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ミサ聖祭の「ご現存」|だから聖変化の瞬間から司祭はホスチアとカリスに跪く

2021年02月11日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百十二講 ミサ聖祭、ご現存



ミサ聖祭、ご現存
Gabriel Billecocq神父

前回にご紹介したように、ミサ聖祭という秘跡は秘跡として物資的な印であります。そして、ミサ聖祭という秘跡には、我らの主、イエズス・キリストの御体、御血、ご霊魂、ご神性が葡萄酒とパンの外観の下に、本質的に実際に真に、在(ましま)し給うのです。

ミサ聖祭の秘跡は、我らの主、イエズス・キリストご自身によって制定されました。制定を控えて、我らの主、イエズス・キリストはミサ聖祭を人々に告げられました。聖ヨハネの第6章においてこの場面は記されています。それから、我らの主、イエズス・キリストは「これは私の体である。」それから「これは私の血である」という言葉を以てミサ聖祭の秘跡を制定なさいました。最後の晩餐のことです。聖マテオ、聖マルコ、聖ルカの三つの福音書において記されている最後の晩餐です。または、聖パウロのコリント人への第一の手紙においても記されているミサ聖祭のご制定です。

要するに、ミサ聖祭は、我らの主、イエズス・キリストによって制定された秘蹟なのです。

秘跡は物質的な(感知可能な)印なのです。これはどういう意味でしょうか?以前、秘跡全般についてご紹介した時、すでにご説明した点ですが、思い出しましょう。

印とは具体的な現実なのですが、この具体的な現実を以て、別にある違う現実を示す、指し示すということです。例えば、「煙は火の印だ」といった時、まさにこのような関係があります。つまり、煙は具体的な目に見える現実ですが、煙を見ると、なにかその煙を産みだしただ火を示すかのように、火を指し示すかのようなことになっています。火は煙と違う現実です。

同じように、ミサ聖祭という秘跡も物質的な印なのです。言いかえると、ミサ聖祭において物質的な印がありますが、この印は別に存在する現実を指し示すことになるという意味です。

秘跡においての物質的な印は質料と形相からなっています。ちなみに、ミサ聖祭と御聖体は同じ意味です。御聖体の秘跡において、物質的な印があります。ですから、質料と形相はあります。では質料はなんでしょうか?遠因の質料は小麦のパンと葡萄酒です。この二つの物は印となっています。本当の意味での印です。何を示す印でしょうか?パンと葡萄酒は食物・糧を示すのです。前にも申し上げたように、ミサ聖祭という秘跡は霊魂を養う秘跡なのです。洗礼は霊魂に生命を与えて、堅振は霊魂の生命を完成化させると同じように、ミサ聖祭は霊魂を養うのです。霊的な生命を養うのです。

ですから、ミサ聖祭の秘跡における印のために、我らの主、イエズス・キリストが体を養う一番普通な食物としてお選びになったものが、つまりパンと葡萄酒なのです。宴、食物、糧を示すには一番普通の印です。

パンと葡萄酒は非常に具体的な食物であるともに、これらの印が何を示すかということも非常に明白です。つまり、霊魂の生命を養うことを示す印です。洗礼において、流される水は霊魂を洗う聖寵を示すのと同じように、パンと葡萄酒という「形色」は霊魂を養いにいらっしゃる天主ご自身を明白に示すのです。

要するに、ミサ聖祭の秘跡の質料はパンと葡萄酒という「形色」からなっています。もうちょっと後に、「形色」という言葉を説明します。難しいというか、哲学用語なので説明が要ります。

それはともかく、ミサ聖祭の秘跡が成り立つためには、パンが必要だということです。ラテン教会においては、種無しパンとなっています。つまり、無酵母のパンです。一方、ギリシャ教会では、発酵させたパンを使うことになっています。

大事なのはミサ聖祭の秘跡が有効になるためには「パン」を使わなければならないということです。パンの種類は問いませんが、パンを使ったミサ聖祭の秘跡が有効となります。しかしながら、ミサ聖祭の秘跡が適法になるためには、言いかえると罪なくミサ聖祭の秘跡を執行するためには、ラテン教会においては種無しパンが必要となっていて、そしてギリシャ教会においては無酵母のパンが必要となっているのです。

