Yasun's Such A Feeling

やあさんのこんなかんじ。

新しい街の出現と4人しか通らない街角

2006-05-31 23:53:51 | 黒壁
貴重な通行人の4人と犬1匹とは誰だったのかひじょうに興味を持ちますが、通行人の数が異常に少ないのも、何か理由があったのかもしれません。

あのファミコンゲームで社会現象とまでなった“ドラゴンクエストⅢ”が2月10日に発売されているし、宮崎アニメの大ヒット作“となりのトトロ”は4月16日に劇場公開されたという。

“ドラゴンクエストⅢ”は当時なかなか手にはいらなっかたし、ゲームの特性上、長く遊べるので4月まで皆さんTVの前で一生懸命PLAYされていたのか、“となりのトトロ”をみんなで見に行っていらっしゃったのでしょうか?。

いやいや、当然ですがそんなことではなかったと思われます。
キーワードは自分の書いた記事の中にありました。

1988年4月といえば・・・・、
“大型ショッピングセンター”が8号線沿いにOPENしたのが、その通行人調査をした約1ヶ月前だったのです。

当時の新聞を見ると・・・・、
「長浜に新しい“まち”」とか「よぶか活性化 初日から大賑わい」とか、たくさんの人出を報道する記事ばかりが並んでいます。

核になった大手スーパーと地元商店が約40店舗の大ショッピングセンターには、OPEN初日に4万5千人のお客様がいらっしゃったという。
その頃の長浜の人口が多分5万5千人くらいだったと思うので、これはすごい数です。

モレラ岐阜と比較してはいけませんが、モレラ岐阜は敷地面積約185,000m²、延床面積115,800m²、店舗面積は57,653m²で、この長浜の大ショッピングセンターはOPEN当時、敷地面積約32,314m²、延床面積27,450m²、売り場面積は9,647 m²とその規模がだいぶん違うのに、モレラ岐阜のOPEN時の来客数は約7万人と比べてもこのショッピングセンターに集まった人の多さがうかがい知れる。

芸能人の方もOPENにこられたこともあるだろうが、市民皆が新しい町に何かしらの期待を持っていらっしゃったのだと思います。

おぼろげな記憶なのですが、このショッピングセンターが想定していた商圏が、40キロだったか45キロだったか・・・・。
岐阜や草津、敦賀あたりまでを商圏と想定したいたとうっすらと記憶している。(間違っているかもしれません。なんせ18年前のことですから・・・。)

僕だって今“モレラ岐阜”まで映画を見に行くのだから、そんなもんかなぁ・・・と思うけれど、その頃はその話を聞いてびっくりしたのを覚えています。

4人と犬1匹・・・・、理由のひとつはここにあったのかもしれません。




4人と犬1匹!! 日曜日、午後の札の辻

2006-05-30 23:56:27 | 黒壁
カトリック教会として残っていた明治の建物は、建物を取り壊す計画を持つところが買取る計画をしてる・・・。と噂が流れ、当時の長浜市は
「何とかこの歴史的建造物を残すようなことを考えられないものか。」と方法を考えられたと聞きます。
当時、長浜市は建物の保存だけ考えていたようですが、当時の黒壁を立ち上げた人たちは“どうせやるなら”と建物の保存だけではなく、郊外に客足を奪われつつある商店街の活性化をも命題にして、1988年4月 第三セクターの株式会社黒壁がスタートしました。

商店街の活性化と建物の保存という大きい命題はあったものの、何をやろう、どういう商売をしようと決めていたわけではなかったという。

とにかく、黒壁銀行として明治から親しまれていた建物を保存したい。
という意気込みと商店街の活性化の情熱しかなかったと聞きます。
それで会社を作って何しようかと思った時に、非常に戸惑いを感じたと聞きます。

何をするのか決まらないまま・・・・

とある日曜日の役員会のあと黒壁の交差点、“札の辻”にて
「日曜日のこの時間だからそこそこの人が通るだろう」
となかば祈りを込めて2時から3時まで1時間、通行人の調査を行ったという。

