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【すらすら読める】ジャン=ジャック・ルソー・その人生・その思想 その三【第1部】:ルソーとその政治論

2020年01月31日 | 哲学
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による哲学の講話をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

Billecocq神父に哲学の講話を聴きましょう


初回の時に、お知らせしたとおり、
第一に、ルソーの人生をご紹介し、
第二に、ルソーにおける有名な課題である「芸術」、ルソーによる「学問芸術論」を中心にご紹介しました。
今回、第三回目として「ルソーとその政治論」と題します。
次回(第四回)は「ルソーとその教育論」、ルソーの政治論の延長線にある課題を取り上げます。
最終回となる第五回には「ルソーとその宗教論」についてお話しします。

【第一部】
さて、今夜は「ルソーとその政治論」です。
政治に対するルソーの思想を知るためには、ルソーの二つの著作を参照すればよいでしょう。
まず、「人間不平等起源論」という論文です。それから、「社会契約論」、その副題は「政治法の諸原理」です。
前者の「人間不平等起源論」は1753年に書かれました。後者の「社会契約論」は1762年に書かれました。

最初に、手短に、「人間不平等起源論」をご紹介したいと思います。お配りした資料には「社会契約論」の引用が載っています。「人間不平等起源論」からの引用はお配りしていません。
さて、この論文も、前回ご紹介した「学問芸術論」と同じような切っ掛けで書かれました。思い出しましょう。ルソーがある雑誌、恐らく「ル・メルキュール誌」を読んで、ディジョンのアカデミーがある課題または質問または問題を対象に論文募集としている記載がありました。

今回の質問は次の通りです。
「人間同士の間に存在する不平等の起源はどこにあるのか、また自然法によって許される不平等なのか」

「学問芸術論」の時と同じような「ひらめき」がなかったでしょうが、少なくともその問いを見たルソーは興奮し、考え、その有名な論文を書き下ろしました。その結果、彼は優賞を取りました。
一言で言うと、その論文において、ルソーは「自然」と「人為」とを区別します。つまり「自然」と「社会」とを区別します。ルソーにとって、「社会」とは「自然ではないこと」です。それについてはまた後述します。
または、『告白』においてもルソーが表現しているように「自然による人」と「人間による人」という区別をします。前者は自然な人であって、後者は「社会によって再構築された人」という意味です。

要するに、その論文においてルソーは説明していますが、「自然の人」は根本的に「無罪(罪が無い)」です。または「幸せ」です。さらにいうと、道徳以前の状態にあるのが「自然の人」としますから、善悪がまだ存在しない状態で、すべてにおいて上手くいって幸せな人です。その「自然な人」は、原始的な「善」のままだ、と。どちらかというと、その「自然の人」は動物と全く変わらず、唯一動物と違う様相というと、「自然の人」は「自由」という能力を持っていることです。いいじゃないのですか。つまり、これが有名な「善き未開人」という神話です。

しかし、この論文に関してよく理解すべき点があります。それは、ルソーがその論文において「人類史」を書いているわけではないことです。つまり、「最初に、人間にとって絶対に幸せな時代があった、原初において人間が善であった」と言ったような「歴史」を述べているのではないのです。このように「起源論」を読んで理解したら、ルソーの思想を間違って理解することになります。

実際のところ、ルソー自身は、18世紀当時の自分が生きている社会、または彼自身の立場から経験している社会における「不平等」を説明しようとします。そこで「科学者の方法」という思考様式を使います。というのは、科学者のように、最初、ある「仮説」を措定して、その仮説に基づいて、議論を展開していき、「哲学的な」結論を出そうとします。その結果、「社会契約論」という著作は、それらの結論を纏めて発展してきた本だと言えます。

言い換えると、「善き未開人」という神話は、仮定に過ぎません。ルソーがその神話を仮定して、そこから出発して18世紀、当時の彼の目の前にある現象を説明するために、その仮定を活かして、展開して考えていきます。将に「科学方法」の採用です。ここで科学者のやることを考えましょう。
例えば、惑星の動きを取り上げましょう。これは歴史上、教会においても含めて多くの議論を招いた科学的な課題なので、好例でしょう。科学者は、「惑星の動き」という問題にどのように具体的に接するでしょうか。
まず「今、観察できる惑星の動きを説明する理由が何であるか」と自分に問います。惑星の動きをできるだけ観察して、それらをノートして、それらの動きを描いたりします。いろいろ測定して、「それらの動きの裏にある説明は一体なんであるか」と自分に問いかけます。大事なのは、その「説明(方式)」は、観察できないということです。科学者は現象だけを観察します。その裏にある、それらの現象を規定する「法則」を観察することは不可能です。

従って、その法則に近づくために、科学者は多くの仮説を立ててみます。そして、観察された現象を、それらの仮説で説明しようとします。次に措定された仮説がその現象を説明できるかどうかを確認します。そして、以前に収穫した多くの観察のすべてが説明できる仮説を発見した時に、「やった!正しい結論を発見した」となり、例えば「太陽系において、地球ではなく太陽が中心に位置している」といったような結論をだすのです。だから、科学者の間に、いつもいつも論争が起きます。

