2013 鳥来月 4日
4月4日
今日は 父の命日です
昭和58年4月4日ですから
今から丁度30年前のことになります
癌の手術をして
3年の命
と、宣告されてから
丁度三年めに 他界しました
58才でした
ですから もう 僕の歳には
手術をしたアト
となります
父は本当に働き者で
365日?休まず ふたつや文具を営業しておりました
それでも 年に一回くらい
家族で旅行に行ったり
父母で旅行に行ったりしておりました
一年に一度くらい思い切って遊ぼう
と、あの頃まだあまり皆がやっていなかった
スキーに行こう
と言い出したり
海外旅行が自由化されて数年の内に
旅行にも行きました
良く 話もしました
話す場所は お店
朝 7時にふたつや文具を開け
学校に行く前手伝いをしていましたので
その学校に行く直前まで
話をしていました
どんな話をしていたのか
今となっては 定かではないのですが
僕は大きくなったら・・・・・になりたい
じゃ ふたつや文具はどうするんだ?
両方やる
とか
ディズニーランドに行きたい
自分でお金を貯めて行ったら良い
ヨットがほしい
自分で作れるんじゃないの?
昔の人は木で作っていたんだから
飛行機が欲しい
と云うと
戦争中 99式艦上爆撃機を作っていた
飛行機は難しい
ラジコン飛行機からやってみろ
近所のお兄さんたちが
Uコン飛行機をやっていると
あれも やってみろ
と、なんでも やらせてくれた
色々遊ばせてくれたが
家の手伝いは 半端無く手伝わされた
学校に行く前にお店の手伝い
帰ってきてからは 近所に自転車で配達
遠くは バスに乗って行って来い
半ば 遊びの感覚でしたが
色々な経験をさせてくれた
店が暇になると
よし キャッチボールしよう
母が 僕にピアノを習いに行かせると
父は 対向して 僕を剣道場に送り迎えして通わせた
今もあるのだろうか?
横浜駅の東口のそばの道場だった
仕入先が伊勢崎町の方にあったので
剣道のある日の仕入れは
僕の稽古の時間に合わせて夜に行っていた
学校から帰ると
かばんをホッポリだして遊びに行く事も
帰宅後は店を閉めるまで
お店の手伝い
のりこちゃんが僕の事を
本当に健康だよね
歯医者さんにすら行かない
と 言うのだが
健康に生んでくれた父母に感謝
だが
歯医者さんには良く通ったのだ
もう 20年以上前に
都岡小学校のP,T,A,の役員をやらせていただいていたときに
厚生委員さんが
歯の校医である
児玉先生をお招きして講演会を開いた
その時 児玉先生は
大学を卒業して東京で開業するつもりで準備をしていたが
何年でも良いから
横浜の都岡で開業してもらいたい
と云う 依頼を受け
都岡で開業した
その時 都岡は歯医者の無医村だった
と仰っておられました
それまで バスに乗って歯医者さんに通っていたのですが
すぐそばに出来てそこに通いだした
小学 1年生の頃の話です
児玉先生はよくお店にもいらして
僕の歯の治療の話しもしていた
虫歯に被せる金属の事で見本まで持ってきて
これが保険で出来る歯
これは 保険がきかない歯
こっちは 数千円
こっちは 三万円以上
でも、こっちなら 一生もの
ほら 叩いてみて音が違うでしょ
奥歯全てにその3万いくらかする歯を入れてくれた
その時そんなに高いの入れちゃうの?