今でこそ“笑い話”としてよく耳にするが、そのときの調査の結果というのが
日曜日、2時から3時の間に今の黒壁ガラス館の前を通った人は・・・・・、

4人と犬いっぴき・・・・。

だったそうな・・・・・。

初めてこの話を聞いたとき僕は、びっくりしたのと同時に、”がっかり”してしまいました。
信じたくないという気持ちと、本当にそうかも知れないという気持ちが入り混じって複雑だったことをおぼえています。

札の辻の教会 近くのハンバーガー屋に通った日々

2006-05-29 23:57:23 | 黒壁
“札の辻”

今の黒壁ガラス館のある交差点を昔からそう呼んでいたそうです。
もちろん僕たちは知りません。
もともとはそこに彦根藩の高札がおかれたことから“札の辻”と呼ばれたそうだが、もちろん僕たちはそんな呼び方はしていませんでした。

僕たちが育ち盛りの頃、この札の辻と呼ばれている交差点を少し南にいくと、僕としてはとてもカルチャーショックを受けたハンバーガー屋さんがありました。
あのマックが銀座に1号店を開店したのが1971年だそうだが、もちろん長浜には無かったから、ハンバーガーを手軽に食べられるのは、僕が知る限りここしかなかったと思う。

いつもおなかを空かせていた僕は、そのお店で初めて“パン”と“パン”に“ハンバーグ”がはさまれた“ハンバーガー”を初めて見、初めて食べて、
「なんちゅううまいんや!!。」と、感激したものです。
その後、まだ子供のくせに、友達同士でよく通い“常連”と呼ばれるようになってしまいました。

だから僕たちは、“札の辻”とは言わずそのお店の名前・・・・の近くの交差点とか、教会の前の交差点と認識していたと思う。

その教会は、1900年(明治33年)に百三十銀行長浜支店として建てられた木造二階建ての建物で、黒漆喰でつくられたその建物は、地元住民から「黒壁銀行」「黒銀行」と呼ばれ親しまれたという。
この銀行は町民の資金でつくられた銀行で、町民の財力で設立された初めての銀行で、ここからも長浜の町民の豊かさを推しはかることができます。

銀行が昭和に倒産すると、その後は専売公社や紡績会社社屋・倉庫として使われ、その後壁を白く塗り替えカトリック教会として利用されるようになりました。

よくこの建物が残ったと思います。
それは銀行倒産後、買い取った家主さんが保存に熱心な方だったこと、教会が建物を利用されていたこと、建物が明治の建物なので頑丈に作られていたこと、壊すにも莫大な費用がかかったこと、またその建物のある地域の開発があまり進んでいなかった等の理由が考えられます。

ところが、1987年(昭和62年)まで、僕たちにとって当たり前にそこにあった建物が“取り壊される”という事態になりかけたといいます。



郊外の発展と札の辻

2006-05-29 00:00:02 | 黒壁
長浜の商店街は、昔「浜行き」という言葉があったように、着飾って買い物に来るのは長浜が中心だったという。
昭和30年代から40年代の半ばくらいまでは、滋賀県で一番活気のある商店街だと言われ、約400店ぐらいの商店が集中していて、湖北の広域行政区で20万~25万人くらいのマーケットがありましたが、人口の割には“大きい”と言える商店街がありました。

そこに国道8号線のバイパス付近の開発に伴い、当時長浜にもお店を出していた大手スーパーと地元スーパーが国道8号線のバイパス沿いに大型ショッピングセンターの計画を表明したのが1977年、それから1983年に商調協3条結審で大手スーパーのみの出店が認められ1988年に完成するまで商店街は大変混乱したように覚えている。

その頃から商店街にはポツリポツリと空き店舗が出始め、僕たちが子供の頃のようなえびす講での“えべっさん”がクリスマスになると“サンタクロース”に変わる顔の看板も見られなくなっていたと思う。

