白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
今回、罪源の紹介を続けたいと思っております。前回は、「自分に対する乱れた愛着」である傲慢を紹介した後に、「この世にある物事、移り変わる儚い物質的な財産などに対する乱れた愛着」である強欲を紹介しました。
これから、残りの罪源をご紹介したいと思います。邪淫に関しては前に申し上げたように一旦保留しておきます。天主の第六と第九の誡めの際に譲ることにします。
さて、貪食について説明しましょう。他の罪源と同じように、乱れた愛着です。というのも、罪というもの自体は、偽りの善への愛着であるということを思い出しましょう。貪食は「飲食に対する乱れた愛着」なのです。また、傲慢についても申し上げた通りです。「自分に対する乱れた愛着」である傲慢だからといって、「自分を愛すべきだ」ということに関して変わりはありません。ただ、相応しく適切に自分を愛すべきだということです。
同じように、「この世にある物事に対する乱れた愛着」である強欲の場合も、天主によく奉仕するために役立つ「この世の物事に対する」相応しい愛もあるのです。同じように、「飲食に対する乱れた愛着」である貪食の場合も、本来、「飲食に対する相応しい愛」も当然、あるわけです。
良き天主は身体を持った人間として私たちを創造してくださいました。そして、飲食する必要がある体を持った人間として天主は私たちを創造してくださいました。ですから、天主は私たちにとって必要不可欠な飲食を嫌うようにしむけるわけにはいかないということです。
天主ご自身はこの飲食の必要性を私たちに付与したし、飲食すると、ある程度の安楽を感じうる能力をも与えてくださいました。ですから、貪食とは飲食に対する「乱れた」愛着なのです。
また、飲食からくる快感に対する乱れた愛着です。言いかえると、飲食の本来の目的に沿った「愛」でなくなる時に、乱れた愛着というのです。飲食の本来の目的は食欲と渇きを癒すためにあるのです。で、貪食の場合、食欲と渇きの癒しだけでは足りなくて、飲食する快楽を求めるためにだけ飲食するという乱れです。または、飲食による快感のみを求める時の乱れです。
繰り返しますが、食べ物において味を嗜むこと自体、料理をうまくすること自体は善いことです。われわれは五感が備わっていますし、天主は人間には五感を持った存在として生活するように我々に命じていっらしゃるのです。だから、相応しい程度に、五感を満たすのは悪いことではありません。ただし、身体は霊魂によく仕えるようにするために五感を満たす程度は認められています。ここはポイントです。
徳とはそもそも「秩序」なのです。一方、罪とは「乱れ」なのです。貪食の場合、五感は過剰に満たされたあまりの乱れのせいで、身体自体はもう霊魂の奉仕をやらなくなり、身体は自分自身のみに奉仕するという羽目に陥るのです。従って、快楽するためにのみ、おなかを壊してまで飲食するのは罪です。そして、理に適う秩序を乱すほどの貪食になる時、大罪となります。
例えば、ある人は過剰に飲酒するとしましょう。そのせいで、酔っぱらって理性を使えなくなったら、自分自身に対する罪になります。この場合、明らかに、身体は理性に仕えることもできなくなり、霊魂に仕えることにできなくなり、大罪となります。泥酔とは大罪です。貪食のせいで、罪を犯すことはよくあります。過剰に飲食するとき、あるいは貪欲に飲食するとき、快楽のみを求める時、過剰に食事の豪華を求め、料理の質を過剰に求めるときも罪になります。もちろん、「過剰に」という時です。これらは大体、小罪になるでしょうが、とにかく秩序を乱す行為になるから罪となります。言いかえると、本来、人間の本性上求められている傾向に反する行為ということになります。つまり、本来、我々の本性が要求する使命を果たせなくする行為なのです。時には、理性の作用ですらなくさせる貪食なのです。
貪食が大罪になるもう一つの場合があります。教会が命じる小斎大斎を守らない時です。現代では、残念ながらも、小斎大斎が義務付けられている日は少なくなって灰の水曜日と聖金曜日のみです。ちょっと昔まで、この二日以外にも、通年の多くの機会に、ほかの小斎大斎はあったし、あるいは小斎だけの日も多かったです。小斎というのは、「肉を食べない日」ということです。基本的に、毎週金曜日は小斎をやるといいです。