例えば「地動説」と「天動説」の論争の原因は科学上の方法論にあります。というのも、複数の仮説を立てても、当時、観察できた現象のすべてを説明し切った仮説が、同時に複数があり、論争が起きたからです。当時確認できた観察で、両方の仮説は、科学的に言うなら「正しい」ので、どちらか実際に正しいかを争う余地があったのです。

ルソーに戻ると、彼は「人間不平等起源論」において、次の仮説を立てます。ところが、その仮説をいつまでも「是」として、(それが本当なのかを検討していないのに)これはすべての現象を説明しつくすと主張します。
その仮説とは「自然の人は完全に罪が無い」です。つまり「善き未開人」を根拠づけるために、歴史を探って証明するのではなく、単に科学的な仮説、即ち「仮説的な根拠」に過ぎません。言い換えると、「善き未開人」というのは「説」に過ぎません。問題はその仮説を「公理」にして、その思想を展開していくことです。

さて、ルソーにとって、最初に何が起きたでしょうか。彼によれば、自然状態にあった人間が、外部からのある事情のせいで、ある時点で「原始的な無罪」を失ったと見ます。例えば、ルソーは災害を取り上げます。そのせいで、自然状態から「未開の状態」に落ちてしまったと見ます。未開の状態になると、人々はもうやむを得ず、ある程度の不平等の状態となった、そして、「一人が他人の物を横取りし」、そうした時点で、私有地の始った、と見ます。そこで、その私有地を維持するために力を使って、他人が本人より弱い限り、本人はその私有地が奪われなくても済んだ、と。従って、多くの不平等が生まれただけなく、それらの不平等が定着し、または所有権も定着してきた、そのせいで、人間同士の関係において不均衡・不安定性を生んだ、と。
これは、第二の状態であって、「未開人の状態」です。

ある意味で、以上の話はカトリックの教義の貧しい滑稽な模倣だと言えましょう。
カトリックの教義では、楽園でのアダムとイブの無辜(むこ)の状態があり、そして、原罪によってその堕落、そして、イエズス・キリストによる贖罪があります。
ただし、贖罪されたからといって、誰も確認できるように、最初の無辜の状態が取り戻されたわけではありません。それは兎も角、ルソーの理論においても、カトリック教義とある程度の類似性が見られます。無罪状態の喪失です。

つまり、無罪の状態とは「善き未開人」の神話です。そして、無罪の状態を喪失してかは、「未開人の状態」です。その段階では「善き未開人」ではなく、「悪き未開人」となります。つまり、所有権が発生して、喧嘩し、争い、不平等が発生したと。これらの単語はルソーが良く使っていて、彼の著作に散見しています。

それから、不平等という問題を解決するためには、自然状態(未開の状態)に戻ることは不可能だという前提がありますので、人間同士に「社会契約」を作るしかなかったとします。
ルソーによると、部分的でも人間を治し、未開の状態に戻すために、人間自身が人間同士である契約によって社会を「作り出した」とします。不平等と喧嘩ばかりで、また自然状態における多くの「権利(自由)」の喪失を意味する「未開の状態」を部分的にも治す役割が社会にあるはずだとしています。

御覧の通り、ルソーにとって、社会は自然的な事実であるのではなく、あくまでも「契約」による現象に過ぎません。つまり、彼にとって、たまたま発生して定着してきていた問題を解決するためにだけ、社会は「人造的に」人間によって作り出されたに過ぎないのです。言い換えると、ルソーによると、自然状態の人間は、つまり、人間は本性的に「独立している存在」です。
要するに、「人間不平等起源論」は結局「絶対自由主義」を賞賛する文章です。または、「個人主義」を絶賛する文章であることは一目明瞭です。

ルソーは数年後、「社会契約論」という著作において、以上の政治思想をより詳しく説明していきます。これから、「社会契約論」と抜本した引用に基づいて、ルソーの政治論をご紹介していきたいと思います。

それについて、デュゾー(Dusaulx)という人にルソーが発言したとされている有名なセリフを良く取り上げられます。これは本当に言い出したかどうかは不明のままですが、少なくとも面白い側面を示すセリフですから、読み上げさせていただきます。ルソーはDusaulxに次のように言った可能性があります。

「私の『社会契約論』に関していえば、それを完全に把握し理解していると自慢している人がいれば、私よりも頭がすぐれている。本来ならば、その本を書き直すべきですが、その力と時間の余裕がもはや尽きたので、よりようがない。」
自分の「社会契約論」についてルソーが言ったとされている評価です。

それは兎も角、1762年、「社会契約論」は出版されて、その数ヵ月後、次回にご紹介する「エミール―教育について」という著作も出版されました。しかし出版されたばかりの「社会契約論」はフランスとジュネーブにおいてすぐに禁書となります。ルソーはその本を書こうと思ったのは、昔からのことでした。少なくとも、大使館の書記官としてヴェネチアに滞在した時期からその本について思っていたのです。少なくとも、「政治制度」についての理論をその時期から書こうと思いました。そこで、『社会契約論』はその「政治制度」の哲学上の部分に当たると言えましょう。

