がだいぶん違うのに、モレラ岐阜のOPEN時の来客数は約7万人と比べてもこのショッピングセンターに集まった人の多さがうかがい知れる。

芸能人の方もOPENにこられたこともあるだろうが、市民皆が新しい町に何かしらの期待を持っていらっしゃったのだと思います。

おぼろげな記憶なのですが、このショッピングセンターが想定していた商圏が、40キロだったか45キロだったか・・・・。
岐阜や草津、敦賀あたりまでを商圏と想定したいたとうっすらと記憶している。(間違っているかもしれません。なんせ18年前のことですから・・・。)

僕だって今“モレラ岐阜”まで映画を見に行くのだから、そんなもんかなぁ・・・と思うけれど、その頃はその話を聞いてびっくりしたのを覚えています。

4人と犬1匹・・・・、理由のひとつはここにあったのかもしれません。




4人と犬1匹!! 日曜日、午後の札の辻

2006-05-30 23:56:27 | 黒壁
カトリック教会として残っていた明治の建物は、建物を取り壊す計画を持つところが買取る計画をしてる・・・。と噂が流れ、当時の長浜市は
「何とかこの歴史的建造物を残すようなことを考えられないものか。」と方法を考えられたと聞きます。
当時、長浜市は建物の保存だけ考えていたようですが、当時の黒壁を立ち上げた人たちは“どうせやるなら”と建物の保存だけではなく、郊外に客足を奪われつつある商店街の活性化をも命題にして、1988年4月 第三セクターの株式会社黒壁がスタートしました。

商店街の活性化と建物の保存という大きい命題はあったものの、何をやろう、どういう商売をしようと決めていたわけではなかったという。

とにかく、黒壁銀行として明治から親しまれていた建物を保存したい。
という意気込みと商店街の活性化の情熱しかなかったと聞きます。
それで会社を作って何しようかと思った時に、非常に戸惑いを感じたと聞きます。

何をするのか決まらないまま・・・・

とある日曜日の役員会のあと黒壁の交差点、“札の辻”にて
「日曜日のこの時間だからそこそこの人が通るだろう」
となかば祈りを込めて2時から3時まで1時間、通行人の調査を行ったという。

今でこそ“笑い話”としてよく耳にするが、そのときの調査の結果というのが
日曜日、2時から3時の間に今の黒壁ガラス館の前を通った人は・・・・・、

4人と犬いっぴき・・・・。

だったそうな・・・・・。

初めてこの話を聞いたとき僕は、びっくりしたのと同時に、”がっかり”してしまいました。
信じたくないという気持ちと、本当にそうかも知れないという気持ちが入り混じって複雑だったことをおぼえています。

札の辻の教会 近くのハンバーガー屋に通った日々

2006-05-29 23:57:23 | 黒壁
“札の辻”

今の黒壁ガラス館のある交差点を昔からそう呼んでいたそうです。
もちろん僕たちは知りません。
もともとはそこに彦根藩の高札がおかれたことから“札の辻”と呼ばれたそうだが、もちろん僕たちはそんな呼び方はしていませんでした。

僕たちが育ち盛りの頃、この札の辻と呼ばれている交差点を少し南にいくと、僕としてはとてもカルチャーショックを受けたハンバーガー屋さんがありました。
あのマックが銀座に1号店を開店したのが1971年だそうだが、もちろん長浜には無かったから、ハンバーガーを手軽に食べられるのは、僕が知る限りここしかなかったと思う。

いつもおなかを空かせていた僕は、そのお店で初めて“パン”と“パン”に“ハンバーグ”がはさまれた“ハンバーガー”を初めて見、初めて食べて、
「なんちゅううまいんや!!。」と、感激したものです。
その後、まだ子供のくせに、友達同士でよく通い“常連”と呼ばれるようになってしまいました。

だから僕たちは、“札の辻”とは言わずそのお店の名前・・・・の近くの交差点とか、教会の前の交差点と認識していたと思う。

その教会は、1900年(明治33年)に百三十銀行長浜支店として建てられた木造二階建ての建物で、黒漆喰でつくられたその建物は、地元住民から「黒壁銀行」「黒銀行」と呼ばれ親しまれたという。
この銀行は町民の資金でつくられた銀行で、町民の財力で設立された初めての銀行で、ここからも長浜の町民の豊かさを推しはかることができます。

銀行が昭和に倒産すると、その後は専売公社や紡績会社社屋・倉庫として使われ、その後壁を白く塗り替えカトリック教会として利用されるようになりました。

よくこの建物が残ったと思います。
それは銀行倒産後、買い取った家主さんが保存に熱心な方だったこと、教会が建物を利用されていたこと、建物が明治の建物なので頑丈に作られていたこと、壊すにも莫大な費用がかかったこと、またその建物のある地域の開発があまり進んでいなかった等の理由が考えられます。

ところが、1987年(昭和62年)まで、僕たちにとって当たり前にそこにあった建物が“取り壊される”という事態になりかけたといいます。