商店街の人々は大型ショッピングセンターの出店で、お客様がよりいっそう郊外で買い物をされ、商店街は“どうなるんだろう”と危機感を持っていらっしゃったと思う。

大型ショッピングセンターは協同組合を作り地元の商店街の出店をしていたが、もちろん出店にはそれ相応の資金が必要であり、確か商店街の店を閉めないことも条件になっていた?から、一部では
「今の商店街のままでも地獄。郊外に出店しても地獄。」
なんて、冗談とも本気とも取れる言葉が飛び交っていたりしました。

方言のシリーズでもチラッとその名前が出てきていた“キャンス”が出来たのが1985年。
僕の記憶では、この頃から8号線(いつからバイパスが8号線になったか記憶にありませんが・・・)沿いに、これでもかこれでもかと商業施設が出来ていったと思う。

郊外が開発され大型ショッピングセンターが出来ると、商店街の50店舗くらいが出店され、そこに人が集まるようになると同時に、長浜の商店街はどんどん集客力が無くなっていったように思う。
以前からの商店街の1987年から1988年頃の1ヶ月の平均買い物客数は、約4,000人くらいだった・・・・。という調査結果があります。
これはもう商店街と言っていのかわからないような事になったしまったのです。

“札の辻”と呼ばれる北国街道と大手通の交わるところとして、一時はとてもたくさんの人の往来があった交差点に、白い漆喰の壁のカトリック教会がありました。



この教会も郊外に出て行く、という事になってしまったのです。
それは、1987年の暮れのことだったと記憶しています。



長浜のエネルギーと博物館都市構想

2006-05-27 23:31:48 | 黒壁
長浜といえば歴史は秀吉の頃からとなります。
もともとは今浜と呼ばれ“長浜”という地名が生まれたのは、秀吉がこの地に長浜城を築いたことが始まりで、信長によって滅ぼされた浅井氏の領国を与えられた秀吉は、城を小谷城から今浜(現在の長浜市公園町付近)に城を移し、地名も長浜に改名したという。

長浜という地名も、信長の1字をもらって“今浜”を“長浜”とし、羽柴の姓も当時、織田信長の家臣で信長四天王と呼ばれる4人の中でもうちの信長家臣の双璧と呼ばれる“丹羽 長秀”と“柴田 勝家”から1字ずつもらって“羽柴”としたことは有名です。

長浜は、秀吉が長浜城主になり城下の繁栄を願って楽市楽座を設けたことにより、商業のまちとして発展し、秀吉より“町屋敷年貢免除”朱印状を授けられ、この特権は明治維新まで続き、町の発展に大きな力となりました。

また、江戸中期になると“浜ちりめん”などの絹織物産業が盛んになり、多くの富を生み、次第に自治の気風も育ったといわれます。
また猿楽など庶民芸能も盛んで、これらの“文化”と“富”と“自治の気風”が、曳山祭りを生み出し、町衆文化を育てることとなったといいます。

明治の頃は県下初となる“小学校”や“国立銀行”をつくり、日本で3番目の鉄道建設をすすめ、長浜の町衆は文明開化を先取りしていたのです。

歴史を振り返ると、長浜という街はそこに住む町衆により潜在的にエネルギーがあふれる街だと言わざるをえません。
その、潜在的なエネルギーを街づくりに活用しようとしたのが「“長浜博物館都市構想”なんだ。」とだいぶん前きかされたことがあります。

市民が、先人たちのエネルギーや情熱を現代、そして未来に引き継いでいき街づくりを行おうとしたものです。

まだ国道8号線がバイパスと呼ばれ、そのあたりには今のような商業施設が無かった頃に策定された構想です・・・・。


人間性に見合わない“こむずかしい文章”は書いていても退屈です。
このシリーズはやらなきゃ良かったと反省することしきりですが、やりかけで完結しないのは潔しとしませんので、自己満足とわかりながらもうしばらくつづけることにします。