それから、葡萄酒は自然の葡萄酒でなければなりません。それは、葡萄という実りから発酵されたワインでなければならないという意味です。「ブドウの木の実り」という言い回しは福音において明記されていて、我らの主、イエズス・キリストもこの表現をなさっています。例えば、いろいろな実から酒を造ることができるわけです。日本酒はコメから、あるいは梅酒など、何でもいいですが、ミサ聖祭の秘跡のためには、葡萄酒でなければなりません。他の酒を使っても、ミサ聖祭は有効になりません。それから、ミサ聖祭の有効性のために必要ではないとしても、適法にミサ聖祭を捧げるためには、酸っぱくなりかけている葡萄酒も甘口の葡萄酒も使ってはいけないことになっています。それは秘跡の有効性とかかわらないから、それほど大事ではありませんが。

それはともかく、ミサ聖祭の時、ミサ用の葡萄酒には数滴の水を司祭が入れることを教会は命じています。一滴ぐらいです。この一滴の水は人類を示すとともに、そして我らの主、イエズス・キリストのご犠牲への私たちの参加を示すのです。
以上は質料の紹介でした。パンと葡萄酒なのです。食物を示す質料なのです。

それでは、形相はどうなっているでしょうか。
ミサ聖祭の秘跡の形相は、聖変化の時、司祭が言う言葉です。これらの言葉は我らの主、イエズス・キリストご自身が聖木曜日の最後の晩餐の際、仰せになったお言葉です。「実に、これは私の体である」「実に、これは私の血のカリスである。」以上の形相はミサ聖祭の聖変化の時に実際に起きていることを示す言葉です。要するに、まさに聖変化を示すのです。パンは御体となります。葡萄酒は御血となります。

「実に、これは私の体である」「実に、これは私の血のカリスである。」



まさに、我らの主、イエズス・キリストは「命のパンはわたしのことだ。」と仰せになりました。または「私は天から下った生きているパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。私の与えるパンは世の命のために渡される私の肉である。」と仰せになりました。

要するに、聖変化の言葉をもって、パンを御体に変えて、葡萄酒を御血に変える効果があります。聖変化によって、パンと葡萄酒の形色は残ったままですが、つまり簡単にいうとその外観はパンと葡萄酒のままです。が、聖変化が行われると、パンと葡萄酒の形色は変わらなくても、その実体はかわります。もはやパンと葡萄酒ではなくなって、我らの主、イエズス・キリストの御体と御血となります。

このように、食物の「印」は残っていることになりますが、私たちは拝領する食物はもはやパンと葡萄酒ではなくなって、我らの主、イエズス・キリストご自身となります。御体と御血なのです。
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ミサ聖祭の秘跡は「ご現存」という玄義、「ご現存」という奇跡を実現する秘蹟です。「ご現存」とはなんでしょうか? つまり、パンと葡萄酒の外観の下に、形相を通じて、つまり聖変化の司祭がいうお言葉、「実に、これは私の体である」「実に、これは私の血のカリスである。」を以て、パンと葡萄酒の本質が変わるのです。

ここに至って、哲学用語とその概念をちょっとだけ簡単に説明することが大事だと思われます。物質的な存在は本質と偶然からなっているのです。
簡単にいうと「本質」とはラテン語の「Sub stare(下に立っている実体)」に由来しますが、その存在の本性を決める事柄です。つまり、ある「物」は「何であるか」ということを決めるものです。例えば、「彼は人間だ」といった時、その人の本質を語るのです。あるいは、ある物をみて「これは机だ」、「これ椅子だ」「これはエビだ」「これは花だ」という時、それらの物の本質を表現します。

ただ、私たちは人間なので、物事を知るために、それらの物事の「外観」を通じてだけその本質を把握できるのです。言いかえると、物事の外観、あるいは感知できる要素を受けて、それを見て、私たち人間は「何であるか」ということを言いきれることはできるのです。これは人間の特徴であると言えましょう。物事の本質を言い切れるという。要するに、人間は外観を見て、その中身を認定するというようなやりかたです。

つまり、私たちは「外観」を見ます。哲学用語を使うと、この「外観」は「偶然」と呼ばれています。偶然とは「Ac cidere」というラテン語に由来していて「現に現れている物事」という意味です。また「形色」とも呼ばれています。「現れる物事」という意味です。