実は、『社会契約論』を要約し、それを理解するのは、非常に簡単なことです。三つの言葉を覚えていただけたらそれで済みます。
「自由」と「平等」。ただし、三つ目の言葉は当たらないと思いますよ。博愛ではなく、「一般意志」です。まあ、もしかしたら「博愛」でもなんとかなるかもしれませんけどね。

「自由」「平等」「一般意志」
「社会契約論」は四編に分かれています。一編はそれぞれ、およそ10章からなっています。それぞれの章は3-4ページからなっていますので、読みやすくなっています。最長の章でも6ページを超えません。だから、やはり、20ページからなる章の本よりも、読みやく快いですね。

総計すると、四分に分けられ、全書は180ページだけで、48章です。
繰り返し繰り返し出てくる主な課題は「一般意志」です。この概念こそが、『社会契約論』を理解するための鍵であって、主要となる概念です。つまりこれこそが『社会契約論』のキーワードです。

「一般意志」は絶対に正しいし、間違えることは一切ないし、単一であるし、譲渡不可能だが、残念ながら、時々、一般意思が誤魔化されることがある、とされます。それは、完璧すぎる一般意思に当て嵌まらない現実を説明するためのルソーによるコツですね。
また「一般意志」は「個別意志」あるいは「個人の意志」に反しています。その上、後述しますが「中間共同体」にも反しています。言い換えると、『社会契約論』において、中世期の政治生活の批判が織り込まれます。

「社会契約」というのはある「逆説」より誕生します。
逆説の一点目は、「社会は自然的(本性的)なことではない」です。

二点目「しかしながら、社会は現実に不可避である。」言い換えると「本来ならば、そして人間が自分の本性に従うのならば、人間は社会において生活すべきではないし、生活しないはずだ」が、現実として「人間は社会において生活せざるを得ない」という逆説です。言い換えると、「人間は社会において生活するのは理不尽だ。なぜかというと、人間は本性的に非社会的な存在だから」と見ながらも、「現実において、どう見ても、社会において生活せざるを得ず、社会の外に生活することはできない」、これが『社会契約論』を生んだ逆説です。

お配りした最初の引用です。『社会契約論』の最初の文章です。
「人間は自由なものとしてうまれた」(1,1)これは、ルソーが見ている人間の本性の一つの要素です。「しかもいたるところで鎖につながれている。」言い換えると、現実にどこにいても、人間は奴隷だと言わんばかりだ。「自分が他人の主人であると思っているようでも、実はその人々以上に奴隷なのだ。」
つまり、ある人々は自分が他人を支配していると思っているかもしれないが、彼らも含めて、ある意味で奴隷だ、と。他にある主人の奴隷でもあるのだ、と。

「どうしてこの変化が生じたのか?私は知らない。何がそれを正当なものとしうるのか?私はこの問題は解き得ると信じる。」(1,1)

つまり、人間は一体なぜ社会において生きているのか。また、社会においての人間の生活の基盤はなんであるべきか、という問いをあげて、ルソーがその著作において答えてみようとします。

「もし、私が力しか、または、そこから出てくる結果しか考えに入れないとすれば、わたしは次のように言うだろう。ある人民が服従を強いられ、また服従している間は、それもよろしい。人民がクビキをふりほどくことができ、またそれをふりほどくことが早ければ早いほど、なおよろしい。なぜなら、そのとき人民は、〔支配者が〕人民の自由を奪ったその同じ権利によって、自分の自由を回復するのであって、人民は自由を取り戻す資格を与えられたからだ。しかし、社会秩序は他のすべての権利の基礎となる神聖な権利である。しかしながら、この権利は自然から由来するものではない。それはだから、約束に基づくものといえる。これらの約束がどんなものであるかを知ることが、問題なのだ。それを論ずる前に、わたしはいま述べたことをハッキリさせておかねばならない。」(1,1)


要するに、最初、ルソーが言っていることは次のとおりです。
「人民が服従を強いられ、また服従している間は、それもよろしい。」
つまり、人間が誰かに服従せざるを得ない時は、人間は相応しい状態にはいないということでます。なぜでしょうか。以前にもちょっと触れたことですが、それは、「人間が自由を失ったからだ」とルソーは言っています。人間の一番貴重な権利は自由だと。これは、『社会契約論』の最初の文章です。「人間は自由なものとしてうまれた。」『社会契約論』を考えるために、いつもこの文書を念頭に置いておきましょう。「人間は自由なものとしてうまれた」と。

言い換えると、ルソーによると、本性的に言うと、人間を特徴づけて人間を定義づけるのは「自由」です。何があっても、どうしても人間が自由のままに残るべきで、人間は自分の自由を維持すべきだ、と。しかし社会において生活せざるを得ない時点で、人間はもう通常な状態でなくなった、従って、「人民がクビキをふりほどくことができ、またそれをふりほどくことが早ければ早いほど、なおよろしい。」それは、「自分の自由を回復する」から「なおよろしい」ということです。しかしながら、それでも社会秩序が存在しているということもルソーは確認しています。