ときくと
だって 虫歯にしちゃったのは
お父さん お母さんのせいだから
でも、これからは自分でちゃんと歯を磨いて
虫歯にしないようにしないとね
一生使える被せる歯を入れてくれたんだ
大事にしないと
でも、児玉先生
高いものを売りつけるだけあって
腕も良かったんだな
アレから 50年近く経とうとしているのに
一度も 取れた
剥がれた
治療した歯が痛い
なんてことはありません
その後 児玉先生は鶴ヶ峰の駅近くに移転され
この歯が変な方に向かい出したら抜こうね
と言ったのを最後に
児玉先生と言うより
歯医者さんに行かなくなった
だから 僕には八重歯がある
あの時 アト半年児玉先生が都岡にいたら
有無を言わさず ふたつやにまで来て
息子さんの歯は変な方に向かっているので抜きましょう
と、父に言ったに違いない
そんな言い訳をせずに
あー 行けばよかった
だって 八重歯の上に何か当ると痛いんだ・・・・
ボールでも 赤ちゃんの頭でも・・・・
その時先生と久しぶりにお会いして話しをしたのですが
あれから 20年
また ご無沙汰しちゃっております
その当時 虫歯菌は親からうつる
なんてことは考えられておらず
虫歯が無い子は先天的な健康優良児以外
考えられないんだよ
と、小学生の僕に教えてくれたりもした
そのくせ 父は自分が歯医者さんに通うのは嫌いで
よく 歯痛を止める
こんじすい
と云うのを綿に湿らせて
歯に入れていた
お金を貯めて
ロスのダウンタウンで レンタカー借りて
アナハイムシティーのディズニーランドに行き
横山晃先生のところに設計図を買いに行き
ヨットも作った
進水式の父の嬉しそうな顔は今でも忘れられない
でもその時はすでに手術後で
一緒に乗ろうよ
と云うのに
まだチョット傷口が痛むんだ
じゃ 完璧に治ってからね
と、約束したのだが
その後何度か入退院をし
今日ダメだ
持ち直した
今日は
と、連日病院から連絡をもらい
急いで店を閉め病院に向かった
長女が産まれて一年ほどで
かなり悪化し最後の入院
母は病室に泊り込み
僕たちは店を早めに閉めて
病院へ
いつも面会時間のギリギリで
5分ほどしかいられませんでしたが
何ヶ月間の日課となっておりました
悪いね こんなにお金を使わせちゃって
と云う父に
だって これ お父さんのお金だよ
僕はまだ何にも得ていないのだから
と言ったっけ
でも、正直 10日後との支払いは辛かったけど・・・
父が他界し
久しぶりに表に出た母は
桜が咲いているんだね
と感慨深げに言っていたのを
思い出します
そして 母は15年後の
3月21日
その時も 桜が咲いていました
飛鳥は 昨日横浜大桟橋から世界一周の航海に出ました
僕が大桟橋からパラオに行く時に
乗り遅れ・・・・
パスポートも荷物も船に積んでから
お茶を飲みに行ったのがまずかった
銅鑼が鳴るから判りますよ
と云う言葉を信じすぎて
そのドラの音にきずかなかった・・・・
以前の大桟橋の一番前の手すりを飛び越え
階段を降り
船の下から
この船乗るんです~
と、大声を張り上げて
タラップを降ろしてもらい
それによじ登るようにして乗せてもらったアト
父が 大桟橋の他の送迎者に
すみませんでした
と、大声であやまっていたと
何年か前に姉から聞いて
ビックリもし あのお父さんならやりかねない
とも思った
翌年も 船旅をした
まったくの偶然なのですが
帰国日は 両方とも
4月4日でした
新婚旅行に車で東北に向かうときに
国道16号を通る
新婚旅行の途中で家によるもんじゃない
と云うので
姉の家によって結婚式のお礼を言い
荷物を置き
父に電話をしたらしく
歩道橋で日の丸の国旗を振り回してくれた
入院中 僕の何かのイベントがあったときに
電報をくれた
最後まで
町内の事をやり
商栄会のことをやり
その上で ふたつや文具を盛り立て
ちょっと不景気になって売上が伸びないと
どうしよう?
と、真剣に考えていた父
この状態になったら父だったらどうしただろう?