なぜ、教会はそういったような戒律を立てているでしょうか?それは、我々においての飲食に対する本能を節制するためです。というのも、原罪以降、飲食に対する本能は乱れてしまったので、何もしないで霊魂は身体を簡単にいつも従わせることができないのです。霊魂はいつも物質的な物事に対して超然たる態度をとれるように、またいつも、身体は速やかに、自由に霊魂をよく奉仕できるように規定されてあった戒律なのです。
要するに、義務付けられている日に、小斎大斎を破る時、大罪となります。
貪食の一つの典型的な結果はもちろん泥酔と飲食癖です。そして、飲食癖の一般の結果は精神上の愚鈍化なのです。ほとんどの場合、過剰に飲食すると、愚かになるような、愚鈍化してしまう結果を伴います。聖書に書いている通りです。シラの書には「泥酔は愚か者の怒りを掻き立て、身を滅ぼさせ、力を衰えさせ、人からたたかれるもとをつくる。」 とあります。
愚鈍化の他には、残念ながら、ほとんどの場合、貪食すると、宗教に対する義務の怠慢に陥ることが多いです。そういえば、修道士の生活と飲食の節制との関係性は高い現象は確認されています。つまり、修道者たちは、世俗社会に生きている一般信徒の小斎大斎よりも、飲食に対する厳しい戒律を実践しているのです。大斎においても、修道士ならより厳格であること、そして、小斎においても、時には常時小斎の戒律の修道会もあります。例えば、ドミニコ修道会では、常時小斎となっています。このような特徴はなぜあるでしょうか?大斎小斎などの規定のおかげで、霊魂は天主によりよく仕えるための非常な助けとなる節制につながるからです。
貪食のもう一つの結果は、邪淫と怠惰によくつながっているのです。聖書にも書いてあります。エゼキエル書にあります。「ソドムの罪はこうだった」、周知のように、ソドムの罪は邪淫を中心にしています。「妹のソドムの罪はこうだった。おごりをきわめ、ぜいたくと安逸をむさぼっていた彼女とその娘たちは、貧しい者と不幸な者を助けようとしなかった。」エゼキエル書、16、49に書かれています。
後は、貪食のせいで争いと喧嘩の種になります。そして、健康をも破壊します。それが過剰な時には、生命を危うくすることもあります。
貪食に抵抗するためにどうすればよいでしょうか。第一に、祈ることは大事です。特に、食前と食後の祈りをすると、我々のすべての行為を天主に捧げるために善い助けとなります。そして、単純に、いつもいつも節度を保つことです。
~~
次に、嫉妬という罪源があります。妬み、羨ましがることなどです。嫉妬の定義をよく抑えることは大切です。注意しましょう。嫉妬とは「隣人が享受する恵みと善の前に悲しむこと」であるということです。言葉遣いは大事です。「隣人が享受する恵みと善の前に悲しむこと」。言いかえると、隣人の恵みを見て、自分に対する損であると捉えることをいう罪です。
ですから、それに似ているものの違っているほかの感情と嫉妬の罪とを混同しないように気を付けましょう。例えば善い意味での競争心は嫉妬ではありません。また、例えば、隣人は自分が欲しがっている物を持つことを見て、ちょっとガッカリして悲しむことはまだ嫉妬ではありません。隣人はその物を持つこと自体を認めていたらまだ嫉妬とは言えません。嫉妬の罪を特徴づける根本な様子は「隣人の持つ善・恵を見て悲しみ、自分に対する損であることを思い込む」ことにあります。
例えば、隣人が持つ何かを見て正当に悲しむこともあり得ます。例えば、それに値しないのに、誰かがある物を持つときはその典型です。例えば、不正や窃盗、あるいは時には殺人などを常に犯しているのに、何も罰を受けないどころか、時には名誉が与えられたりする悪人もいるのですね。このように正義が全うされない場合が少なくないのが現実です。
で、例えば、それに値しないのに犯罪者が無断に解放されるとき、その解放を見て悲しんでも罪にならないのです。全くそうではありません。このような場合、その犯罪者にとっての「善」である「解放」というのは、実際に他の人々に対する損であるから、それを悲しむのは正当であります。時には、このような場合、社会に及ばしての損になることもあります。