そういえば、ルソーはちょっと不思議なことを書いています。
「しかし、社会秩序はすべての他の権利の基礎となる神聖な権利である。」
実を言うと、ルソーがここで言おうとするのは「人間が自由のままにいられる社会秩序は存在している」というようなことです。そして、この社会秩序の如何について、またどうやって設立できるかなどについてが、『社会契約論』の論じる課題です。
要するに、ルソーから見ると、人間の本性を尊重する唯一の社会形態は人間の自由を尊重し、その自由を維持させる社会です。言い換えると、人間がその社会に入っても、自分の自由を失わなくても済むような社会をルソーは理想にします。

それで、『社会契約論』においてのルソーの解くべき難題は次のことです。
「人間は社会的な存在でありながら、つまり服従せざるを得ない存在でありながら、同時にどうやって自由な存在でありえるだろうか、つまり服従しなくてもよいだろうか。」

『社会契約論』はこの矛盾こそを解こうとしています。簡潔にいうと、「人間はどうやって同時に服従しながら自由のままにいられるのか」という問題です。
お配りした資料の引用毎の最初の数字は、例えば(I,1)と言った表記があると思いますが、第一桁は何編目であるか(全・4編)、第二の桁は編の中の章を指します。総ての引用は『社会契約論』からです。

つぎに、ルソーは引き続きこう書きます。
「あらゆる社会の中でもっとも古く、またただ一つ自然なものは家族という社会である。」(1・2)
それは興味深い文章です。「ただ一つ自然な」社会は家族だけです。ルソーによる市民社会、あるいは村・国家などは自然な社会ではないということですね。言い換えると、我々が生活している社会は自然ではないのです。「国家Civitas」すなわち「政治的な社会」は自然ではないと見ます。

では家族についてルソーが何を言っているかを見ていきましょう。
「あらゆる社会の中でもっとも古く、またただ一つ自然なものは家族という社会である。」
もしもルソーが現代に生きていたならば、確かに彼の世紀よりも現代の方が家族を否定することは簡単だったといえるでしょう。「科学進歩」の「お陰で」、父母を隠して、父母抜きに子供を一応「作れる」ようになったので、昔より家族を否定しやすくなったかもしれません。ルソーの時代だと、そういったような否定は考えられなかったし、思いつきそうになってもまったく現実的な話ではなかったので、ルソーは「家族」に対して絶対に否定できなかったのです。

ルソーでさえ「家族が自然なものである」と認めざるを得なかったのです。ルソーの時代にも現代にも、父母がない限り、これは変わらない事実で、家族無しには子どもは生まれません。まあ、現代は、「有能」な政治家たちのお陰で、家族を奪ったまま子供を「作れる」ことが合法的になっています。素晴らしいことではないでしょうか。
それはともかく、ルソーは「家族が自然な社会だ」と言います。それをどうしても認めざるを得ないからです、本当に認めたくないけれど。
「ところが、子どもたちが父親に結び付けられているのは、自分たちを保存するのに父を必要とする間だけである。この必要がなくなるや否や、この自然の結びつきは解ける。」(1.2)
言い換えると、ルソーによると、子どもが独立するようになる瞬間から、父母を失うのです。ルソーの言葉です。そうなると「自然の結びつき」は解けると断言します。結論は、「家族はもうない」ということです。

考えてみると、なかなか信じられない論調ですね。
「子どもたちは(…)再び独立するようになる。」
ルソーは、いつも同じことに帰するのですけど、彼の妄想は「自由」です。あるいは独立と言ってもわかりやすいかもしれません。
「もし、彼らが相変わらず結合しているとしても、それはもはや自然ではなく、意志に基づいてである。」
これは、言い換えると「ある時点になると、血縁でさえ自然なことでなくなって、意志に基づく縁に変わる」と言います。要約すると、その意味です。

「だから、家族そのものも約束(契約)によってのみ維持されている。」
要するに、幼い時に限ってだけ、子どもは自然に父母を愛しているのですが、その後は、独立したら契約に基づいて父母を愛するようになると主張します。皆様はそういったことを経験したのでしょうかね。やっぱりまったくないなあ。
「両者に共通のこの自由は、人間の本性の結果である。」

これです。ルソーの言っている主要な点です。つまり、人間の本性は根本的に自由なので、自由の故に、独立が伴うしかないということです。
「人間の(本性)の最初の掟は、自己保存を図ることであり、その第一の配慮は自分自身に対する配慮である。そして、人間は、理性の年齢に達するや否や、彼のみが自己保存に適当ないろいろな手段の判定者となるから、そのことによって自分自身の主人となる。」(1.2)
「子どもの権利」と言った発想は、そういった考えに由来しています。というのも、子どもが肉体的に成長したら、何を食べたら良いか、学校で何を習ったらよいか、子どもが自分ですべてを決める権利があるといったような帰結を伴う思想だからです。
以上御覧の通り、なかなか過激な主張です。というのも、ルソーは、しいていえば社会の「自然性」のすべてをトコトンに否定するからです。

