ファチマの聖母の会・プロライフ

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王の宴を拒んでしまった!誰もが天主との友情を結ぶことができるという、天主からの寛大な提案を!

2022年11月06日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、オルザンヌ神父様(G.Orsanne)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

王の宴を拒んでしまった!
オルザンヌ神父様(G.Orsanne)のお説教  
2022年10月16日 
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて



聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン 
親愛なる兄弟の皆さま、

「身体上の喜びと霊魂上の喜びの間には、普通、大きな違いがあります。身体上の喜びに対しては、我々の中には燃えるかのような欲望が生じます。しかしながら、この欲望を満たしてしまうと、今度は嫌な思いにかられるのです。一方、霊魂上の喜びに対しては、取得していない間は、これらを嫌う傾向があります。

しかし、霊魂上の喜びを得た時、飽きることがなくて、より多くの霊魂上の喜びを得ようとする希望に燃えて、霊的な欲望を満たせば満たすほど、喜びが限りなく増えていきます。残念なことに、楽園で人祖が原罪を犯したことによって、霊魂上の喜びを失い、現代に至ります。このせいで、この世にいる我々は多くのことに対して嫌気がさすようになったため、何を希望すべきかが分からなくなっています。」

親愛なる兄弟の皆さま、教皇聖グレゴリウスが本日(聖霊降臨後第19主日)のたとえ話、お招きを拒む客さんたちの場面の説明を以上の言葉からはじめます。

我らの主は我々が何を希望すべきかを思い起こさせるためにこの譬え話を話してくださるのです。
よき天主は披露宴を設けます。御子の婚姻のための宴です。
よき天主は天国について語っておられるとき、喜ばしいことを通して語っておられます。そして国王が設ける宴ほど喜ばしいことなどあるでしょうか。

このように、聖父なる天主は御独り子なるイエズスに人間の本性との婚姻を結ばせ給うたのです。御托身の玄義です。
御托身の玄義によって、真の人、真の天主となる御子に天主が聖なる教会を嫁がせることになさいました。公教会とは信徒からなる社会です。
キリストと教会との婚姻、絆はエフェゾの人への手紙の中に美しく紹介されています。聖パウロは、教会とキリストの婚姻はキリスト教の結婚の見本となるといいます。

キリストは教会と結婚しました。教会にとってのキリストは、妻にとっての夫です。愛徳の関係となります。キリストは自分の教会のためにすべてを尽くして犠牲になりました。そして教会がキリストのみを愛い尽くしました。
これに従って、男女の結婚もそうなっています。また離婚がないこともそこから来ます。キリストと教会との絆は排他的なので、離婚はあり得ないからです。

これに加えてよき天主はこの婚姻の披露宴へ皆が招かれるようにお望みになりました。
単なる披露宴だけではなく、だれでもが天主との友情を結ぶことができるための天主からの寛大な提案です。だれでもです。貧しくても金持ちでも貴族でも奴隷でもだれでもです。

そしてたとえ話の王は我々のために何を差し出しているでしょうか。三つあります。
第一に教義です。第二に律法です。第三に特別な手段です。

教義とは福音にある信条です。信仰上の教義です。天主が我々に教え給わなかったのなら、我々の力では知り得なかった真理です。天主がご自分自身についてすこし天啓し給うたことにより、天主の大御心をすこし示し給うたのです。三位一体の玄義や愛徳などがあります。この天啓の多くは福音において収まっています。

それから、律法とは天国即ち至福に行くための道です。我々の幸福のために律法を与え給うたのです。なぜなら、法とは道案内であるからです。「幸福を得るためにその道をとおること」という天への道なる天主の法です。

最後にこの披露宴の際、良き天主は七つの秘跡を我々に与え給うたのです。我らの主によって制定された不思議な手段です。秘蹟によって、我々において恩寵即ち天主の生命を与えられるか、恩寵は増やされることになります。言いかえると、恩寵によって我々が天主のご生命を汲むことが可能となり、天主の命を共有することが可能となります。

我々は天主を信じ、天主を愛する上に、天主の生命を共有できて、天主の命で我々も生きていくことが可能となります。

親愛なる兄弟の皆さま、以上の通り、天主は我々のために愛のご計画を敷いておられます。これは天主が我々に勧め給うご計画です。我々の目の前に天主がこのような招きを送り給い、我々が永遠の幸福を得られるように、天主ご自身の命を共有するように、天主との友人になるように我々を招き給うのです。

ほら、このような招きを拒んだ人は狂気の沙汰でしょう。永遠なる天主の愛よりも、超自然の至福よりも、別の何かを選ぶ狂人などあり得るでしょうか。あり得ないはずです。しかしながら、このような狂人は実際に存在します。残念ながら、このような人がいることが本日の福音において示されています。

天国への道、永遠の命へ招きという素晴らしいご計画はひとつだけです。つまり代案は存在しません。この意味で、天主のお招きを拒んだら別の招きはありません。この意味で、天主からの招きを引き受けることは義務化されています。拒んだら他に何もないから。そして天主からのお招きを引き受けるだけではなく、喜んで引き受けるべきです。

ほら、天主から「私が友人になろう」という招きですよ。天使ですらどの被創造物に至っても、天主のみ前に、だれも天主に「なかよしになってくれないでしょうか」と頼むわけがなかったです。考えられなかったことです。臣民が陛下の友人になるなんてありえません。創造主の至福を共有して、創造主の命を共有するようなことができるなんて、だれも想像しようがなかったのです。しかしながら、天主のほうから、友人になるという素晴らしい招きを成されました。ですからその招きに応じましょう。永遠の命への道、恩寵の内での生涯という招きに応じましょう。

