白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による哲学の講話をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
Billecocq神父に哲学の講話を聴きましょう
それから、第二編において、ルソーは次のように強調します。
「前編で明らかにされた諸原則から、第一に生まれてくる、そして最も大切な結果は、国家を作った目的、つまり公共の幸福(共通善)にしたがって、国家の諸々の力を指導できるのは、一般意志だけだ、ということである。(…)だから私はいう、主権とは一般意志の行使にほかならぬのだから、これを譲り渡すことは決してできない、と。またいう、主権者とは集合的存在に他ならないから(この言葉に注目しましょう)、それはこの集合的存在そのものによってしか代表され得ない、と。権力は譲り渡すことも出来よう、しかし、意志はそうはできない。」(II,1)
要するに、市民は「集合的な存在」に全権を譲ることになるので、代表制も国会体制のようなものも全く論外です。その点において、ルソーがモンテスキューに対してすら反対しています。
続いて、
「ちょうど、自然が各々の人間に、その手足のすべてに対する絶対的な力を与えているように、社会契約も、政治体に、その全構成員に対する絶対的な力を与えるのである。そしてこの力こそ、一般意志によって指導される場合、すでにいったように、主権と名付けられるところのものなのである。」(II,4)
先ほど、説明しておきたかったのは、まさにこれです。つまり、主権者はいないのです。主権は全構成員の全体だとされています。「国民こそが主権者である」ということです。まさにそうです。「国民こそが主権者である」と言う時、これはルソーの論そのままです。
面白いことに、現代では、民主主義の名において、「ポピュリズム(国民主義)」が非難されていますね。滑稽なことでしょう。
ちょっとだけ次の文章をご紹介しましょう。「どちら側から原則に遡ったところで、いつでも同じ結論に到達する。すなわち、社会契約は、市民の間に平等を確立し、そこで、市民はすべて同じ条件で約束し合い、またすべて同じ権利を楽しむことになる。」(II,4)
いわゆる、「相互尊敬」ということですね。つまり、「あなたのやりたい事なら」「あなたの意見なら」「あなたがお望みのなら」といったような。
問題は、その平等は真理においても導入されてしまうということです。「あなたの価値観なら反対しないよ」といったような。そして、最近ではカトリック教会においてでさえ入り込んだ相対主義です。「あなたの宗教でそういわれるのなら」といったような。「法律上の平等」に他なりません。それは、「法律によってだけ確立される平等」という意味です。実際の事実ではどうなっているか別にして。
以上の基本的な原理を理解した時、ルソーの後のすべての結論を簡単に引き出せます。例えば、次の引用があります。
「法は、本来、社会的結合の諸条件以外のなにものでもない。法に従う人民が、その作り手でなければならない。社会の諸条件を規定することは、結合する人々だけに属することである。」(II,6)
これは、純粋な民主主義です。
「だから、法律を編むものは、何らの立法権も持たないし、また持ってはならない。」
なぜかというと、立法権は個人に属するのではなく、国民が持っているとされているからです。続いて
「そして、人民自身も、たとえそれを望んでも、この不可譲の権利をすてることはできない。」(II,7)
というのも、法を編む者は国民の「道具」に過ぎなくて、立法権は譲られていないとされています。そして、「道具」というのはなんであるかというと、「ある主な原因に従って動かされる物」ということです。ここでの主な原因はつまり、国民です。
「なぜなら、根本契約によれば、個々人を拘束するのは、一般意志だけであり、個別意志が一般意志と一致しているということは、個別意志を人民の自由を投票に委ねた後に、初めて確かめ得ることなのだから。」(II,7)
それから次の引用です。
「すべての人々の最大の全は、あらゆる律法の体系の究極目的であるべきだが、それが正確には、何から成り立っているかを尋ねるなら、われわれは、それが二つの主要な目的、即ち自由と平等とに帰することを見出すであろう。自由―なぜなら、あらゆる個別的な従属は、それだけ国家という〔政治〕体から力がそがれることを意味するから。平等―なぜなら、自由はそれを欠いては持続できないから。」(II,11)
自由と平等は常に手を組んでいると。両方とも、絶対的で、理想です。