「自由のために」として否定します。お配りした次の引用は、引き続き第一遍にあります。
「自分の自由を放棄すること、それは人間たる資格、人類の権利並びに義務をさえ放棄することである。」(1.4)

こういったような雰囲気な引用は数え切れないほど頗る多いのですが、やっぱりこういった発想が『社会契約論』の底流にありますので大事です。絶対自由主義です。そういえば、現代ではとかく「自由」としつこく言われていますが、それはルソーに由来するものに他なりません。現代までルソーの理想をどうしても実現しようとし続けてきました。しかし、ルソーの望んだ理想は現代でも全く実現していないと思いますが、それは驚くべきことでもなくて、ルソーに従ったらうまくいくわけがありません。結局、いわゆる「ルソーのせいだ」ということですね。まあ、「ヴォルテール」のせいでもありますが。

「自分の自由を放棄すること、それは人間たる資格、人類の権利並びに義務をさえ放棄することである。何人にせよ、すべてを放棄する人には、どんな報いも与えられない。こうした放棄は、人間の本性と相容れない。意志から自由を全く奪い去ることは、行いから道徳性を全く奪い去ることである。要するに、約束する時、一方に絶対の権威を与え、他方に無制限の服従を強いるのは、空虚な矛盾した約束なのだ。」(1.4)
要するに、自由に背くことだと言っています。

さて、ルソーは引き続き議論を展開します。まず、人間は本性的に自由であって独立しているとします。「自分は自分の主だ」と言います。それから、お配りした次の引用になりますが、それは「人間不平等起源論」に織り込まれた仮説を再び打ち出します。
「私はつぎのように想定する。人々が自然状態において生存することを妨げる諸々の障害が、人間の抵抗力によって各個人を自然状態に留まらせる力に打ち勝つにいたる点まで到達した、と。そのときに、この原始状態はもはや存続し得なくなる。そして人類は、もしも生存の仕方を変えなければ、亡びるであろう。」(1,6)

言い換えると、ルソーの仮説を踏むと、人間は自分の抵抗力より強いもろもろの障害に対して無力のままで、というのも、ルソーがその後に言うように「人間は新しい力を生み出すことはできない」からですが、人間は障害に対して勝てず、それらの力は人間を支配するかのように、障害が妨げとなって、「自由の状態」という本性から堕落しつつある、としています。
それでは、人間はどうするのでしょうか。

次に続くこの文書があります。
「各構成員の身体と財産を、共同の力のすべてをあげて、守り保護するような、結合の一形式を見出すこと。」

簡単に要約すると、ある時点になって、人間は予想外の非常な難事に遭います。自分の自由が拘束されてしまうほどのような難事だとされています。それらの障害のせいで、自分の自由が妨げられるようになります。それでは、それらの障害に対してその状態を解決するためにどうすればよいのか。人間は他の人間の人々と一緒に結合・結社せざるを得なくなった、ただし、こういった結合・結成の目的は各構成員の自由を維持する、あるいは自由を取り戻すためにあるだけです。ルソーによると、こういったようなことこそが「社会契約」の起源です。「社会契約」の目的も明記にされています。それは自由のためにあると。これが、しつこく「自由」という概念を強調している所以です。ルソーによると、人類史のある時点になって、いや、仮説的、科学的にいうある時点になると、人間は自由を失いそうになったとします。その状況を受けて、自由を失わないように、自由を取り戻すために、他人と結合したのだ、と。

「各構成員の身体と財産を、共同の力のすべてをあげて守り保護するような、結合の一形式を見出すこと。そうしてそれによって各人が、すべての人々を結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、依然と同じように自由であること。」
これは興味深いでしょう。
「そうしてそれによって各人が、すべての人々を結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、依然と同じように自由であること。これこそ根本的な問題であり、社会契約がそれに解決を与える。」(1.6)

よし、それでよろしいでしょう。「社会契約論」はこの引用で終わりです。その引用を読めば、この本のすべてを理解できたと思います。つまり、「社会契約」とは何であるかというと、「各構成員が自分の自由を取り戻す目的をもって、人々が結合することによって社会を設立する契約」ということです。
「自分の自由を取り戻す」とは、「自分自身にしか服従せず」ということです。

そこで、新しい逆説が現れるということがお気づきになったでしょうか。というのも「他人と結合しているのに、一体どうやって自分自身にしか服従しないということはあり得るだろうか」または、「どうやって他人と契約を結んでいるのに、自分の自由を維持することは可能だろうか」という矛盾があるからです。