嫉妬の罪は大体の場合、かなり重いのです。なぜでしょうか?嫉妬とは必ず「隣人に対する愛徳」に反対する罪だからです。隣人にはある恵み、喜び、善を持っていることは喜ばしいことであるはずなのに、めでたいことなのに、それを見て悲しむという罪。愛徳の欠如なのです。嫉妬するとき、隣人に対する愛徳の欠如である上に、嫉妬の対象の善に対する愛の欠如でもあるのです。というのも、本来ならば、誰かを愛することは、このだれかの善を望むことにあります。ですから、嫉妬の罪の場合のように、隣人の善を求めないことは隣人を愛していないということを意味します。隣人に対する愛徳に反対する嫉妬なのです。
嫉妬の挙句に、隣人に対する嫌悪につながります。そして、嫌悪のあまり、殺人に至ることもあります。また、嫉妬のあまりに、隣人の不幸に対する喜びにつながるのです。言いかえると、隣人が被る損と悪を喜ぶ罪です。
嫉妬の罪自体は「隣人が享受する恵みと善の前に悲しむこと」であるとして、その嫉妬の結果は、「隣人の不幸に対して喜ぶ」ということになります。例えば、隣人を見て、その隣人が困った場面、虐められる場面、罵倒される場面を喜ぶような時です。嫉妬の罪の結果です。もう一つの結果は隣人の成功を見て悲嘆するということもあります。
また、嫉妬のもう一つの結果があります。具体的な結果でいうと、かなり深刻な結果です。隣人について小言を言い、誹謗・罵倒したりすることです。噂を流すことです。このような結果は、かなり大変です。邪悪であるだけに、いつの間にか広まってこれらによる損害は大きいです。
それから、嫉妬のせいで不和の種となることも多いです。
嫉妬に対して抵抗するためにはどうすればよいでしょうか?隣人の善をみて喜ぶことに努めましょう。隣人に恵みが与えられた時、善がある時、素直に喜ぶように努力することです。また、この世の物事や名誉などの虚しさ・儚さをよく黙想することも大事です。そして、隣人の善を素直に喜ぶことは大事です。そして、天主こそあらゆる物事のお主であることを忘れないことは大事です。
~~
次に、憤怒という罪源があります。憤怒というのは、「困難・障害に対する霊魂の乱れた反応の結果、復讐することに及ぶ」というのがその定義です。怒りというのは自分が気に入らない物事に対してその障害を強く退けるようにする感情です。そういえば、一般的にいっても、「怒りっぽい」、「苛立ちやすい」と「暴力」とを普段、結びついています。そして、憤怒のあまりに、復讐に及ぶという。憤怒というのは乱れた動きです。理性に従わない、秩序に沿わない怒りとして罪となります。当然ながら、正当な怒りもあります。正しい怒りはもちろんあるのです。そういえば、聖書に書いてある通りです。「怒っても罪を犯すな」 。
また、私たちの主、イエズス・キリストも怒ったことがありました。天主に対する本物の侮辱を晴らした時での場面です。神殿が冒涜されることを見て、私たちの主が怒ったのです。そして、神殿から商人らを追い出したのです。最もな怒りの発動とその正当な復讐の好例です。
憤怒の罪になるのはいつでしょうか?例えば、相手には何も咎められることはないのに、それでも復讐してしまう時です。あるいは、相手は罰せられるべきだとはいえ、私が復讐する権威を持っていないのに、それでも復讐するときです。あるいは、相手に咎めがあって、私も正当に復讐できるものの、乱れた形で、大体、犯された侮辱に比べて、過剰に復讐してしまう時です。あるいは、不正を糺して正義を全うするために復讐を行うのではなく、自分の気持ちを済ませるため、満足させるために悪意を持って復讐するときです。これらは憤怒の罪となります。
時には、そもそも怒ってもよい状況ではあるものの、過剰に度を越えて憤怒するのも罪なのです。憤怒の罪は多くの結果につながります。憤慨があります。また、心の誇張もあります。心の誇張のせいで、なんでもかんでも、「速やかに復讐に及ぼしがち」という弊害が生まれます。言うまでもないのですが、憤怒の罪のせいで、喧嘩、争い、罵倒などは生じます。そのほかに、慌ただしさと極端な自負も生じます。これも憤怒の大変な産物です。というのも、理性に反する動きであるから、罪となります。例えば、極端な自負のせいで、理性はもう何も接することはできなくなって、節度がどこにあるのか見えなくなってしまうような。