しかしながら、福音をみると、多くのお客さんが、いや招かれた全員が王の招きを、全員拒んでしまいます。これを見て驚かれるでしょう。「この至福は要らない。このような幸福よりもつまらない別のことが欲しい。地上、現世の方がよい。」というようなことを断言する羽目になります。
さて、聖ルカはそれについてより詳しく解説してくれます。「みな口をそろえて断ってきた」(ルカ、14,18)

これから招かれた人々は言い訳して、口実を見つけようとします。
「はじめの人は、〈土地を買ったので見にいかねばなりません。どうぞお許しください〉といい、他の人は、〈私は五対の牛を買ったのでそれを試しに行きます。どうぞ許してください〉と言い、また他の人は、〈妻をもらったので行けません〉と言った。」(ルカ、14,18-20)
最後の人は「ごめんなさい」とも言いません。

そして聖ルカが続けます。
「しもべが帰ってこの由を主人に告げると、主人は怒り、〈すぐ町の大路・小路に行って、貧乏人、不具者、盲人、足なえなどをここに連れてきなさい〉としもべに言いつけた。」(ルカ、14,21)つまり、みなを招き給います。

さて招きを拒むための言い訳、口実は三つあります。三つとも欲望の一種です。聖ヨハネの手紙で記されている「肉の欲、目の欲、生活のおごり」という現世欲です。

はじめての人は〈土地を買った〉と言いますね。これはおごりです。傲慢です。彼が何かを買ってそれをおごりに思い、見せつける傲慢です。
そして、つづいて、〈見にいかねばなりません。〉といいますが、なぜすぐ、行く必要があるでしょうか。すぐ行かなくても、土地は消えるわけではないはずです。本来ならば婚姻の披露宴に参加する余裕は十分あるはずです。しかしながら、地上の財産と善に愛着するあまりに、より高次な善への愛が欠如してしまいます。これは目の欲です。好奇心です。現世の仕事や問題などに対する過剰な不安です。このせいで初めての人が彼の目的地から離れて、天主が招き給うたすなわち目的地を指定し給うた披露宴に出席しない羽目になりました。

二人目の人が〈私は五対の牛を買ったのでそれを試しに行きます。〉といいます。豪華な披露宴よりも、天主よりも、牛を優先させる人なんているでしょうか。います。その人がそうです。〈それを試しに行きます。〉
かれもはじめての人のように、すぐ試しに行かなくてもよいはずです。それで牛が消えるわけでもないし、披露宴に行く余裕が十分にあるはずです。しかしながら、彼もその心が現世を愛着するあまり、現世のものを優先する羽目になりました。より多くの財産をもちたい。より多くのことをみたい。より多くの場所に行きたい。より多くの趣味をやりたい。より多くの勉強をしたい。天へ行けない人です。

そして最後の人が〈妻をもらったので行けません〉といいますね。結婚したからといって、言い訳になりうるのですか。ならないということです。結婚はよいですが、目的は天主のためにあります。目的から離れたら、もうダメとなります。
ここは肉の欲です。肉の欲が抑制されないで、人間愛が乱れてしまったら、理性に従わない人間愛なら、天主への愛に従属しなければ、天主からの招きを拒む羽目になりました。そしてこの三人目の人は「ゆるしてください」ですらいいません。

そして、福音者マテオにはたとえ話の続きがあります。「またほかの人は下男を捕えて辱め、しかも殺してしまった」(マテオ、22,7)
これはキリストの御死とキリストの使命への迫害を予言する部分です。

それでもよき天主は最初に予定し給うた計画を変えません。
よき天主は披露宴を最初から計画しておられて、つまり我々一人一人のために天国という目的地を用意しておられるので、これほどの拒否があっても、良き天主は我々を愛するがゆえにご計画を実施し給います。披露宴を開き給います。

このために、「出会う人をよいも悪いもすべてを集めた」ということで、宴席は一杯となりました。ただし、礼服を着るようにが出席の条件でした。この礼服は他でもない愛徳です。

このように、よく理解しましょう。第一に天主を愛するのなら、我々の霊魂において秩序が回復されて、すべてあるべき場にあるのなら、地上の物事を正当に愛してもいいです。天主への愛を増やすための秩序正しく整理されている被創造物への愛なら、問題ありません。
そして礼服を着ない人は外へ追い出されてしまいます。彼はそもそも披露宴への招きを拒んだ人々と同じ扱いされて、外へ追い出されます。

以上のように、素直で奥深くて美しいこのたとえ話を黙想しましょう。我々にとって、反省の機会を与えてくれます。自分の心の中に、天主への愛を妨げる乱れた被創造物への愛着はあるのか。それを検討して反省して改めましょう。

生活のおごりでしょうか。名誉、財産、出世への乱れた愛着がないでしょうか。肉の欲がないでしょうか。快楽を優先させる悪い傾向がないでしょうか。これらのせいで、天主を愛するための障害となっています。

考えてみると、このようなつまらないことで、天主との出会いを見過ごすことは非常にばかなことです。愚かです。このようなつまらないもので、聖パウロがいう「丸損」のせいで、我々の人生をだめにさせることは本当に愚かです。天主への愛と被創造物への愛は比較できないほどに、異質であるのは明らかであるのに。

最後に、本日のミサの集祷文を読み上げたいと思います。天主の愛への障害が排除されるように。
「全能慈悲の天主よ、ご慈悲をもって、我らから妨げるものを取り除き給え。そして身体と霊魂とを解放し、自由な心で御身に奉仕させ給え。」

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン


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