要するに、私たち人間は物事の外面、感知できる要素を見受けて、これらの物事は何であるか、つまりその本質を言い切れる能力を持つのです。
例えば、目の前に二つの腕、二つの足、頭などという「物」を見た時、「これは人間だ」と言いきれます。つまり、その外観などを見て、その本質を言い切れます。もちろん、これらの外観はひとびとによって変わります。例えば目の色とか、身長、体重などはみんな違うわけです。つまり、これらの外観は多様性がありますが、それでもこれらの感知できる要素のお陰でいずれにしても「彼は人間だ」と言い切れる現実があります。あるいは「これはエビだ」あるいは「これは植物だ」あるいは「これは木だ」あるいは「これは雲だ」など。

つまり、人間は物事の外観を通じて、その本質を知ることができます。ですから、存在物には「本質」と「偶然(外観)」の区別があるのです。もちろん、本質と偶然は区別されても、現に密接に結ばれているので、私たち人間はある物の本質と偶然を離すことは不可能です。無理です。例えば、体を持たない人といっても、無意味なことです。理不尽です。無理です。人は必ず頭とかあります。

要するに、物事の本質と偶然(外観)は存在することに当たって密接に強く結ばれているのです。離れられないほど。

さて、ミサ聖祭の秘跡の際、現に起きる聖変化は天主によってしかできない奇跡となります。天主のみ、万象の創造主とその主人であるがゆえに聖変化が可能です。どういうことでしょうか?



我らの主、イエズス・キリストは聖木曜日の最後の晩餐の時、あるいは、司祭はミサ聖祭の聖変化の時、「実に、これは私の体である」「実に、これは私の血である。」という言葉を言ったとたんに、パンと葡萄酒の「形色」、言いかえると「外観、偶然」はそのままに残るのですが、パンと葡萄酒の本質は変わります。このような御業は天主のみができる奇跡です。というのも、天主のみ、万象の存在を支配して、万象を操ることができるからです。なぜでしょうか?天主こそがこの上なく至上の存在であり、天主こそが万象に各々の存在を与える御方であるがゆえです。

つまり、天主のみが聖変化において実現する本質の変化を行えるということです。繰り返しになりますが、我らの主、イエズス・キリストはパンを手に取り「実に、これは私の体である」と仰せになった時、あるいはミサ聖祭の際、司祭がパンを手に取り「実に、これは私の体である」と申し上げたとたんに、もはやパンではなくなってしまい、我らの主、イエズス・キリストご自身に変わります。現存されます。ただ、「パンの外観のもとに」実にましまし給うということです。つまり、聖変化のあとでも、パンのすべての「偶然」、「形色」、つまり「外観」は残っています。例えば、白く、丸くて、パンの味がしているなどの「感知できる偶然」は残っているままです。が、御聖体はその外観の下に隠れている本質が変わって、我らの主、イエズス・キリストご自身となります。

この現実は信仰が私たちに教えることです。そして、我らの主、イエズス・キリストご自身がミサ聖祭を約束なさったことを信仰を通して確証させるのです。また、現在において、御聖体にかかわる多くの奇跡によっても確証されています。

聖書においても、聖伝に(使徒たちによって伝えられて伝統)においても、それからカトリック教会の長い歴史に渡る確認できる多くの「弁証の証拠」においてもご現存の証拠は数多くあります。しかしながら、これらの証拠はともかく、ご啓示された信仰の一つの玄義として、そのままにご現存されるという真理は素直に受け止めなければなりません。

典礼において、聖変化から司祭は御聖体の前に跪くのですが、それはご現存に対して礼拝しているのです。もはやパンではなくなっているのです。これは大事です。もはやパンではないからこそ、イエズス・キリストご自身であるからこそ、ご現存にましまし給う御聖体だからこそ、跪くのです。礼拝の行為を表します。


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同じように、イエズス・キリストがカリスを手に取ったように、ミサの時、司祭がカリスを手に取って「実に、これは私の血である。」といったとたんに、もはや葡萄酒ではなくなります。ただ、葡萄酒の外観など、葡萄酒の偶然は残っていますが、その本質は変わって、もはや葡萄酒ではなく、我らの主、イエズス・キリストの御血です。

まさに聖変化です。つまり、本質が変化されたということです。パンと葡萄酒の本質から我らの主、イエズス・キリストの本質へ変わります。神学用語でいうと「聖変化-transsubstantiatio」と言います。直訳すると「本質を変える」という意味です。本質が変化します。