北海道より友きたる  PART 2

2006-05-25 22:56:51 | 黒壁
26日は北海道からのお客様を迎えておりました。
一人は前回、雪を連れてきた人。
もう一人とは1年ぶりに顔をあわせ、お互いの検討ぶりを称えあいました。
仕事の話、打ち合わせも順調に進み、友人としての会話も久しぶりに交わすことが出来ました。
仕事の話はビジネスマンらしく、友人としての会話はお互いリラックスし、大笑いをしながら・・・。とこのギャップを少し楽しんでおりました。

北海道と言えば、以前家族と行ったとき小樽に行ったことを思い出しました。
長浜と小樽とは何かと縁があり、だいぶん前から敦賀も加えた“三市物産展”も年末の風物詩となりました。

小樽の運河を歩き、メルヘン交差点に行き、“ルタオ”さんでチーズケーキを買って“蒲栄”さんで練り物を買って、ガラスや小樽オルゴール堂へ行ったり、と結構楽しめた記憶があります。

子供たちも結構楽しんでいましたが、なんだか長浜を思わせる観光地であったことも忘れられません。
子供たちははっきりと
「黒壁とよく似ているなぁ」
と言っていました。

そう言えば確かに良く似た感じの街かもしれません。
共通するものもあります。(もっともオルゴール堂はもともと小樽オルゴール堂長浜館でしたが・・・。)
でも、長浜の人たちはきっぱりと「“小樽”と“長浜”は違いますよ。」と言います。

小樽の昨年の観光客数は750万人という。
一時は800万人を越える観光客が来られたらしい。
長浜はその数では及びません。
しかし、長浜の人たちの情熱と行動力はじゅうぶん誇ってよいものだと思います。





小樽オルゴール堂と黒壁を並べてみました。
雰囲気が似てるといえば似ています。
“メルヘン交差点”と“札の辻”。
立地も似ているのは偶然なのですが、良く似た立地というのも不思議です・・・・・。


今回も僕はなにが言いたいんだろう?。思いつつ、つづきます。

市民総学芸員

2006-05-24 20:39:35 | 黒壁
毎年4月15日は、今までご紹介してきたように長浜曳山祭りの本日です。
僕の中でこの祭りは、長浜と名はついているけれど、“長浜の山組のまつり”という感覚でいます。

というのも、長浜市民でも山組や、自身が三番叟や役者で山に上ったり、裸まいりに出たり、囃子保存会で囃子を習わなければ、あまりこの“まつり”に接する機会はありません。
唯一、4月14日~16日までの“子供歌舞伎”を見に行ったり、山の絢爛豪華さにため息をついたりするくらいじゃないでしょうか?。
というか、僕はそうだったのです。

20年くらい前のあるとき、ある山組の方とお話する機会がありました。
その頃は、まだ長浜市に“黒壁スクエアー”も“曳山博物館”もありません。
豊公園にやっと“長浜城歴史博物館”が出来た頃です。

その頃には、先日書いた“市民会議”は発足していましたし、長浜市が“博物館都市構想”を策定していた頃だった思います。

長浜青年会議所は、長浜市の“博物館都市構想”とは別に、“曳山博物館構想”を推進していましたから、この“曳山祭り”もしくは“博物館”を街つくりに活用しようと活動していらっしゃった・・・。と記憶しています。


いろんな山組の方に“曳山博物館”を望まれますか?。
と、20年くらい前に聞いたことがあります。

それぞれのお立場やお考えがあり、なかなかズバリは答えてはいただけませんでしたが、印象に残ったというか、今でも記憶に残っているお答えというのが・・・・、

「長浜には“まつり”やそれ以外の文化や歴史を肌で感じられるとても良い街だと思う。
 曳山博物館を作るのはいいけれど、その曳山博物館だけに人を集めてそれでいいのか?。

 曳山の山蔵は、長浜の町の中に点在しているし、その山蔵を見て回るまでにはほかの歴史や文化にふれられる施設や建造物がたくさんある。山蔵を見て回っている間に、ほかの歴史、文化にふれてもらい、長浜を知ってもらうほうがもっと価値があるのではないのか?。