お配りしていない引用だと思いますが、次の興味深い文章があります。
「要するに、各人は自己をすべての人に与えて、しかも誰にも自己を与えない。」(1.6)
これは、以上の矛盾に対するルソーの解決です。考えてみると単純ですね。思いつくことさえできれば。
「要するに、各人は自己をすべての人に与えて、しかも誰にも自己を与えない。そして、自分が譲り渡すのと同じ権利を受け取らないような、如何なる構成員も存在しないのだから、人は失うすべてのものと同じ価値のものを手に入れ、また所有している者を保存するためのより多くの力を手に入れる。」(1.6)

それに従って、お配りした次の引用が続きます。より明白になると思います。
「だから、もし社会契約から、その本質的でないものを取り除くと(コメント・言い換えるとその本性に属しないものを取り除くという意味)、それは次の言葉に帰着することが分かるだろう。「我々の各々は、身体とすべての力を共同のものとして一般意思の最高の指導の下に置く」と。」

はじめて「一般意志」という表現が登場する個所です。この概念は、以上の逆説を、自由のために結社せざるを得ないという矛盾を解決する役割をもつのです。
「我々の各々は、身体とすべての力を共同のものとして、一般意思の最高の指導の下に置く。そして、我々は各構成員を、全体の不可分の一部として、ひとまとめとして受け取るのだ。」(1.6)

続いて、次のように書いてあります。「この結合行為は、直ちに、各契約者の特殊な自己に代わって、一つの精神的で集合的な団体を作り出す。その団体は集会における投票者と同数の構成員からなる。それは、この同じ行為から、その統一、その共同の自我、その生命及びその意志を受け取る。このように、すべての人々の結合によって形成されるこの公的な人格は、かつては都市国家(シテ)という名前をもっていたが、いまでは共和国(république)または政治体(corps politique)という名前を持っている。それは、受動的には、構成員から国家と呼ばれ、能動的には主権者、同種のものと比べる時は国(puissance)とよばれる。」

ここで、ルソーは一体何が言いたいでしょうか。要するに、人間は自分の自由を取り戻すために、結社する、これが第一歩です。そして、結社しますが、次に、人間はどうするでしょうか。社会を作りますが、その社会を指導するのは個別の人ではなく、肉体の指導家ではなく、「集会全体」を「指導家」にします。というのも、皆が結社するのは、自分の自由を取り戻し、維持するためですから、結社する全員が、自分が自分を指導するのです。すると、自分を自分で指導することによってだけ、他人をも指導するような、いやむしろ、裏返すと、他人を指導することによって自分を自分で指導するために結社するのです。

要するに、社会契約において指導者たちはいないことになります。または、それぞれの意志の結社に過ぎないが、その上に、その意志は皆が共通していると。それは自由を維持しようとする意志が皆の構成員にあった同じ意志だと。すると、こういった結社は非常に強いので、その結社は新しい団体を作って、それは「社会」とルソーが名付けています。ただし、その新しい団体は、新しい意志を生み、その意志は皆共通し、いわゆる、同時に各々の構成員が持つべき意志であり、共同でも持たれている意志です。

ちょっとわかりづらいですが、イメージはわかりましたか。これはルソーの「一般意志」です。つまり、「構成員」からなる契約社会には、皆が共通して同じ基礎・基盤である「目的」を持っているのです。その目的は「自分の自由を維持する」ためです。で、その契約社会というのは、ちょっと大げさにいうと、各々の構成員が自分の自由を提供することによってある種の「超自由(一般意思)」を作り出すのです。そして、それほど「超」自由なので、団体が誕生すると、その団体には、ルソーの言葉を借りたらあたらしい「自我」とか新しい「意志」とか新しい「自由」を持つ新しい人格を作り出します。一言で言うと、それは「一般意志」を作り出す結社だとルソーが言っています。そして、こういった「一般意志」というのは、同時に各々個人の意志でもあるのだとされます。個人の意志と一緒でありながら、一般意志は、個別の意志にとどまらないとされます。感じとしてそういったイメージです。

例えてみたら、こういいましょう。一人の体のそれぞれの四肢にある「生命」は全体の「生命」とまったく一緒だというのと似ていて、個人の意志が「一般意志」と全く一緒だとされます。つまり、身体において流れてくる生命は身体の部分を問わず同じ生命でありながら、全体としての「私」を特徴づける、区別できる「生命」です。

ただし問題があります。こういった類似は一般意志に関しては、実を言うとあてはめることは不可能です。というのも、共同体を説明するために、物質的だけの身体に比較することは不可能だからです。なぜかというと、一人の身体のすべての部分はバラバラではなく、本当の意味で統一してはいるからです。身体は、本当に統一した生命において存在するからです。

その統一を特に強調しましょう。ルソーの言うことはこうです。人間は結社する、それは社会を作り出すと。そして、結社することに当たって誓約を交わすと。それが「社会契約」だと。そして、その新しい社会において、唯一の生命が流れてくる、それが「自由」という生命だ、と言います。しかし、この生命を見つけるためには「一般意志」を通じてでなければできないと。で、また後述しますが「一般意志」というのは、結局、「皆の表現・現れ・総意の表明」である、まさに、これはルソーによる、近代的な「民主主義」の定義に他ならないのです。