面白いことに、この「社会契約論」において、哲学上にいうと、「自由」という概念が明白に定義されることは一度もないことです。これは、興味深いことです。社会契約論では、その「自由」は「独立」を意味するのであって、少なくとも、「好き勝手にやりたい放題にする」という意味です。絶対的な意味でいう自由だから、善悪はないという前提に基づきます。それは、善悪は自由に対してもう相対的なことに過ぎなくなるということになります。つまり、自由と善悪との間の本来のあるべき関係は、さかさまにされたということです。
本来ならば、自由こそが、善に対して相対的な関係にあります。つまり、本来ならば、善に従っての、善のための自由です。自由という能力は、善を遂げて、善を得るためにこそある「能力・道具」に過ぎないのに、ルソー以来、善を定義するために、必ず善は、自由に従属されます。善に従う自由から、自由に従う善へ。
本来ならば、「自由な人」とは「善に向かう人、善を実践する人」という前提があります。近代になってから、ルソー以来、「自由に貢献することこそが善だ」となり、本来の関係の逆さまになっています。または、誰かの自由を妨げることは、「悪いこと」だとされるようになります。要するに、その自由の対象はどうでもよくなるのです。
たとえば、最近、話題となっている同性結婚はまさにこれを語ります。
同性愛結婚に反対するのは、当事者の自由を妨げるになっているということで、「悪い事」だとされています。つまり、同性愛結婚という下劣な本質が無視されることになります。同性愛結婚は事実上、反自然であるという本質を完全に無視し、または、卑しむべき卑しい行為であることという事実をも無視するということです。というのも、客観的に物事を、目の前にある客体を見ることなく、主観的にだけ物事を見ることになってしまいます。言い換えると、内容はどうでもよくて「彼らの自由に反対した故に悪い事だ」ということになります。
やっぱり、「王たる人間」となるのです。「王たる人間」。従うべきことはもう何もない。ところで、最後の講演に詳しくご紹介する予定ですが、宗教についてのルソーの考えを見るとそれは明白です。「社会契約論」の最後にもちょっと出てくるのですが、ルソーは宗教を完全に切り捨てて、排除します。少なくとも、カトリックという宗教を徹底的に排除します。絶対に。なぜかというと、カトリックにおいては、掟があるからです。というのも、カトリックにおいて「客体」を有りのままに見せて示すからです。ルソーは「客体はみてはいかん」「現実を否定すべき」だとしますね。
それから、お配りした最後の二つの引用です。
「その性質上、全会一致の同意を必要とする法は、ただ一つしかない。それは、社会契約である。」(IV,2)
つまり、結合の基礎こそとしての社会契約ですね。言い換えると、社会が成り立つ基礎です。その場合に限って、「全会一致の同意を必要とする」と。
「なぜなら、市民的結合は、あらゆるものの中で、尤も自発的な行為であるから。総ての人間は、生まれた時は自由であり、自己自身の主人であるから、何びとも、彼の同意なしには、如何なる口実の許にも、彼を服従させることはできない。ドレイの子供は、ドレイとして生まれたのだと決めてしまうことは、彼は人間として生まれたのではないと決めてしまうことだ。」(IV,2)
言い換えると、人間は社会を作り出す瞬間に、自由の名において「社会契約」を結んだ時、絶対な全会一致の同意があるとされています。一人も欠かさずに全員が「自由のために自由の名において社会契約」を結ぶことにおいて一致して同意します。そして、ルソーも指摘するように、それ以外のすべての決定において、絶対的な全会一致は存在しないという問題が残ります。だから、どうするかというと、「数学的」な全会一致を採用することによってなんとかする、と。つまり、投票数によって決まると。投票数ですね。それで、最期の引用をご紹介しましょう。私に言わせれば、一番興味深い引用だと思います。なぜなら、一番逆説的な引用であって、ルソーの限界を良く示すのです。
「この原始契約の場合をのぞけば、大多数の人の意見は、常にほかのすべての人々を拘束する。これは、〔原始〕契約そのものの帰結である。」
繰り返します。
「この原始契約の場合をのぞけば、大多数の人の意見は、常にほかのすべての人々を拘束する。これは、〔原始〕契約そのものの帰結である。しかし、ある人が自由でありながら、自分以外の意志に従わねばならぬということが、どうして起きりうるか、を問う人がある。」(IV,2)
だから、投票しますよね。例えば、大統領選において、マクロンに票を入れた人々がいて大統領となりました。が、マクロンに表を入れなかった多くの人々もいます。でそこで、「反対者たちが自由でありながら、彼らの同意しない法律に服従するのはなぜだろうか?」(IV,2)
現代、我々が常に経験している現代の大問題はまさにこれですね。繰り返します。
「反対者たちが自由でありながら、彼らの同意しない法律に服従するのはなぜだろうか?」
確かに、なかなかの問題です。
「それは、問題の出し方が悪いのだ、と私は答える。」
さすがに、やっぱりね!