憤怒の罪に抵抗するのはそれほど簡単ではありませんが、一番良い対策とは、イエズス・キリストの極まりない柔和を黙想するがよいです。不思議なことにも、私たちの主、イエズス・キリストはご自分自身を指してはっきりと仰せになった徳は二つしかありません。「私は心の柔和なへりくだった者であるからくびきをとって私に習え」
このお言葉で、イエズス・キリストは二つの重い罪源に対する対策を提供してくださいます。憤怒と傲慢に対して、柔和と慎みです。だから、憤怒と傲慢に対して柔和と慎みの心を養うように努力するのがよいです。耐えて、時には沈黙を保つことにして、寛大さと親切さを養うのがよいです。憤怒に抵抗するのは確かに容易ではないのです。
~~
次に、最後の罪源となるのですが、怠慢さであります。怠慢さとは「休みにおいての乱れ」だということです。言いかえると、休みすぎるせいで、私たちが果たすべき物事を怠ったりする時です。怠慢の罪というのは、ことに宗教の義務にたいして適用できます。要は、乱れた休みのせいで、天主に対する義務を怠るようになってしまうという時です。
聖書には次のことが書いてあります。「天の国」という表現は宗教の義務に関するお言葉であることを示します。「天の国は暴力で攻められ、暴力の者がそれを奪う。」 イエズス・キリストは仰せになります。このお言葉は怠慢に対するお言葉です。なまくらな者は自分に対して何の暴力はできないわけです。つまり、やるべきことを踏ん張っていやでもやるように頑張るような「自分自身に対する暴力」という意味です。
このような怠慢の罪のせいで、天の多くの善を無視したり、宗教の義務を破ったりするとき、大罪となります。なまくらな者は例えば、主日にミサに行かないとか、あとにするからあまり祈らないとか、その場合、大罪となります。怠慢の罪は愛徳を深く傷つけるものです。
怠慢の罪に抵抗するために、一番早いのは、私たちの主、イエズス・キリストが我々のためになさったことを黙想するのがよいです。苦難を受けて十字架に上ってまで贖ってくださったイエズス・キリストの行動を黙想するのがよいです。それを考えると、怠慢になるのは、どれほど贖罪の玄義に対して無礼であるかを自覚できるでしょう。つまり、私たちの主はそれほど私たちのためになさったので、天主は私たちに対して命じる物事は結局、天主がご自分の御子イエズス・キリストに命じたことに比べたら、本当にちっぽけのことだけです。
要するに、怠慢さのせいで、本来果たすべき義務を無視することになります。特に、私たちの救済のためにすべてをなさったイエズス・キリストへの感謝を怠ることになります。また、怠慢さのせいで、無気力の状態が生じます。その結果も大変です。ひどいものです。このような無気力のせいで、何の意志も徹底することはできなくなり、何の行動も無理にしてしまい、時には麻痺状態、愚鈍につながります。
また、怠慢さから、卑怯になることも多いです。卑怯であることは、難しい働きに対して恐れてやらない、避けるということです。勇気の欠如です。なまくらな者は勇気を欠如しています。時には、「私はカトリックだ」という勇気でさえなくなるのです。怠慢さのせいで、祈りにおいて取り留めなくなったりします。または、恨みを生みます。
そして、一番大変なのは、怠慢さのあまりに、絶望になることもあります。これはひどいものです。「何もやることはできない、やりたいけどどうしてもやりだすことはできない」とみているなまくらな者はそれをみて絶望に陥るという弊害。まさに悪循環になっていきます。やらないから、絶望となって、余計にやらなくなって、絶望は深まっていくような悪循環です。
怠慢さに抵抗するためには、「自分に対して暴力を振るう」のがよいです。一番早いのは、私たちの主は受難の時、私たち一人ひとりのためにどれほど苦しみと暴力を受けたかを黙想するのがよいです。そして、イエズス・キリストが受難の際に受けた暴力に比べたら、私が自分自身に対して課する暴力とはちっぽけだと認識するのがよいです。
以上、それぞれの罪源を手短くご紹介しました。罪源とはあらゆる罪の種になるのです。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理 第九十三講 罪源その二