しかし、その定義に沿うと、多くの問題が出てきます。例えば、結社する人々は皆が共通している目的をもって結社するとされているので、皆が同意するとされています。それは「自分の自由を維持するため」という目的で結社されるとされています。しかしながら、後はどうするというでしょうか。

より簡単にわかりやすくするために例えてみましょう。それらの人々を一緒に融合させてある種の「生地」になったとしましょう。たとえば、20人が居て、社会契約を結んで、それらの20人をよく混ぜて一つのある種の「等質体の生地」となったと。「やったぞ、社会契約ができたぞ、一般意志ができたぞ」と言い出します。ただし、問題が残りますね。どれほど結社したって、どれほど「一般意志」という者の下に置いたって、社会の構成員はそれぞれ個人であって、どうしても個人として存続するのです。

どういえばいいでしょうか。例えば、混ぜ得る二つの液体があるとしましょう。その二つの液体を混ぜた結果、新しい「全体」が等質となっています。問題は、人間の場合、どれほど「混ぜた」といっても、どれほど結社させたとしても、どれほど最初の契約の基盤を皆が共通に持っていたとしても、それぞれの構成員はすべてにおいて意志が一致することは不可能だということです。それぞれの構成員はどうしても「個別」の人としてのこり、個別の側面を無くすことは不可能です。これこそがルソーがぶっつかる次の問題です。
「皆が一致して全員全体として自由である」と同時に「それぞれ各々の構成員は個人として自由でいられるようにする」というのは一体どうやってできるかという問題です。

そこで、その問題を解決するためは、ルソーはもう一度、「一般意志」を打ち出して、一般意志で解決しようとします。一般意志というのは、結局(民主主義的な)「皆の表現、現れ、総意の表明」だとされています。
ただ、問題があります。そもそも「全員皆が絶対に「自由になるため」というところに同意している」というところです。そういえば、現代はこういった状況になっています。どういう手段をもって自由になれば良いかに関して、もう皆がばらばらとなっています。大問題です。

そこで、どうすれば良いでしょうか。お配りした次の引用に移りましょう。
「従って、社会契約を空虚な法規としないために、この契約は、何人にせよ一般意志への服従を拒むものは、団体全体によってそれに服従するように強制されるという約束を、暗黙の内に含んでいる。そして、この約束だけが他の約束に効力を与えうるのである。このことは、〔市民〕は自由であるように強制される、ということ以外の如何なることをも意味していない。」(I,7)

なんて思いつきでしょうか。
「そうしたことこそ、各市民を祖国に引き渡すことによって、彼をすべての個人的従属から保護する条件であり、政治機関の装置と運動を生み出す条件であり、市民としての様々の約束を合法的な物とする唯一の条件であるからだ。」(I,7)
なかなかの提言ですね。さすがに。

次にお配りした第八章の引用でルソーが言っているように、なかなかの利点がでてきます。つまり、「市民状態」となった社会において、人間は、確かに自然状態において持っていた幾つかの要素(独立、絶対な自由など)を失わざるを得ないものの、別の新しい要素を得ることができるとされます。ある面、「自由であるように強制される」といったなかなかの逆説的な要件を認めさせるために、そういった「利点」を打ち出します。というのも、皆が結社した時、現代でうるさくなるほど「自由!自由!」と叫んで同意したとしても、同意した途端、終わらない喧嘩ばっかりが始まるのです。どうせ、自由と言っても、なぜ自由になりたいか、どうやって自由になりたいか、誰と一緒に自由になりたいか、それは誰も結局知らないから、めちゃくちゃになっていくしないのですから。
ルソーいわく、そういった問題を解決するのは簡単です。「一般意志」に従わない個人を強制すればよいと。どうせ、その個人は「自由は何であるかを分からないから」彼を強制してもよいという。

しかしながら、注意しましょう。ルソーにとって、「団体」を作り出す「結社なる社会」は同時に「共同体」であり、同時に「主権者」であるのです。これを理解すべきです。社会契約において、「一般意志」というのは、それぞれの個別の意志が一緒に決める意志なのだから、その一般意志の持主は「一人の人」ではなくて(まあ現実問題として、結局、ある代表者が指導者として指定されるようになりますが、それはともかく)、社会契約における主権者は人ではなく、全構成員の全体です。これこそは「純粋な民主主義」です。現代風に言うと、「絶対的な国民投票」のようものですが、結局、それができたとしても何もならないのです。

そういえば、面白いことに、ルソー自身が民主主義は何もならない、うまく行かないということを認識していました。その引用も手元にあると思いますが、要約すると、こういっています。
つまり、社会契約ということ、つまり一般意志が機能するために、非常小さい国である必要があるという条件を認めています。簡単に言うと、二人で結社した方が、三・四人で結社するよりも、同意しやすいという単純なことですね。たとえば、記憶が正しかったら、ポーランドを「32ヵ国に分国する」とルソーが提案したことは典型的でしょう。フランスを分国しようとおもったら、どういった提案をルソーがやったかは興味深いですけど。ともかく、その32ヵ国に分けるというのは、政治がうまくいくためだと。ところで、実際問題としての国制について、ルソーは「ポーランド」と「コルシカ」についてだけ言及し、これらを例にしました。面白いことに、コルシカについては「大騒ぎになるだろう」といったのですね。確かにそうなりました。彼の言った意味と違う意味で大騒ぎになったのですけど。