と、何度考えても僕の頭では良い案が浮かばない
もう少し長生きしてくれたら
もっと沢山の事教えてもらえたのに・・・・
父の事を思い出すとキリが無いですね
だから 今
どんな人とも悔いの無いように
毎日を過ごせるようにしているつもりですが
不義理があるかたもいらっしゃるのが現実です
少しづつでも感謝の気持ちを伝えなくちゃ
と思う 父の命日です
4月4日
今日は 父の命日です
昭和58年4月4日ですから
今から丁度30年前のことになります
癌の手術をして
3年の命
と、宣告されてから
丁度三年めに 他界しました
58才でした
ですから もう 僕の歳には
手術をしたアト
となります
父は本当に働き者で
365日?休まず ふたつや文具を営業しておりました
それでも 年に一回くらい
家族で旅行に行ったり
父母で旅行に行ったりしておりました
一年に一度くらい思い切って遊ぼう
と、あの頃まだあまり皆がやっていなかった
スキーに行こう
と言い出したり
海外旅行が自由化されて数年の内に
旅行にも行きました
良く 話もしました
話す場所は お店
朝 7時にふたつや文具を開け
学校に行く前手伝いをしていましたので
その学校に行く直前まで
話をしていました
どんな話をしていたのか
今となっては 定かではないのですが
僕は大きくなったら・・・・・になりたい
じゃ ふたつや文具はどうするんだ?
両方やる
とか
ディズニーランドに行きたい
自分でお金を貯めて行ったら良い
ヨットがほしい
自分で作れるんじゃないの?
昔の人は木で作っていたんだから
飛行機が欲しい
と云うと
戦争中 99式艦上爆撃機を作っていた
飛行機は難しい
ラジコン飛行機からやってみろ
近所のお兄さんたちが
Uコン飛行機をやっていると
あれも やってみろ
と、なんでも やらせてくれた
色々遊ばせてくれたが
家の手伝いは 半端無く手伝わされた
学校に行く前にお店の手伝い
帰ってきてからは 近所に自転車で配達
遠くは バスに乗って行って来い
半ば 遊びの感覚でしたが
色々な経験をさせてくれた
店が暇になると
よし キャッチボールしよう
母が 僕にピアノを習いに行かせると
父は 対向して 僕を剣道場に送り迎えして通わせた
今もあるのだろうか?
横浜駅の東口のそばの道場だった
仕入先が伊勢崎町の方にあったので
剣道のある日の仕入れは
僕の稽古の時間に合わせて夜に行っていた
学校から帰ると
かばんをホッポリだして遊びに行く事も
帰宅後は店を閉めるまで
お店の手伝い
のりこちゃんが僕の事を
本当に健康だよね
歯医者さんにすら行かない
と 言うのだが
健康に生んでくれた父母に感謝
だが
歯医者さんには良く通ったのだ
もう 20年以上前に
都岡小学校のP,T,A,の役員をやらせていただいていたときに
厚生委員さんが
歯の校医である
児玉先生をお招きして講演会を開いた
その時 児玉先生は
大学を卒業して東京で開業するつもりで準備をしていたが
何年でも良いから
横浜の都岡で開業してもらいたい
と云う 依頼を受け
都岡で開業した
その時 都岡は歯医者の無医村だった
と仰っておられました
それまで バスに乗って歯医者さんに通っていたのですが
すぐそばに出来てそこに通いだした
小学 1年生の頃の話です
児玉先生はよくお店にもいらして
僕の歯の治療の話しもしていた
虫歯に被せる金属の事で見本まで持ってきて
これが保険で出来る歯
これは 保険がきかない歯
こっちは 数千円
こっちは 三万円以上
でも、こっちなら 一生もの
ほら 叩いてみて音が違うでしょ
奥歯全てにその3万いくらかする歯を入れてくれた
その時そんなに高いの入れちゃうの?