今回、罪源の紹介を続けたいと思っております。前回は、「自分に対する乱れた愛着」である傲慢を紹介した後に、「この世にある物事、移り変わる儚い物質的な財産などに対する乱れた愛着」である強欲を紹介しました。
これから、残りの罪源をご紹介したいと思います。邪淫に関しては前に申し上げたように一旦保留しておきます。天主の第六と第九の誡めの際に譲ることにします。
さて、貪食について説明しましょう。他の罪源と同じように、乱れた愛着です。というのも、罪というもの自体は、偽りの善への愛着であるということを思い出しましょう。貪食は「飲食に対する乱れた愛着」なのです。また、傲慢についても申し上げた通りです。「自分に対する乱れた愛着」である傲慢だからといって、「自分を愛すべきだ」ということに関して変わりはありません。ただ、相応しく適切に自分を愛すべきだということです。
同じように、「この世にある物事に対する乱れた愛着」である強欲の場合も、天主によく奉仕するために役立つ「この世の物事に対する」相応しい愛もあるのです。同じように、「飲食に対する乱れた愛着」である貪食の場合も、本来、「飲食に対する相応しい愛」も当然、あるわけです。
良き天主は身体を持った人間として私たちを創造してくださいました。そして、飲食する必要がある体を持った人間として天主は私たちを創造してくださいました。ですから、天主は私たちにとって必要不可欠な飲食を嫌うようにしむけるわけにはいかないということです。
天主ご自身はこの飲食の必要性を私たちに付与したし、飲食すると、ある程度の安楽を感じうる能力をも与えてくださいました。ですから、貪食とは飲食に対する「乱れた」愛着なのです。
また、飲食からくる快感に対する乱れた愛着です。言いかえると、飲食の本来の目的に沿った「愛」でなくなる時に、乱れた愛着というのです。飲食の本来の目的は食欲と渇きを癒すためにあるのです。で、貪食の場合、食欲と渇きの癒しだけでは足りなくて、飲食する快楽を求めるためにだけ飲食するという乱れです。または、飲食による快感のみを求める時の乱れです。
繰り返しますが、食べ物において味を嗜むこと自体、料理をうまくすること自体は善いことです。われわれは五感が備わっていますし、天主は人間には五感を持った存在として生活するように我々に命じていっらしゃるのです。だから、相応しい程度に、五感を満たすのは悪いことではありません。ただし、身体は霊魂によく仕えるようにするために五感を満たす程度は認められています。ここはポイントです。
徳とはそもそも「秩序」なのです。一方、罪とは「乱れ」なのです。貪食の場合、五感は過剰に満たされたあまりの乱れのせいで、身体自体はもう霊魂の奉仕をやらなくなり、身体は自分自身のみに奉仕するという羽目に陥るのです。従って、快楽するためにのみ、おなかを壊してまで飲食するのは罪です。そして、理に適う秩序を乱すほどの貪食になる時、大罪となります。
例えば、ある人は過剰に飲酒するとしましょう。そのせいで、酔っぱらって理性を使えなくなったら、自分自身に対する罪になります。この場合、明らかに、身体は理性に仕えることもできなくなり、霊魂に仕えることにできなくなり、大罪となります。泥酔とは大罪です。貪食のせいで、罪を犯すことはよくあります。過剰に飲食するとき、あるいは貪欲に飲食するとき、快楽のみを求める時、過剰に食事の豪華を求め、料理の質を過剰に求めるときも罪になります。もちろん、「過剰に」という時です。これらは大体、小罪になるでしょうが、とにかく秩序を乱す行為になるから罪となります。言いかえると、本来、人間の本性上求められている傾向に反する行為ということになります。つまり、本来、我々の本性が要求する使命を果たせなくする行為なのです。時には、理性の作用ですらなくさせる貪食なのです。
貪食が大罪になるもう一つの場合があります。教会が命じる小斎大斎を守らない時です。現代では、残念ながらも、小斎大斎が義務付けられている日は少なくなって灰の水曜日と聖金曜日のみです。ちょっと昔まで、この二日以外にも、通年の多くの機会に、ほかの小斎大斎はあったし、あるいは小斎だけの日も多かったです。小斎というのは、「肉を食べない日」ということです。基本的に、毎週金曜日は小斎をやるといいです。