「市民はすべての法律、彼が反対したにもかかわらず通過した法律にさえ、またその一つに違反しても罰せられるような法律にさえ、同意しているのだ。国家のすべての構成員の不変の意志が、一般意志であり、この一般意志によってこそ、彼らは市民となり、自由になるのである。」(IV,2)
市民イコール自由です。
「ある法が人民の集会に提出される時、人民に問われていることは、正確には、彼らが提案を可決するか、否決するかということではなくて、それが人民の意志、すなわち、一般意志に一致しているか否か、ということである。各人は投票によって、それについての自らの意見をのべる。だから投票の数を計算すれば、一般意志が表明されるわけである。従って、私の意見に反対の意見が勝つときには、それは、私が間違っていたこと、私が一般意志だと思っていたものが、実はそうではなかった、ということを、証明しているに過ぎない。」
流石に、そうですね。
「あなたはマクロンに投票しなかった場合、間違っていたよ」というべきことになるのですね。
「もし私の個人的意見が、一般意志に勝ったとすれば、私の望んでいたのとは、別のことをしたことになろう。その場合には、わたしは自由ではなかったのである。」(IV,2)
上手く表現されているのは認めましょう。非常にうまく表現されていますね。しかしながら、問題が残ります。結局、自由になるように人を強制するのは不可能という事実は変わらないという問題です。
以上の文章を読んでみるだけで、表面的に解決になることに見えるかもしれません。つまり、「私を否定するその法律に従うといよいよ自由になる」との理屈は通りません。
「私の個人意見を否定するが一般意志に反対しない法律だから、私が間違っていたのだ」と。「私が私の個別意志と一般意志を離れようとして悪かった」と。だが、「法案が可決された瞬間に、一般意志に反対する私の個別意志は一般意志と一致していないということが表明されるから、私の個別意志が間違っていたということがいよいよ明らかになった」と。そういった理屈ですね。だから皆さん、「いや、でも正しい判断だと確信している」と思っても、「私が間違った」と思うべきだというのは民主主義そのものです。
従って、なぜか反対の票を入れたかを忘れることにして、可決された法律に従うまでだという理屈ですね。そして、その暁に「それでいよいよ私が自由になったぞ」と思うべきだと。なぜなら、「私が理解していなかった一般意志に従うことになるので、自由になるぞ」という理屈です。つまり「皆さん、訳が分からなくても、大事なのはあなたらが自由だということを覚えて置け」という理屈。つまりこういった感じのことです。バカな理屈です。完全に馬鹿な理屈だというべきです。
御覧になった通り、いつもいつも「自由」ばかりという問題が出てきます。
本日の講演を結ぶために、社会契約論の限界をご紹介したいと思います。以上は、社会契約は如何なるものかの簡単なご紹介でした。
これから、社会契約論を反駁していきたいと思っております。厳密に言うと反駁というよりも、社会契約論の限界とその帰結を示すことによって反駁することになります。
主要な大問題はやっぱり「自由」です。まず、社会契約論において、「自由」とは間違って定義されています。時間があれば、その自由の定義においてこそ、ルソーの理論の反駁の中心になるはずです。平等に関しても一緒です。間違って定義されています。というか、そもそもその平等はどこにも存在しないのです。平等というのは空想・幻想に過ぎないのです。というのも、平等は結局、法律上の擬制に過ぎなくて、自然(現実)を否定する擬制です。大自然において、平等ということはそもそも存在しないのです。だから、ルソーもそれを確認して、「人造的に」平等を作りだそうというのです。だから、ルソーの平等は「仮想的」な平等に過ぎないのです。問題は、現実上の大自然に織り込まれている自然な不平等・差別を否定する「人造的に平等」であることです。その挙句、どんどん緊張が高まって、ある日、その矛盾が爆発するという悲惨な運命がまっています。
だから、社会契約論の第一の帰結は次の通りです。
最初、社会契約を結ぶ「自由」を持つのなら、いつでもその社会契約を解約する自由をも持つはずです。ルソーが「その契約を結んだ時点で、もうだれ一人もその契約から去ることは不可能だ」といっているのですが、一体どの根拠をもってそれがいえるでしょうか。一体、どういった自由がその解約を不可能にするのでしょうか。本来ならば、もし一人が自分の力でいきなり元の独立の状態に戻ろうと思ったら、自由をもっていつでも契約から去ることはできるはずです。そうでなければおかしいでしょう。
だから、その結果、民主主義において無政府主義になる傾向が強いのです。つまり、社会契約は本当の意味での契約だったら、無秩序へ導く契約です。解約できないというのはどこからくるでしょうか。自由を維持する元の意志を、一体なぜいつまでも個人が持てるでしょうか。それは、自由のためだから、とされます。それなら、契約を結んで、ある時点でいよいよ一般意志のお陰で本来の私の自由を取り戻したと思った時に、社会契約から去ってもよいはずです。