山組ごとに少しずつ違う“まつり”のことは、その山蔵のある山組が一番良く知っているし、そのほかの歴史、文化もその場所に住んでいる人の、“生の説明”を聞いたほうが皆さん喜ぶのではないか?。

長浜市全体を博物館としてとらえ、長浜市民が学芸員としてわが街を知り、わが街を説明することが出来る。こうなればいいとは思いませんか?。」

僕は、この話を聞いたとき、
「なるほど、そういう方法もあるなあ。」と思いました。

僕は“長浜博物館都市構想”をこのあとで知ることになるのだが、“長浜博物館都市構想”を聞いたとき、真っ先にこの山組の方に聞いた話を思い出したのです・・・。



話はだいぶんそれてます。 

2006-05-22 23:14:19 | 黒壁
だいぶん前の話になるが、「陽はまた昇る」という映画を見ました。
ここでも映画のレビューは本位ではありませんので、“大変感動した映画でした。”とお伝えしておきます。

今は、HDDでTV番組をとったりするのでしょうが、少し前まではVHS方式ビデオレコーダーで録画したものです。

そのVHS開発プロジェクトの実話に少し脚色をつけた映画で、僕はある意味格別な思いをもってこの映画を見ていたのです。
と言うのも、1976年にVHS(Video Home System)を開発したのはもちろん「日本ビクター」さんですが、映画の中でも“実名”で出ていらっしゃる、あの「経営の神様」と呼ばれた方が創業された企業のグループ企業の社員として、僕もVHSビデオ関係の生産に携わっていたことがあったからです。

新入社員の頃は企業理念をみっちり教え込まれました。
朝礼では綱領や信条、そして七精神を皆で読み上げ、頭と体に叩き込ませました。
すでに退職して数年になりますが、いまでも綱領、信条そして七精神は暗記していますし、創業命知50周年に社員に配られた「画伝 松下幸之助 道」(画 沢田重隆氏)は今も家の本棚にあります。

映画の中でも「経営の神様」役の“仲代達矢”さんは、僕たちが会社で教え込まれたことと同じようなことを台詞の中で言います。
主人公の“西田敏行”さんにだったか、“渡辺 謙”さんにだったか忘れたが、
「結局、人ですな・・・。」というようなことを言っていたと記憶してる。(何かと混同しているかもしれませんが・・・。)

“企業は人なり。”と教えられた僕は、その台詞がとてもうれしかった。
映画を見終わり、不覚にも涙が出ていたことを覚えている。

なぜ、以前に見た映画の話なのかというと、僕の中では長浜の街づくりは、「結局、人ですな・・・。」に共通するものがあると感じたからです。
僕は、エネルギーはコミュニケーションの2乗に比例すると教えられました。
長浜の街づくりの元となったエネルギーも、同じ目標を持つもの同士がコミュニケーションを活性化させ、人と人とのつながりが、今この“長浜”を創ったのだと思っています。

コミュニケーションは人と人をつなげ、何かを創りあげる原動力になると、映画を見て、そして長浜を見て、改めてそう思ったのです。

長浜の人・情熱と相対論

2006-05-21 20:10:54 | 黒壁
アルバート・アインシュタインは1879年(明治12年)に、ドイツのウルムという町に生まれたという。
もちろん、アインシュタインといえば一番に思い描くのは“相対性理論”であり、彼がスイスの特許局に勤務しながら研究を続け1905年に“特殊相対性理論”を、その後ベルン大学の講師、チュリーッヒ大学の員外教授を経て、1911年プラハ大学の教授になった頃から研究を始めたといわれる“一般相対性理論”を1915年から1916年にかけて発表する。

“相対性理論”という、聞いただけでアレルギーの出そうな理論が、長浜に何の関係があるのか・・・?。と、問われると正直に
「何の関係もありません。」と答えざるを得ません。
じゃあ、なぜ“相対性理論”がここで出てくるのか・・・?。
もう少し続けます。