なぜ、教会はそういったような戒律を立てているでしょうか?それは、我々においての飲食に対する本能を節制するためです。というのも、原罪以降、飲食に対する本能は乱れてしまったので、何もしないで霊魂は身体を簡単にいつも従わせることができないのです。霊魂はいつも物質的な物事に対して超然たる態度をとれるように、またいつも、身体は速やかに、自由に霊魂をよく奉仕できるように規定されてあった戒律なのです。
要するに、義務付けられている日に、小斎大斎を破る時、大罪となります。
貪食の一つの典型的な結果はもちろん泥酔と飲食癖です。そして、飲食癖の一般の結果は精神上の愚鈍化なのです。ほとんどの場合、過剰に飲食すると、愚かになるような、愚鈍化してしまう結果を伴います。聖書に書いている通りです。シラの書には「泥酔は愚か者の怒りを掻き立て、身を滅ぼさせ、力を衰えさせ、人からたたかれるもとをつくる。」 とあります。
愚鈍化の他には、残念ながら、ほとんどの場合、貪食すると、宗教に対する義務の怠慢に陥ることが多いです。そういえば、修道士の生活と飲食の節制との関係性は高い現象は確認されています。つまり、修道者たちは、世俗社会に生きている一般信徒の小斎大斎よりも、飲食に対する厳しい戒律を実践しているのです。大斎においても、修道士ならより厳格であること、そして、小斎においても、時には常時小斎の戒律の修道会もあります。例えば、ドミニコ修道会では、常時小斎となっています。このような特徴はなぜあるでしょうか?大斎小斎などの規定のおかげで、霊魂は天主によりよく仕えるための非常な助けとなる節制につながるからです。
貪食のもう一つの結果は、邪淫と怠惰によくつながっているのです。聖書にも書いてあります。エゼキエル書にあります。「ソドムの罪はこうだった」、周知のように、ソドムの罪は邪淫を中心にしています。「妹のソドムの罪はこうだった。おごりをきわめ、ぜいたくと安逸をむさぼっていた彼女とその娘たちは、貧しい者と不幸な者を助けようとしなかった。」エゼキエル書、16、49に書かれています。
後は、貪食のせいで争いと喧嘩の種になります。そして、健康をも破壊します。それが過剰な時には、生命を危うくすることもあります。
貪食に抵抗するためにどうすればよいでしょうか。第一に、祈ることは大事です。特に、食前と食後の祈りをすると、我々のすべての行為を天主に捧げるために善い助けとなります。そして、単純に、いつもいつも節度を保つことです。
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次に、嫉妬という罪源があります。妬み、羨ましがることなどです。嫉妬の定義をよく抑えることは大切です。注意しましょう。嫉妬とは「隣人が享受する恵みと善の前に悲しむこと」であるということです。言葉遣いは大事です。「隣人が享受する恵みと善の前に悲しむこと」。言いかえると、隣人の恵みを見て、自分に対する損であると捉えることをいう罪です。
ですから、それに似ているものの違っているほかの感情と嫉妬の罪とを混同しないように気を付けましょう。例えば善い意味での競争心は嫉妬ではありません。また、例えば、隣人は自分が欲しがっている物を持つことを見て、ちょっとガッカリして悲しむことはまだ嫉妬ではありません。隣人はその物を持つこと自体を認めていたらまだ嫉妬とは言えません。嫉妬の罪を特徴づける根本な様子は「隣人の持つ善・恵を見て悲しみ、自分に対する損であることを思い込む」ことにあります。
例えば、隣人が持つ何かを見て正当に悲しむこともあり得ます。例えば、それに値しないのに、誰かがある物を持つときはその典型です。例えば、不正や窃盗、あるいは時には殺人などを常に犯しているのに、何も罰を受けないどころか、時には名誉が与えられたりする悪人もいるのですね。このように正義が全うされない場合が少なくないのが現実です。
で、例えば、それに値しないのに犯罪者が無断に解放されるとき、その解放を見て悲しんでも罪にならないのです。全くそうではありません。このような場合、その犯罪者にとっての「善」である「解放」というのは、実際に他の人々に対する損であるから、それを悲しむのは正当であります。時には、このような場合、社会に及ばしての損になることもあります。