つまり、社会を単なる人造的な契約にしてしまったことによって、ルソーは必然的に無政府・無秩序が伴う状況を作ったのです。なぜならルソーにとって、社会において生活するのは反自然なことだからです。従って、自由をもたらすために創られたとされている社会がもう自由をもたらせない時になった場合、純粋な契約になる社会から去るべきです。ルソーの社会契約は結局、長期にいうと原爆に似ています。社会契約は個々人の融合を行うようなものですが、融合がある程度の極まりを超えたら、ボーンと爆発します。もう個々人が自分の自由を取り戻そうとして、爆発してバラバラになっていく社会です。
要するに、社会契約論の長期的な帰結は、無政府です。個人、自分の自由を取り戻すためにある社会ですから。
つづいて、先ほど申し上げたように、一般意志にも限界があります。つまり、一般意志は「全会一致」になることは不可能ですから、大多数に基づいて決定するということになります。そこで、まず簡単な指摘ですが、「数」があるからといって、「質」がかならずしも伴わないということです。また、「数」から真理がかならずしも出ないのです。数と質とのそれぞれの次元は異なります。
そして、どうしても、少数派の問題は残っています。つまり、反対していたその少数派ですね。ルソーが美しい理屈を言っても、つまり、「その少数派が間違っているに過ぎない」といっても、何も解決になりません。
「私が間違っていたので、今、従うと自由になる」と積極的に個人が思い込もうとしても、最初に確信した反対の意見を思わずにいられないという状況は変わらないのは誰の目にも明白でしょう。「でも、私は自由だ、自由だ」と思いこんだとしても、事実としてその選択肢がなく、自由になるために強制されることになります。
だが、「自由になるために強制される」というのは結局、全体主義を意味します。全体主義そのものです。だから、逆説的にみても、民主主義の必然的なもう一つの結果は、全体主義を伴います。
ルソーの民主主義の結果は、必ずや、一方で「無政府主義」、他方で「全体主義」です。または、独裁主義です。ところで、ロベスピエールが次のようなことを言っていました。ロベスピエールはルソー主義でした。
「共和国の政治は、自由による独裁主義だ」と。丁度ぴったりと当たる表現です。
「共和国(民主主義)の政治は、自由による独裁主義だ」と。つまり、我々の政治家たちは独裁者です。
それから、別のもう一つの結果があります。民主主義において、政治指導者たちは主権者ではないのです。思い出しましょう。一般意志だけが主権者だ、と。とはいっても、事実上に、一般意志の決定を行使するために、またその一般意志の決定を解釈する何人の指導者たちが実際に存在するということになっています。
ロベスピエールの言っていた「共和国の政治は、自由による独裁主義だ」とは、次のようなことです。
つまり、一般意志の決定を行使するためにだけ、「民主主義的に選挙を通して選ばれた」代表者たちがいるのです。しかし、一般意志が選ばれた代表者たちの意志と違うようになった場合、どうなるでしょうか。その場合、当選された人々と一般意志の間の緊張感が生まれてきます。
具体的な例を挙げましょう。例えば、丁度、今日、マクロン大統領は80キロ速度制限という法案について発言しました。明らかに、一般意志に反する発言ですね。なんて反民主主義的な大統領だろうなあ。すると、どうなるでしょうか。「主権者」の立場にある指導者、まあ、ルソー論で言うとその指導者は「主権者」ではないが、それはともかく、一般意志の決定を行使するためにだけ存在する「指導者」が一般意志に反対するようなことをやり始めると、凄い緊張感が生まれます。どうなるでしょうか。その指導者は自分の席を確保するために、暴君のように振舞うようになるしかありません。
言い換えると、自由を保護、自由を守るはずの「社会契約」のせいで、暴政・僭主政治に落ちていくのです。ルイ・ジュニェ『哲学教義と政治システム』(Louis Jugnet : Doctrines philosophiques et systèmes politiques)による短い本を引用しましょう。ジュニェ(Jugnet)教授による政治についての講座の記録の本です。引用は、ルソーについての紹介であって、よく纏まっています。ご紹介します。
「前世紀(19世紀)の偉大なる共和国派の一人、Arthur Rankeが国家の右派に向けて憤怒しだしたことがあります。」
つまり、その人は左派ですね。
「彼は素直に次の発言を(右派に)投げつけました。」
先ほど申し上げたことを良く示す一つの例ですから引用します。
「(右派に向けて)君らが僅かな少数派に過ぎない場合、我々は君らを軽蔑しよう。君らが無視できない少数派になった場合、我々は君ら(の当選)を無効にしてやろう。君らが多数派になった場合、われわれは銃をとって町に行くだろう。」
明白な発言ですね。でも、毎日、現代においてまさにこれを経験している通りです。「君らが多数派になった場合、われわれは銃をとって町に行くだろう。」
今の黄色ヴェストの事件はどうなっていくかを知るのは天主様だけですが、「銃をとって町に行くだろう」というのはここで言うと、黄色ヴェストのことではなく、政府です。
