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天主が存在するのなら、悪はなぜあるのでしょうか? 【公教要理】 第七講

2019年01月06日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。

公教要理-第七講  悪について


悪。創造において、「悪」とはなんでしょうか。天主が存在するのなら、悪はなぜあるでしょうか
裏を返せば、悪が存在するのなら、天主は善良ではない、さらに天主が存在しない証明になるのではないでしょうか。これは、一般的な異議であって、昨今、よくいわれています。

もっともの疑問だと言えます。なぜかというと、天主、善なる天主と悪との間に、二律背反の関係があるからです。両方は一切相容れないほどに矛盾しているからです。もっともです。確かにその通りです。天主と悪は共存できません。天主の存在を支持するか、悪の存在を支持するかです。どうすればよいのでしょうか。神秘です。

悪とは一体何でしょうか。天主が存在すると断言するために、悪を否定する必要があるのでしょうか。また、悪を経験しているからといって、天主を否定すべきでしょうか。

さて、実は、両方の存在こそを認めなければなりません。そして、どうやって共存するかという説明をします。それより、大事なのは、悪が天主の働きによるものではないということを明白によく説明する必要があります
残念ながら悪は存在しますが、それは全く天主によるのではありません。天主はすべてを創造しました。天主は、被創造物の世話をし続けています。しかしながら、絶対に完全なる天主は、任せ、委ねることもできます。なぜかというと、本物の主(あるじ)の特徴は、自分の部下を信用して、任せることにありるからです。そういえば、主(あるじ)は偉ければえらいほど、常に、傍に居ながら、信用できる部下が多くいますね。ですから、天主は完全であるが故に、委任することができます

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さて、創造において、悪とは何でしょうか
「悪」は、二つの種類に区別されます。まず一つは「物理的な悪」です。
もう一つは「道徳的な悪」です。
「物理的な悪」とは、自然の悪のことです。例えば、災害とか、また死などがあります。他に苦痛もあります。つまり物理的な悪で、私たちが物体を持っているがゆえにある悪です。
別に「道徳的な悪」が区別されます。これが本来の悪です。「罪」とも呼ばれます
よくある悪で、戦争や殺人や犯行や窃盗などがあります。これらはすべて「悪事」です。しかも、災害・死・肉体的苦痛の自然の悪よりも、酷い悪です。

要するに、悪の種類は二つあります。一先ず理解すべきことは、物理的な悪は、自然に織り込まれているということです。言い換えると、常によく経験している私たちを囲っている大自然は、物理的な悪がなければ、大自然として成り立たず、存在できないという意味です。例えば、嵐は、自然の働きによる現象です。しかも、必ずしも「悪事」とは言えません。わたしたちから見て、「悪事」に見える時はあるかもしれませんが、個別の現象から離れて、高天から自然を眺めて、全体の宇宙を見ようとするときに、この現象は悪事でもなんでもなく、そのどころか、全体の秩序の均衡のために、必要となっている要素であることが見えてきます。
例えば、ガゼルにとって、ライオンに食われることは、当然に「悪」です。しかしながら、ライオンにとって、食えるガゼルがいて、「善」です。言い換えると、もしガゼルは食われることがないとしたら、どうやってライオンは生き残れるでしょうか。それなら、世界にどれほど夥しいガゼルの数が必要になるか想像しやすいですね。つまり、自然に均衡があります。その均衡の故に、物理的な悪が要ります。物理的な悪は罪でもなく、道徳的な悪でもありません。大自然に構成があって、必然的にその構成に属する物理的な悪です。いわゆる、物質は構成物だからこそ、必ず腐敗していく本性を持っています。

要するにすべての物理的の悪は、苦痛であれ、死であれ、災害であれ、自然に織り込まれています。人間は、それらを受け入れるほかにありません。受け入れないよと言い出したら、自分の本性を否定することになります。勿論、誰も肉身において苦痛したくありませんね。だれも、病気になりたくありませんね。しかしながら、私たちの本性には、苦痛と病気があります。しかたがないことで、人間の本性なので、物理的な悪を受け入れざるを得ません。これらの物理的な悪は、天主が創造した時点で、自然に織り込まれているからです。なければ、人間は人間でなくなります。ライオンに食われることのないガゼルがあり得たら、ガゼルではなくなります。