前回の記事で書いた“北陸線直流電化”を地域発展のために、建設的な提言・活動をした「市民会議」は設立時に大きな目標を持ったと聞きます。
その3大目標とは、
1、 全天候型球戯場を誘致する。
2、 JR北陸線の直流電化。
3、 大学の誘致。
そのすべてが、平成15年に長浜に大学が開学されたことで達成されたのは、事実がそのすべてを物語っています。

「市民会議」はJC(青年会議所)メンバーOB ・JCメンバーが中心になって立ち上げたと聞きますが、そのメンバーはJCメンバーやJCメンバーOBのみならず、自治会、商店街、山組等と広がりを見せ、コミュニケーションが活性化したと聞きます。


今からちょうど20年前、僕はとある勉強会に参加していました。
確か地域活性化かリーダーシップ開発の勉強会だったと記憶していて、そのときの講師はもう誰だったかは忘れてしまったが、冒頭にホワイトボードにこんな式を書いたのです。

E=mc²

「何の式だかわかりますか?。」
と講師の方に聞かれて、頭の中では“アインシュタインの相対論”やん!!。”
と思っていたが、いまいちこの勉強会に関係ありそうもないと思っていると、講師の方が、

「もちろん、アインシュタインの相対性理論の方程式です。
 E(エネルギー)はm(質量)×c²(光速度の2乗)に比例するという有名な方程式ですね。
 ここで違う方程式をここに当てはめます。

E(エネルギー)はm(メンバー)のc²(コミュニケーションの2乗)に比例する。

と覚えてください・・・・・。」


「市民会議」のエネルギーは、メンバーの広がりと、メンバーの方たちのコミュニケーションによってまさにこの方程式を実践し、設立当時に掲げた3大目標を有言実行したんだろうと想像します。



長浜の人・街・歴史・そして文化 2

2006-05-18 23:41:31 | 黒壁
今日18日は大阪へ出張でした。
長浜駅から新快速に乗って新大阪まで行ったわけですが、いやー以前に比べて大変便利になりました。

長浜-大阪間が乗り換えなしで約1時間半で行けてしまう。
ひじょうに便利さを感じているのですが、以前はこうじゃなかったですよね。

東海道本線は直流電化で、北陸線は交流電化。
もちろん、米原-長浜間も今は直流電化ですが、以前は交流電化だったのは僕くらいの年齢なら誰でも知っていることですよね。
正確には坂田-米原間に交直のデッドセクション(絶縁区間)があり、以前は東海道線を直流電気機関車で米原まできた列車は、米原から蒸気機関車で田村まで行き、田村で交流機関車に連結しなおして北陸線を走ったらしい。

その後、交直両用の車両が走りはじめたのだが、1983年まで米原と田村で蒸気機関車はディーゼル機関車へと変わっていきましたが、2度機関車の付替え作業を行っていました。

交直両用の車両は、米原を出ると途中、電源切り替えのため一瞬車内の電灯が消えた。
これがデッドセクションを通過していた証であり、その間列車は惰性で走っていたと教えてもらったことがある。

交流電化は直流電化に比べ地上設備(変電所)のコストが安くすむし、変電所間の距離も長く取れる。と聞いたことがあり、米原-長浜間を直流電化にするという話が持ち上がったときの僕の率直な感想は、
「むつかしいのとちがうやろか・・・・・。」
だったのです。

ところが、ところが、これを実現してしまう。
長浜の人達の情熱には本当にびっくりしてしまいました。

米原-長浜間を直流電化は平成3年9月だったと記憶しているが、“黒壁スクエアー”は平成元年7月にガラス館がすでにオープンしているから、この米原-長浜間の直流電化により京阪神からの交通の便が格段に良くなり、集客力が伸びたのは否めないと思う。

この、“米原-長浜間を直流電化”のアイデアは、「このままではあかん!!」と設立された市民会議が目標としたもののひとつで、市民側から出た発想が実現されてしまう、このエネルギーは長浜ならではだと感じています。


なにが言いたいのか自分でも不明のままつづきます・・・・・。