最後に、ルソーが打ち出した社会契約の実現をしようとした1789年の革命以来、現代に至るまで、フランスの歴史を見ると明白です。いつもいつも、無政府主義と独裁主義の行き来ばっかりです。なぜかというと、相次いで出てくる共和国はすべて、ルソーの社会契約論に基づいているからで、必然的にそうなります。というのも、ルソーの社会契約論は出鱈目に過ぎないからです。なぜかというと、その社会契約は自然ではないどころか、反自然だからです。ルソー自身がそれを認めています。社会契約は自然ではないと。
だから、現代に置いて、どんどん痛感するように、こういった社会契約論の悲惨な帰結を味わわざるを得ないのです。
社会契約論について、これで終わらせていただきます。主要な筋を紹介するつもりで、これで社会契約論を理解するための鍵を得られたと何より幸いです。ご清聴ありがとうございました。
来月のテーマは「エミール、教育ついて」です。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
Billecocq神父に哲学の講話を聴きましょう
それから、第二編において、ルソーは次のように強調します。
「前編で明らかにされた諸原則から、第一に生まれてくる、そして最も大切な結果は、国家を作った目的、つまり公共の幸福(共通善)にしたがって、国家の諸々の力を指導できるのは、一般意志だけだ、ということである。(…)だから私はいう、主権とは一般意志の行使にほかならぬのだから、これを譲り渡すことは決してできない、と。またいう、主権者とは集合的存在に他ならないから(この言葉に注目しましょう)、それはこの集合的存在そのものによってしか代表され得ない、と。権力は譲り渡すことも出来よう、しかし、意志はそうはできない。」(II,1)
要するに、市民は「集合的な存在」に全権を譲ることになるので、代表制も国会体制のようなものも全く論外です。その点において、ルソーがモンテスキューに対してすら反対しています。
続いて、
「ちょうど、自然が各々の人間に、その手足のすべてに対する絶対的な力を与えているように、社会契約も、政治体に、その全構成員に対する絶対的な力を与えるのである。そしてこの力こそ、一般意志によって指導される場合、すでにいったように、主権と名付けられるところのものなのである。」(II,4)
先ほど、説明しておきたかったのは、まさにこれです。つまり、主権者はいないのです。主権は全構成員の全体だとされています。「国民こそが主権者である」ということです。まさにそうです。「国民こそが主権者である」と言う時、これはルソーの論そのままです。
面白いことに、現代では、民主主義の名において、「ポピュリズム(国民主義)」が非難されていますね。滑稽なことでしょう。
ちょっとだけ次の文章をご紹介しましょう。「どちら側から原則に遡ったところで、いつでも同じ結論に到達する。すなわち、社会契約は、市民の間に平等を確立し、そこで、市民はすべて同じ条件で約束し合い、またすべて同じ権利を楽しむことになる。」(II,4)
いわゆる、「相互尊敬」ということですね。つまり、「あなたのやりたい事なら」「あなたの意見なら」「あなたがお望みのなら」といったような。
問題は、その平等は真理においても導入されてしまうということです。「あなたの価値観なら反対しないよ」といったような。そして、最近ではカトリック教会においてでさえ入り込んだ相対主義です。「あなたの宗教でそういわれるのなら」といったような。「法律上の平等」に他なりません。それは、「法律によってだけ確立される平等」という意味です。実際の事実ではどうなっているか別にして。
以上の基本的な原理を理解した時、ルソーの後のすべての結論を簡単に引き出せます。例えば、次の引用があります。
「法は、本来、社会的結合の諸条件以外のなにものでもない。法に従う人民が、その作り手でなければならない。社会の諸条件を規定することは、結合する人々だけに属することである。」(II,6)
これは、純粋な民主主義です。
「だから、法律を編むものは、何らの立法権も持たないし、また持ってはならない。」
なぜかというと、立法権は個人に属するのではなく、国民が持っているとされているからです。続いて
「そして、人民自身も、たとえそれを望んでも、この不可譲の権利をすてることはできない。」(II,7)
というのも、法を編む者は国民の「道具」に過ぎなくて、立法権は譲られていないとされています。そして、「道具」というのはなんであるかというと、「ある主な原因に従って動かされる物」ということです。ここでの主な原因はつまり、国民です。
「なぜなら、根本契約によれば、個々人を拘束するのは、一般意志だけであり、個別意志が一般意志と一致しているということは、個別意志を人民の自由を投票に委ねた後に、初めて確かめ得ることなのだから。」(II,7)
それから次の引用です。
「すべての人々の最大の全は、あらゆる律法の体系の究極目的であるべきだが、それが正確には、何から成り立っているかを尋ねるなら、われわれは、それが二つの主要な目的、即ち自由と平等とに帰することを見出すであろう。自由―なぜなら、あらゆる個別的な従属は、それだけ国家という〔政治〕体から力がそがれることを意味するから。平等―なぜなら、自由はそれを欠いては持続できないから。」(II,11)