ときくと
だって 虫歯にしちゃったのは
お父さん お母さんのせいだから
でも、これからは自分でちゃんと歯を磨いて
虫歯にしないようにしないとね
一生使える被せる歯を入れてくれたんだ
大事にしないと
でも、児玉先生
高いものを売りつけるだけあって
腕も良かったんだな
アレから 50年近く経とうとしているのに
一度も 取れた
剥がれた
治療した歯が痛い
なんてことはありません
その後 児玉先生は鶴ヶ峰の駅近くに移転され
この歯が変な方に向かい出したら抜こうね
と言ったのを最後に
児玉先生と言うより
歯医者さんに行かなくなった
だから 僕には八重歯がある
あの時 アト半年児玉先生が都岡にいたら
有無を言わさず ふたつやにまで来て
息子さんの歯は変な方に向かっているので抜きましょう
と、父に言ったに違いない
そんな言い訳をせずに
あー 行けばよかった
だって 八重歯の上に何か当ると痛いんだ・・・・
ボールでも 赤ちゃんの頭でも・・・・
その時先生と久しぶりにお会いして話しをしたのですが
あれから 20年
また ご無沙汰しちゃっております
その当時 虫歯菌は親からうつる
なんてことは考えられておらず
虫歯が無い子は先天的な健康優良児以外
考えられないんだよ
と、小学生の僕に教えてくれたりもした
そのくせ 父は自分が歯医者さんに通うのは嫌いで
よく 歯痛を止める
こんじすい
と云うのを綿に湿らせて
歯に入れていた
お金を貯めて
ロスのダウンタウンで レンタカー借りて
アナハイムシティーのディズニーランドに行き
横山晃先生のところに設計図を買いに行き
ヨットも作った
進水式の父の嬉しそうな顔は今でも忘れられない
でもその時はすでに手術後で
一緒に乗ろうよ
と云うのに
まだチョット傷口が痛むんだ
じゃ 完璧に治ってからね
と、約束したのだが
その後何度か入退院をし
今日ダメだ
持ち直した
今日は
と、連日病院から連絡をもらい
急いで店を閉め病院に向かった
長女が産まれて一年ほどで
かなり悪化し最後の入院
母は病室に泊り込み
僕たちは店を早めに閉めて
病院へ
いつも面会時間のギリギリで
5分ほどしかいられませんでしたが
何ヶ月間の日課となっておりました
悪いね こんなにお金を使わせちゃって
と云う父に
だって これ お父さんのお金だよ
僕はまだ何にも得ていないのだから
と言ったっけ
でも、正直 10日後との支払いは辛かったけど・・・
父が他界し
久しぶりに表に出た母は
桜が咲いているんだね
と感慨深げに言っていたのを
思い出します
そして 母は15年後の
3月21日
その時も 桜が咲いていました
飛鳥は 昨日横浜大桟橋から世界一周の航海に出ました
僕が大桟橋からパラオに行く時に
乗り遅れ・・・・
パスポートも荷物も船に積んでから
お茶を飲みに行ったのがまずかった
銅鑼が鳴るから判りますよ
と云う言葉を信じすぎて
そのドラの音にきずかなかった・・・・
以前の大桟橋の一番前の手すりを飛び越え
階段を降り
船の下から
この船乗るんです~
と、大声を張り上げて
タラップを降ろしてもらい
それによじ登るようにして乗せてもらったアト
父が 大桟橋の他の送迎者に
すみませんでした
と、大声であやまっていたと
何年か前に姉から聞いて
ビックリもし あのお父さんならやりかねない
とも思った
翌年も 船旅をした
まったくの偶然なのですが
帰国日は 両方とも
4月4日でした
新婚旅行に車で東北に向かうときに
国道16号を通る
新婚旅行の途中で家によるもんじゃない
と云うので
姉の家によって結婚式のお礼を言い
荷物を置き
父に電話をしたらしく
歩道橋で日の丸の国旗を振り回してくれた
入院中 僕の何かのイベントがあったときに
電報をくれた
最後まで
町内の事をやり
商栄会のことをやり
その上で ふたつや文具を盛り立て
ちょっと不景気になって売上が伸びないと
どうしよう?
と、真剣に考えていた父
この状態になったら父だったらどうしただろう?
と、何度考えても僕の頭では良い案が浮かばない
もう少し長生きしてくれたら
もっと沢山の事教えてもらえたのに・・・・
父の事を思い出すとキリが無いですね
だから 今
どんな人とも悔いの無いように
毎日を過ごせるようにしているつもりですが
不義理があるかたもいらっしゃるのが現実です
少しづつでも感謝の気持ちを伝えなくちゃ
と思う 父の命日です