物理的次元の悪が存在しなければ、大自然と宇宙は、大自然と宇宙でなくなります。でも、大自然と宇宙は存在していますので、これは矛盾です。従って、物理的な悪は、残念ながら、大自然において、必然的に織り込まれていると言えます。例えば、地震とは、地球の本性による現象です。私たちの知っている地球は、実際にこうなっているからこそ、地震が起きます。悪と言っても、どうしようもありません。つまり、地震をなくそうと思ったら、地球の本性を変えるしかありません。でも、それは、天主にしかできないことです。そして、天主は、今実際にある地球をこれで創ったわけです。災害と地震付の地球を望まれました。
要するに、物理的な悪は、存在している現象にすぎません。大自然を望んでいることにおいて、天主はその物理的な悪を望んでいます。

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道徳的な悪は、以上の悪と全く違います。罪です。窃盗や誹謗や評判の破壊行為や無罪者の殺人や犯行などをはじめ、誰でも目撃して、知っているところです。戦争もそうです。確かに、これらこそ、本物の悪といえます。これこそ、まさに厳密な意味で、「堕落」といえます
「悪」といったら、まさに堕落を語る言葉です。災害・嵐・地震などの場合なら、「堕落」とは言えません。話すときに、堕落とはいいませんね。物理的な悪は、しかたがなく起きてしまって、これらに対して、何ともできません。大自然の一部なのです。

しかしながら、他の悪は、窃盗・殺人・犯行・戦争・誹謗などの悪事は、まさに「堕落」に当たります。天主によるものでしょうか。違います。その源泉は、一つしかありません。人間の持っている自由にあります。道
徳的な悪は、つまり毎日目撃できるその諸腐敗は、人間の自由にしか、由来しません。天主に由来していないどころか、天主は、それらの悪を望みません。天主は、腐敗と堕落を望みません。天主は、罪を望みません。天主は、こういう絶対的な悪を望みません。

人間は自由を乱用するからこそ、悪が生じます。つまり、地上にあるすべての悪と堕落の責任は、人間だけにあります。強姦や自殺、窃盗や犯行をはじめ、それらすべては、人間の自由の産物にすぎません。
確かに、人間が権利を多く訴えれば訴えるほどに、世間の堕落がますます進んでいくのは、明瞭に確認できる事実です。理論上、当然、そうでなければなりません。しかも、それは確認しやすいことです。人間の自由を解放させた時点で、自由を荒れ狂わせようとした時点で、つまり、天主向きの自由でなくなった時点で、拘束抜きになった時点で、同時に、地上のあらゆる悪事と悪行と腐敗を解放させてしまいました。

要するに、一番絶対的な堕落を意味している一番軽蔑語としての悪とは、天主に由来しないどころか、天主は望まず、荒れ狂って爆発する人間の自由にこそ由来しています。
地上にある悪の責任者は、ただ人間だけです。したがって、天主に責任を負わせるのは、むなしいことです。勿論、人間に自由を与えたのは天主に他なりませんが、自由を与えたと同時に、それに枠をも加えました。
まさに、自由をよく抑制するために、自由をよく輝かせるために、与えられた制限です
人間は、与えられた法と呼ばれている枠を壊そうとしました。特に、自然法を抜きにしようと思いました。これらの抑制を抜いてしまうことによって、地上のすべての悪を解放させました。さらに、すべての堕落を生んでしまいました。
要するに、ある人が、天主と堕落とを同時に望むことができるのなら、矛盾です。同時に、堕落に生かされて、天主に生かされることは無理です。絶対に相容れません。