自由と平等は常に手を組んでいると。両方とも、絶対的で、理想です。
面白いことに、この「社会契約論」において、哲学上にいうと、「自由」という概念が明白に定義されることは一度もないことです。これは、興味深いことです。社会契約論では、その「自由」は「独立」を意味するのであって、少なくとも、「好き勝手にやりたい放題にする」という意味です。絶対的な意味でいう自由だから、善悪はないという前提に基づきます。それは、善悪は自由に対してもう相対的なことに過ぎなくなるということになります。つまり、自由と善悪との間の本来のあるべき関係は、さかさまにされたということです。
本来ならば、自由こそが、善に対して相対的な関係にあります。つまり、本来ならば、善に従っての、善のための自由です。自由という能力は、善を遂げて、善を得るためにこそある「能力・道具」に過ぎないのに、ルソー以来、善を定義するために、必ず善は、自由に従属されます。善に従う自由から、自由に従う善へ。
本来ならば、「自由な人」とは「善に向かう人、善を実践する人」という前提があります。近代になってから、ルソー以来、「自由に貢献することこそが善だ」となり、本来の関係の逆さまになっています。または、誰かの自由を妨げることは、「悪いこと」だとされるようになります。要するに、その自由の対象はどうでもよくなるのです。
たとえば、最近、話題となっている同性結婚はまさにこれを語ります。
同性愛結婚に反対するのは、当事者の自由を妨げるになっているということで、「悪い事」だとされています。つまり、同性愛結婚という下劣な本質が無視されることになります。同性愛結婚は事実上、反自然であるという本質を完全に無視し、または、卑しむべき卑しい行為であることという事実をも無視するということです。というのも、客観的に物事を、目の前にある客体を見ることなく、主観的にだけ物事を見ることになってしまいます。言い換えると、内容はどうでもよくて「彼らの自由に反対した故に悪い事だ」ということになります。
やっぱり、「王たる人間」となるのです。「王たる人間」。従うべきことはもう何もない。ところで、最後の講演に詳しくご紹介する予定ですが、宗教についてのルソーの考えを見るとそれは明白です。「社会契約論」の最後にもちょっと出てくるのですが、ルソーは宗教を完全に切り捨てて、排除します。少なくとも、カトリックという宗教を徹底的に排除します。絶対に。なぜかというと、カトリックにおいては、掟があるからです。というのも、カトリックにおいて「客体」を有りのままに見せて示すからです。ルソーは「客体はみてはいかん」「現実を否定すべき」だとしますね。
それから、お配りした最後の二つの引用です。
「その性質上、全会一致の同意を必要とする法は、ただ一つしかない。それは、社会契約である。」(IV,2)
つまり、結合の基礎こそとしての社会契約ですね。言い換えると、社会が成り立つ基礎です。その場合に限って、「全会一致の同意を必要とする」と。
「なぜなら、市民的結合は、あらゆるものの中で、尤も自発的な行為であるから。総ての人間は、生まれた時は自由であり、自己自身の主人であるから、何びとも、彼の同意なしには、如何なる口実の許にも、彼を服従させることはできない。ドレイの子供は、ドレイとして生まれたのだと決めてしまうことは、彼は人間として生まれたのではないと決めてしまうことだ。」(IV,2)
言い換えると、人間は社会を作り出す瞬間に、自由の名において「社会契約」を結んだ時、絶対な全会一致の同意があるとされています。一人も欠かさずに全員が「自由のために自由の名において社会契約」を結ぶことにおいて一致して同意します。そして、ルソーも指摘するように、それ以外のすべての決定において、絶対的な全会一致は存在しないという問題が残ります。だから、どうするかというと、「数学的」な全会一致を採用することによってなんとかする、と。つまり、投票数によって決まると。投票数ですね。それで、最期の引用をご紹介しましょう。私に言わせれば、一番興味深い引用だと思います。なぜなら、一番逆説的な引用であって、ルソーの限界を良く示すのです。
「この原始契約の場合をのぞけば、大多数の人の意見は、常にほかのすべての人々を拘束する。これは、〔原始〕契約そのものの帰結である。」
繰り返します。
「この原始契約の場合をのぞけば、大多数の人の意見は、常にほかのすべての人々を拘束する。これは、〔原始〕契約そのものの帰結である。しかし、ある人が自由でありながら、自分以外の意志に従わねばならぬということが、どうして起きりうるか、を問う人がある。」(IV,2)
だから、投票しますよね。例えば、大統領選において、マクロンに票を入れた人々がいて大統領となりました。が、マクロンに表を入れなかった多くの人々もいます。でそこで、「反対者たちが自由でありながら、彼らの同意しない法律に服従するのはなぜだろうか?」(IV,2)
現代、我々が常に経験している現代の大問題はまさにこれですね。繰り返します。
「反対者たちが自由でありながら、彼らの同意しない法律に服従するのはなぜだろうか?」
確かに、なかなかの問題です。
「それは、問題の出し方が悪いのだ、と私は答える。」
さすがに、やっぱりね!