嫉妬の罪は大体の場合、かなり重いのです。なぜでしょうか?嫉妬とは必ず「隣人に対する愛徳」に反対する罪だからです。隣人にはある恵み、喜び、善を持っていることは喜ばしいことであるはずなのに、めでたいことなのに、それを見て悲しむという罪。愛徳の欠如なのです。嫉妬するとき、隣人に対する愛徳の欠如である上に、嫉妬の対象の善に対する愛の欠如でもあるのです。というのも、本来ならば、誰かを愛することは、このだれかの善を望むことにあります。ですから、嫉妬の罪の場合のように、隣人の善を求めないことは隣人を愛していないということを意味します。隣人に対する愛徳に反対する嫉妬なのです。
嫉妬の挙句に、隣人に対する嫌悪につながります。そして、嫌悪のあまり、殺人に至ることもあります。また、嫉妬のあまりに、隣人の不幸に対する喜びにつながるのです。言いかえると、隣人が被る損と悪を喜ぶ罪です。
嫉妬の罪自体は「隣人が享受する恵みと善の前に悲しむこと」であるとして、その嫉妬の結果は、「隣人の不幸に対して喜ぶ」ということになります。例えば、隣人を見て、その隣人が困った場面、虐められる場面、罵倒される場面を喜ぶような時です。嫉妬の罪の結果です。もう一つの結果は隣人の成功を見て悲嘆するということもあります。
また、嫉妬のもう一つの結果があります。具体的な結果でいうと、かなり深刻な結果です。隣人について小言を言い、誹謗・罵倒したりすることです。噂を流すことです。このような結果は、かなり大変です。邪悪であるだけに、いつの間にか広まってこれらによる損害は大きいです。
それから、嫉妬のせいで不和の種となることも多いです。
嫉妬に対して抵抗するためにはどうすればよいでしょうか?隣人の善をみて喜ぶことに努めましょう。隣人に恵みが与えられた時、善がある時、素直に喜ぶように努力することです。また、この世の物事や名誉などの虚しさ・儚さをよく黙想することも大事です。そして、隣人の善を素直に喜ぶことは大事です。そして、天主こそあらゆる物事のお主であることを忘れないことは大事です。
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次に、憤怒という罪源があります。憤怒というのは、「困難・障害に対する霊魂の乱れた反応の結果、復讐することに及ぶ」というのがその定義です。怒りというのは自分が気に入らない物事に対してその障害を強く退けるようにする感情です。そういえば、一般的にいっても、「怒りっぽい」、「苛立ちやすい」と「暴力」とを普段、結びついています。そして、憤怒のあまりに、復讐に及ぶという。憤怒というのは乱れた動きです。理性に従わない、秩序に沿わない怒りとして罪となります。当然ながら、正当な怒りもあります。正しい怒りはもちろんあるのです。そういえば、聖書に書いてある通りです。「怒っても罪を犯すな」 。
また、私たちの主、イエズス・キリストも怒ったことがありました。天主に対する本物の侮辱を晴らした時での場面です。神殿が冒涜されることを見て、私たちの主が怒ったのです。そして、神殿から商人らを追い出したのです。最もな怒りの発動とその正当な復讐の好例です。
憤怒の罪になるのはいつでしょうか?例えば、相手には何も咎められることはないのに、それでも復讐してしまう時です。あるいは、相手は罰せられるべきだとはいえ、私が復讐する権威を持っていないのに、それでも復讐するときです。あるいは、相手に咎めがあって、私も正当に復讐できるものの、乱れた形で、大体、犯された侮辱に比べて、過剰に復讐してしまう時です。あるいは、不正を糺して正義を全うするために復讐を行うのではなく、自分の気持ちを済ませるため、満足させるために悪意を持って復讐するときです。これらは憤怒の罪となります。
時には、そもそも怒ってもよい状況ではあるものの、過剰に度を越えて憤怒するのも罪なのです。憤怒の罪は多くの結果につながります。憤慨があります。また、心の誇張もあります。心の誇張のせいで、なんでもかんでも、「速やかに復讐に及ぼしがち」という弊害が生まれます。言うまでもないのですが、憤怒の罪のせいで、喧嘩、争い、罵倒などは生じます。そのほかに、慌ただしさと極端な自負も生じます。これも憤怒の大変な産物です。というのも、理性に反する動きであるから、罪となります。例えば、極端な自負のせいで、理性はもう何も接することはできなくなって、節度がどこにあるのか見えなくなってしまうような。