そこで、天主は地上にある悪の責任を負いません。自由の乱用のせいで、人間だけが悪の責任を負います
例えてみると、ある母が自分の子に、刃物で切ることを教えるために、ナイフを与えたとします。たとえば、食事の時に、皿に置かれている肉を切るためにとか、です。幼い子なら、ナイフを与えませんね。なぜでしょうか。幼い子には、ナイフを善く使用する能力がないからです。従って、もっともの事ですが、子供の両親は、ナイフを与えません。幼い子が悪く使ってしまうことを両親が知っているからです。あるいは、最悪に使ってしまうかもしれないし、無意識にしても、ナイフをひっくり返して、自分を傷つけるかもしれません。この場合は、危険物且つ堕落させる道具を与えるよりも、当然、与えないわけです。子は成長した暁に、ナイフを与えられるようになります。最初は、両親が見守ってあげながら身につけさせますね。要するに、ナイフの使用の練習は、最初に両親が手伝って見守ります。それから、使えば使うほど、少しずつ、ナイフを善く使用することを身につけていきます。許されている正しい範囲内での使用を身につけていきます。つまり、善の範囲内でです。
まさに、許されているのは、善なることだからです。善のために、使用するわけですから。きっと、子は、練習の間に、下手に、小傷を自分の手にしてしまうでしょう。それで、危険物でもあることがわかってきます。したがって、更に注意を注ぎながら、両親の言われたことを常に思い起こすでしょう。それから、少しずつ、上手になればなるほどに、ある時点で、両親が見守らなくても良くなります。当然ですね。もう、ナイフを使用することは知っている上に、善のためにも使用しますから。もし、ある日、食事の時に、子がナイフを取り、お隣の人を斬り始めてしまったら、お隣の人の腕を傷つける為に使用してしまったら、すぐさまに、両親がナイフを取り上げるのは、常識です。取り上げる理由は、悪のために使用されてしまったからです。言い換えると、悪く使っているのです。全く同じ意味です。

どちらかというと、自由は、以上のナイフと似ています。天主は、人間に自由を与えましたが、同時に、自然法という法をも与えました自由を善く使うためにある法です。
自由を善く使うとは、善のために使うということと全く同じ意味です。ただ、ナイフを使うだけということはありません。良く使うか、悪く使うか、どちらかしかありません。使うことを知っているとは、良く使うことを知っているという意味です。使い方は知らないという場合は、悪く使うことです。同じように、自由の使い方も、身につけて見習うわけです。

自由を見習わない人は、自由において生きていくことを習わない人は、つまり、道徳の法と自然の法からなる法の掟に沿って、自由を使用することを習わない人は、自由を善く使えないので、悪く使います。悪く使うことによって、悪を成します。従って、こうやって地上にある、自分で産んだ悪の責任を負います。
「悪は存在するから、天主は存在しない」と言い出す人は、周りにある悪の源泉こそ、自分自身にあることを、まだわかっていないだけです。また、「悪は存在するから、天主は存在しない」と言い出す人、いや、更に「天主は存在するのなら、悪なんか存在するはずがない」と言い出す人は、実際に、暗に自分の自由の削除を天主に望んでいます。とんでもない矛盾でしよう。近代の人々は、天主は善であって、すべての悪を消してほしいと期待すると同時に、絶対的な自由を持つままでいたいと望むことになります。これこそ、矛盾極まりないことです。

天主にとって悪を無くすのは、簡単なことです。すべての自由を消したら済みます。一方に、人間が自由のままで生きたいと思うのなら、天主はそれを聞き入れて、悪を消すしかなく、また同じく矛盾になります。
天主は、自由を無くさない限りに、悪を無くさせません。地上に悪がある事実は、人間こそ自由を悪く使うからにすぎません。
要するに、堕落・殺人・犯行・戦争・自殺・強姦・窃盗・嘘などは、すべて、悪く使われた自由の産物です。「自由!自由!」と叫べば叫ぶほど、間違いなく、悪は地上において広まっていくしかありません。逆に言うと、人間が悪を避けたいと思えば思うほど、悪を無くしたいと思えば思うほどに、ある法を採用せざるを得なくなりません。つまり、人生を律する法でなければなりません。道徳法です。その上に、人間の本性にも依存すべき法ですから、つまり自然法です。ところで自然法は自然を創造した天主に依存しなければなりません
一方、自由を望むのなら、悪だけが出てきます。政府が自由を訴えるなら、実は悪を訴えているに他なりません。他方で罪という本物の悪を無くすことを望むのなら、社会自体の中心に天主を再樹立する必要があります。天主か悪かです。


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