「市民はすべての法律、彼が反対したにもかかわらず通過した法律にさえ、またその一つに違反しても罰せられるような法律にさえ、同意しているのだ。国家のすべての構成員の不変の意志が、一般意志であり、この一般意志によってこそ、彼らは市民となり、自由になるのである。」(IV,2)
市民イコール自由です。
「ある法が人民の集会に提出される時、人民に問われていることは、正確には、彼らが提案を可決するか、否決するかということではなくて、それが人民の意志、すなわち、一般意志に一致しているか否か、ということである。各人は投票によって、それについての自らの意見をのべる。だから投票の数を計算すれば、一般意志が表明されるわけである。従って、私の意見に反対の意見が勝つときには、それは、私が間違っていたこと、私が一般意志だと思っていたものが、実はそうではなかった、ということを、証明しているに過ぎない。」
流石に、そうですね。
「あなたはマクロンに投票しなかった場合、間違っていたよ」というべきことになるのですね。
「もし私の個人的意見が、一般意志に勝ったとすれば、私の望んでいたのとは、別のことをしたことになろう。その場合には、わたしは自由ではなかったのである。」(IV,2)
上手く表現されているのは認めましょう。非常にうまく表現されていますね。しかしながら、問題が残ります。結局、自由になるように人を強制するのは不可能という事実は変わらないという問題です。
以上の文章を読んでみるだけで、表面的に解決になることに見えるかもしれません。つまり、「私を否定するその法律に従うといよいよ自由になる」との理屈は通りません。
「私の個人意見を否定するが一般意志に反対しない法律だから、私が間違っていたのだ」と。「私が私の個別意志と一般意志を離れようとして悪かった」と。だが、「法案が可決された瞬間に、一般意志に反対する私の個別意志は一般意志と一致していないということが表明されるから、私の個別意志が間違っていたということがいよいよ明らかになった」と。そういった理屈ですね。だから皆さん、「いや、でも正しい判断だと確信している」と思っても、「私が間違った」と思うべきだというのは民主主義そのものです。
従って、なぜか反対の票を入れたかを忘れることにして、可決された法律に従うまでだという理屈ですね。そして、その暁に「それでいよいよ私が自由になったぞ」と思うべきだと。なぜなら、「私が理解していなかった一般意志に従うことになるので、自由になるぞ」という理屈です。つまり「皆さん、訳が分からなくても、大事なのはあなたらが自由だということを覚えて置け」という理屈。つまりこういった感じのことです。バカな理屈です。完全に馬鹿な理屈だというべきです。
御覧になった通り、いつもいつも「自由」ばかりという問題が出てきます。
本日の講演を結ぶために、社会契約論の限界をご紹介したいと思います。以上は、社会契約は如何なるものかの簡単なご紹介でした。
これから、社会契約論を反駁していきたいと思っております。厳密に言うと反駁というよりも、社会契約論の限界とその帰結を示すことによって反駁することになります。
主要な大問題はやっぱり「自由」です。まず、社会契約論において、「自由」とは間違って定義されています。時間があれば、その自由の定義においてこそ、ルソーの理論の反駁の中心になるはずです。平等に関しても一緒です。間違って定義されています。というか、そもそもその平等はどこにも存在しないのです。平等というのは空想・幻想に過ぎないのです。というのも、平等は結局、法律上の擬制に過ぎなくて、自然(現実)を否定する擬制です。大自然において、平等ということはそもそも存在しないのです。だから、ルソーもそれを確認して、「人造的に」平等を作りだそうというのです。だから、ルソーの平等は「仮想的」な平等に過ぎないのです。問題は、現実上の大自然に織り込まれている自然な不平等・差別を否定する「人造的に平等」であることです。その挙句、どんどん緊張が高まって、ある日、その矛盾が爆発するという悲惨な運命がまっています。
だから、社会契約論の第一の帰結は次の通りです。
最初、社会契約を結ぶ「自由」を持つのなら、いつでもその社会契約を解約する自由をも持つはずです。ルソーが「その契約を結んだ時点で、もうだれ一人もその契約から去ることは不可能だ」といっているのですが、一体どの根拠をもってそれがいえるでしょうか。一体、どういった自由がその解約を不可能にするのでしょうか。本来ならば、もし一人が自分の力でいきなり元の独立の状態に戻ろうと思ったら、自由をもっていつでも契約から去ることはできるはずです。そうでなければおかしいでしょう。
だから、その結果、民主主義において無政府主義になる傾向が強いのです。つまり、社会契約は本当の意味での契約だったら、無秩序へ導く契約です。解約できないというのはどこからくるでしょうか。自由を維持する元の意志を、一体なぜいつまでも個人が持てるでしょうか。それは、自由のためだから、とされます。それなら、契約を結んで、ある時点でいよいよ一般意志のお陰で本来の私の自由を取り戻したと思った時に、社会契約から去ってもよいはずです。
つまり、社会を単なる人造的な契約にしてしまったことによって、ルソーは必然的に無政府・無秩序が伴う状況を作ったのです。なぜならルソーにとって、社会において生活するのは反自然なことだからです。従って、自由をもたらすために創られたとされている社会がもう自由をもたらせない時になった場合、純粋な契約になる社会から去るべきです。ルソーの社会契約は結局、長期にいうと原爆に似ています。社会契約は個々人の融合を行うようなものですが、融合がある程度の極まりを超えたら、ボーンと爆発します。もう個々人が自分の自由を取り戻そうとして、爆発してバラバラになっていく社会です。