憤怒の罪に抵抗するのはそれほど簡単ではありませんが、一番良い対策とは、イエズス・キリストの極まりない柔和を黙想するがよいです。不思議なことにも、私たちの主、イエズス・キリストはご自分自身を指してはっきりと仰せになった徳は二つしかありません。「私は心の柔和なへりくだった者であるからくびきをとって私に習え」
このお言葉で、イエズス・キリストは二つの重い罪源に対する対策を提供してくださいます。憤怒と傲慢に対して、柔和と慎みです。だから、憤怒と傲慢に対して柔和と慎みの心を養うように努力するのがよいです。耐えて、時には沈黙を保つことにして、寛大さと親切さを養うのがよいです。憤怒に抵抗するのは確かに容易ではないのです。
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次に、最後の罪源となるのですが、怠慢さであります。怠慢さとは「休みにおいての乱れ」だということです。言いかえると、休みすぎるせいで、私たちが果たすべき物事を怠ったりする時です。怠慢の罪というのは、ことに宗教の義務にたいして適用できます。要は、乱れた休みのせいで、天主に対する義務を怠るようになってしまうという時です。
聖書には次のことが書いてあります。「天の国」という表現は宗教の義務に関するお言葉であることを示します。「天の国は暴力で攻められ、暴力の者がそれを奪う。」 イエズス・キリストは仰せになります。このお言葉は怠慢に対するお言葉です。なまくらな者は自分に対して何の暴力はできないわけです。つまり、やるべきことを踏ん張っていやでもやるように頑張るような「自分自身に対する暴力」という意味です。
このような怠慢の罪のせいで、天の多くの善を無視したり、宗教の義務を破ったりするとき、大罪となります。なまくらな者は例えば、主日にミサに行かないとか、あとにするからあまり祈らないとか、その場合、大罪となります。怠慢の罪は愛徳を深く傷つけるものです。
怠慢の罪に抵抗するために、一番早いのは、私たちの主、イエズス・キリストが我々のためになさったことを黙想するのがよいです。苦難を受けて十字架に上ってまで贖ってくださったイエズス・キリストの行動を黙想するのがよいです。それを考えると、怠慢になるのは、どれほど贖罪の玄義に対して無礼であるかを自覚できるでしょう。つまり、私たちの主はそれほど私たちのためになさったので、天主は私たちに対して命じる物事は結局、天主がご自分の御子イエズス・キリストに命じたことに比べたら、本当にちっぽけのことだけです。
要するに、怠慢さのせいで、本来果たすべき義務を無視することになります。特に、私たちの救済のためにすべてをなさったイエズス・キリストへの感謝を怠ることになります。また、怠慢さのせいで、無気力の状態が生じます。その結果も大変です。ひどいものです。このような無気力のせいで、何の意志も徹底することはできなくなり、何の行動も無理にしてしまい、時には麻痺状態、愚鈍につながります。
また、怠慢さから、卑怯になることも多いです。卑怯であることは、難しい働きに対して恐れてやらない、避けるということです。勇気の欠如です。なまくらな者は勇気を欠如しています。時には、「私はカトリックだ」という勇気でさえなくなるのです。怠慢さのせいで、祈りにおいて取り留めなくなったりします。または、恨みを生みます。
そして、一番大変なのは、怠慢さのあまりに、絶望になることもあります。これはひどいものです。「何もやることはできない、やりたいけどどうしてもやりだすことはできない」とみているなまくらな者はそれをみて絶望に陥るという弊害。まさに悪循環になっていきます。やらないから、絶望となって、余計にやらなくなって、絶望は深まっていくような悪循環です。
怠慢さに抵抗するためには、「自分に対して暴力を振るう」のがよいです。一番早いのは、私たちの主は受難の時、私たち一人ひとりのためにどれほど苦しみと暴力を受けたかを黙想するのがよいです。そして、イエズス・キリストが受難の際に受けた暴力に比べたら、私が自分自身に対して課する暴力とはちっぽけだと認識するのがよいです。
以上、それぞれの罪源を手短くご紹介しました。罪源とはあらゆる罪の種になるのです。