ちなみに、秘蹟の定義は次のようになっていますね。「ミサ聖祭という秘跡には、我らの主、イエズス・キリストの御体、御血、ご霊魂、ご神性が葡萄酒とパンの外観の下に、本質的に実際に真に、在(ましま)し給うのです。」この「本質的に」という部分が重要となります。偶然(外観)は変わらないのですが、本質は変わります。聖変化です。

で、聖変化を通じて、我らの主、イエズス・キリストが御聖体において現存しておられます。本当にましまし給うのです。パンと葡萄酒の形色の下に、それぞれに完全にましまし給うということです。言いかえると、御聖体において、つまり、パンの外観の下に、イエズス・キリストの全部がましまし給うということです。御体、御血、ご霊魂、ご神性とともに、御聖体において現存しておられます。我らの主が現存しておられるという時、当然といえば当然ですが、我らの主、イエズス・キリストの全体がましまし給うということです。イエズス・キリストの一部を除いてにおられることはありません。御体、御血、ご霊魂、ご神性のすべてをもってましまし給うということです。



同じように、カリスの御血においても、我らの主、イエズス・キリストの全体がましまし給うということです。ですから、御体と御血だからといって、パンには御体だけ、葡萄酒には御血だけというようなことはありません。

コリント人への第一の手紙において、聖パウロの次の言葉があります。「だから、相応しい心なしに主のパンを食べ(あるいは)、この杯を飲む者は。主の御体と御血を犯す。」(コリント人への第一の手紙、11、27)
以上の引用の「あるいは」と「と」はこの意味で大事になっています。つまり相応しい心なしに主のパンを食べる者、あるいは杯を飲む者は、つまりどちらかでもという意味で、主の御体と御血を犯すということは、御血と御体の双方を犯すということになります。
要約すると、聖変化されたパンだけをもっても、御血と御体があるということです(そして、ご霊魂とご神聖、つまりイエズス・キリストのすべて)。同じように聖変化された葡萄酒だけをもっても、御血と御体があるということです。

要するに、パンと葡萄酒のそれぞれの形色の下に、我らの主、イエズス・キリストのすべてがましまし給うということです。さらに言うと、それぞれの形色の一部の下においても、我らの主、イエズス・キリストのすべてがましまし給うということです。具体的にいうと、つまり、御聖体は、つまり聖変化された種無しのパンの一部のかけらだけにおいても、我らの主、イエズス・キリストのすべてが完全にましまし給うということです。言いかえると、司祭は御聖体を二つに分けても、我らの主、イエズス・キリストは分かれていないのです。別れた二つのかけらにおいても、完全にすべてましまし給うということです。一部のかけらをとって、イエズス・キリストのすべてがましまし給うということです。もう一部のかけらにおいても、我らの主、イエズス・キリストのすべてがましまし給うということです。
同じように聖変化された葡萄酒の一滴においても、我らの主、イエズス・キリストのすべてがましまし給うということです。



ここに至って、お勧めがあります。皆様の毎日のミサ典書をに参照するのがよいです。御聖体の祝日の典礼に素晴らしい「続誦」があります。御聖体の祝日は聖霊降臨の祝日のあとに来ます。その日の典礼には素晴らしい「続誦」がありまして、「詩」のような「歌」のような美しい祈りです。アレルヤのあとにあって、福音書の前にあります。聖トマス・アクイナスが作成した「続誦」です。御聖体について、カトリック信徒として信じるべきすべての真理がその「続誦」に収まって簡潔に記されています。一部だけ引用しましょう。

「異なる形色、象徴的な表面の下に、すぐれた実在がかくれましまし給う。
御肉は糧、御血は飲み物である、キリストはその双方の形色の下に、完全にこもりまします。
これを受ける者も、切ることなく、割ることなく、分けることなく、全き実体を受け奉る。
一人拝領するも、全員拝領するも、等しきものを完全に受け奉る。いかに多くが受けても、尽きることはない。」

以上の文章は「続誦」の一部ですから、ぜひともご覧ください。多少長いですが本当に素晴らしい文章です。

ミサ聖祭という秘跡には、我らの主、イエズス・キリストの御体、御血、ご霊魂、ご神性が葡萄酒とパンの外観の下に、本質的に実際に真に、在(ましま)し給うのです。



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