要するに、社会契約論の長期的な帰結は、無政府です。個人、自分の自由を取り戻すためにある社会ですから。
つづいて、先ほど申し上げたように、一般意志にも限界があります。つまり、一般意志は「全会一致」になることは不可能ですから、大多数に基づいて決定するということになります。そこで、まず簡単な指摘ですが、「数」があるからといって、「質」がかならずしも伴わないということです。また、「数」から真理がかならずしも出ないのです。数と質とのそれぞれの次元は異なります。
そして、どうしても、少数派の問題は残っています。つまり、反対していたその少数派ですね。ルソーが美しい理屈を言っても、つまり、「その少数派が間違っているに過ぎない」といっても、何も解決になりません。
「私が間違っていたので、今、従うと自由になる」と積極的に個人が思い込もうとしても、最初に確信した反対の意見を思わずにいられないという状況は変わらないのは誰の目にも明白でしょう。「でも、私は自由だ、自由だ」と思いこんだとしても、事実としてその選択肢がなく、自由になるために強制されることになります。
だが、「自由になるために強制される」というのは結局、全体主義を意味します。全体主義そのものです。だから、逆説的にみても、民主主義の必然的なもう一つの結果は、全体主義を伴います。
ルソーの民主主義の結果は、必ずや、一方で「無政府主義」、他方で「全体主義」です。または、独裁主義です。ところで、ロベスピエールが次のようなことを言っていました。ロベスピエールはルソー主義でした。
「共和国の政治は、自由による独裁主義だ」と。丁度ぴったりと当たる表現です。
「共和国(民主主義)の政治は、自由による独裁主義だ」と。つまり、我々の政治家たちは独裁者です。
それから、別のもう一つの結果があります。民主主義において、政治指導者たちは主権者ではないのです。思い出しましょう。一般意志だけが主権者だ、と。とはいっても、事実上に、一般意志の決定を行使するために、またその一般意志の決定を解釈する何人の指導者たちが実際に存在するということになっています。
ロベスピエールの言っていた「共和国の政治は、自由による独裁主義だ」とは、次のようなことです。
つまり、一般意志の決定を行使するためにだけ、「民主主義的に選挙を通して選ばれた」代表者たちがいるのです。しかし、一般意志が選ばれた代表者たちの意志と違うようになった場合、どうなるでしょうか。その場合、当選された人々と一般意志の間の緊張感が生まれてきます。
具体的な例を挙げましょう。例えば、丁度、今日、マクロン大統領は80キロ速度制限という法案について発言しました。明らかに、一般意志に反する発言ですね。なんて反民主主義的な大統領だろうなあ。すると、どうなるでしょうか。「主権者」の立場にある指導者、まあ、ルソー論で言うとその指導者は「主権者」ではないが、それはともかく、一般意志の決定を行使するためにだけ存在する「指導者」が一般意志に反対するようなことをやり始めると、凄い緊張感が生まれます。どうなるでしょうか。その指導者は自分の席を確保するために、暴君のように振舞うようになるしかありません。
言い換えると、自由を保護、自由を守るはずの「社会契約」のせいで、暴政・僭主政治に落ちていくのです。ルイ・ジュニェ『哲学教義と政治システム』(Louis Jugnet : Doctrines philosophiques et systèmes politiques)による短い本を引用しましょう。ジュニェ(Jugnet)教授による政治についての講座の記録の本です。引用は、ルソーについての紹介であって、よく纏まっています。ご紹介します。
「前世紀(19世紀)の偉大なる共和国派の一人、Arthur Rankeが国家の右派に向けて憤怒しだしたことがあります。」
つまり、その人は左派ですね。
「彼は素直に次の発言を(右派に)投げつけました。」
先ほど申し上げたことを良く示す一つの例ですから引用します。
「(右派に向けて)君らが僅かな少数派に過ぎない場合、我々は君らを軽蔑しよう。君らが無視できない少数派になった場合、我々は君ら(の当選)を無効にしてやろう。君らが多数派になった場合、われわれは銃をとって町に行くだろう。」
明白な発言ですね。でも、毎日、現代においてまさにこれを経験している通りです。「君らが多数派になった場合、われわれは銃をとって町に行くだろう。」
今の黄色ヴェストの事件はどうなっていくかを知るのは天主様だけですが、「銃をとって町に行くだろう」というのはここで言うと、黄色ヴェストのことではなく、政府です。
最後に、ルソーが打ち出した社会契約の実現をしようとした1789年の革命以来、現代に至るまで、フランスの歴史を見ると明白です。いつもいつも、無政府主義と独裁主義の行き来ばっかりです。なぜかというと、相次いで出てくる共和国はすべて、ルソーの社会契約論に基づいているからで、必然的にそうなります。というのも、ルソーの社会契約論は出鱈目に過ぎないからです。なぜかというと、その社会契約は自然ではないどころか、反自然だからです。ルソー自身がそれを認めています。社会契約は自然ではないと。
だから、現代に置いて、どんどん痛感するように、こういった社会契約論の悲惨な帰結を味わわざるを得ないのです。
社会契約論について、これで終わらせていただきます。主要な筋を紹介するつもりで、これで社会契約論を理解するための鍵を得られたと何より幸いです。ご清聴ありがとうございました。
来月のテーマは「エミール、教育ついて」です。