それはともかく、構成員が多ければ多いほど、喧嘩と不和が増えるので、できるだけ、国を小さくにしようと提案しますね。そうじゃないと喧嘩になるから。
繰り返しますが、なぜか問題になるか、「主権者は決定する時こそ、共同体そのものだ」とされているからです。しかしながら、同時に、決定されたことに従うのも「共同体そのものだ」ともされています。今回は「自分のために自分が決定したことに従う」としての共同体。ようするに、主権者は集まった共同体であって、その社会自体が決定すると同時に、その決定に従う同じ共同体でもある、と。これは純粋な民主主義です。「自分が自分のためにきめる、主権者即臣民」。契約社会においてなら、「自分らが自分らのために決める」ですね。

次に、以上のような社会に属するに当たって、一体どういった利点があるでしょうか。次の引用です。
「この状態において、彼は、自然から受けていた多くの利益を失うけれど、その代わりに極めて大きいな利益をうけとるのであり(…)もし、この新しい状態の悪用が、彼を、抜け出てきた元の状態以下に堕落させるようなことがあまりなければ、元の状態から彼を永遠に引き離して、バカで劣等な動物から、知性あるもの、つまり人間たらしめたこの幸福の瞬間を。絶えず祝福するにちがいない。」(I,8)

次の引用に移ります。
「この賃貸勘定の全体を、たやすく比較できる言葉に要約してみよう。社会契約によって人間が失うもの、それはかれの自然的自由と、彼の気をひき、しかも彼が手に入れることのできる一切についての無制限の権利であり、人間が獲得するもの、これは市民的自由(これはつまり平等です。いわゆる〈すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、権利と尊厳について平等である。〉)と、彼の持っているもの一切についての所有権である。」(I,8)

御覧の通り、この所有権は「一般意志」によってこそ制限されています。というのは、一般意志によって制限されるというのは、自由をもって意志的に制限するという理屈で、各々の構成員の自由が保護されるとされているからです。サルトルもいったように「他人の自由の始まるところで我が自由は終わる」のです。要するに、自然的な自由である絶対なる自由を失う代わりに、所有権を得た上で、ある程度の自由を維持しながら、他人の自由を保護することに貢献すると言いたいのです。


「この埋め合わせについて、間違った判断を下らぬためには、個々人の力以外に制限を持たぬ自然的自由を、一般意志によって制約されている市民〔社会〕的自由から、はっきり区別することが必要だ。さらに、最初に取ったもの権利〔先占権〕或いは暴力の結果に他ならぬ占有を、法律上の権原なくしては、成り立ちえない所有権から、ハッキリ区別することが必要だ。」(I,8)

「わたしは、すべての社会組織の基礎として役立つに違いないことを一言して、本章及び本編をおわろう。それは、この基本契約は、自然平等を破壊するのではなくて、逆に、自然的人間の間にありうる肉体的不平等のようなもののかわりに、道徳上及び法律上の平等を置き換えること、また、人間は体力や、精神について不平等でありうるが、約束によって、また権利によってすべて平等になるということである。」(I,9)

この文章は非常に面白いです。というのも、この文章こそは、我々が毎日経験している現代社会の原理とその基礎をなすからです。まさに絶対な平等です。肉体的な違いを無視するのです。何でもいいですけど、年齢の差とか、民族とか、身長とか、性別等々。そういった平等は自然によって与えられたと言っていますね。そして、「社会のお陰でこういった自然な平等を消せる」と言います。消すというか、「無視する」ということで、そういった不平等に関してもう何もやらない、話さない、世話しないとした上で、別にある人造的な平等を設立しようとするのです。

それが、市民的な平等であって、「道徳上の平等」で、「社会上の平等」です。社会契約はこの平等を設立しようとします。だからこそ、〈すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、権利と尊厳について平等である〉とされています。その契約によってだけ、そうなっています。

たとえば、現代に話題となっている「子どもの権利」とか、これから、こういった「権利」が発展していくでしょう。また同じく、どんどん「男女平等」ということで、男女を同じものにさせようとする政策もそこから来ます。「権利の平等」、その結果、無数の「差別」が現れます。「差別」という言葉を言い出した時点で、実際はどうであっても差別で告訴したら勝つのです。また、結婚に至って結婚において平等を入れるということで、それに反対したら、いわゆる「同性愛に対する差別だ」と罵倒されるような。

要するに、ルソーの「社会」は、法律上の平等を与えます。例えば、同性愛で結婚するのも「権利」だと言われるようになります。また同じく、何でもいいですけど、「○○権利」を要求してもよいようになります。後は手短にせざるを得ず、後述しますが、以上のような発想に従うと多くの問題が出てきます。

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