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私たちの主の聖なる道(御教えの完全な実践・聖徳の修行) 【公教要理】第二十八講

2019年03月04日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第二十八講  私たちの主の聖なる道(御教えの完全な実践・聖徳の修行)


【模範となる聖徳の実践による御教えの確認と確立】
私たちの主は、ユダヤとガリラヤ両地方で、福音を宣教なさいました。ご自分で御教えを実践し、模範を示すことによって、聖徳の実践によって、御教えを確認し、確立させました。主はファリサイ派の人々に関して、「彼らに言う通りにせよ、しかし彼らの行為に習ってはならぬ」と言われました。
私たちの主はその逆です。イエズスなら「私の言っていることを行え」したがって「私の行う通りにせよ」ということになります。要するに、私たちの主は、私たちへの模範になるために、聖なる道を実際に実践されたのです。
主の御教えは天主的であるばかりか、つまり完璧であるばかりか、この御教えを固く支える主の模範的で素晴らしい人生がそれを完成するものでした。その聖なる人生を見るなら、だれも魅了されずにいられません。主の聖なる生き方を見るために、どれほど多くの人々が集まってきたかは周知のことです。詩編の預言曰く「人の子らの中でも最も美しい」 。その通りです。繰り返すと、私たちの主は、聖なる人生を送ってきたお陰で、主の御教えを紹介し、さらに身をもって証明し、実践して模範を示しました。

【聖徳を実行するとは、キリストにならうこと】
言い換えると、キリストの聖なる一生こそが、彼による御教えの崇高さとその美しさを確認するかのように働いています。また、私たちの主イエズス・キリストの御言葉は、彼の送った一生と全く一致していたのです。御教えを仰せになりつつ、あえて言えば、まさにご自分の奥底(おくそこ)を語っておられたのです。
この上ない権威をもって宣教が出来たというのは、主が知識を持っている師だったからなのは勿論、その上に、御教えを実践している師だったからです。この意味で、私たちの主は、聖人中の聖人です。さらに主の御教えは普遍的ですが、主の実践も普遍的なのです。私たちの主、イエズス・キリストの聖なる道において、人間ならだれでも見習うことができます。聖なる実践と言う時のその意味は、聖徳のことです。聖徳の実践こそ、聖人たらんとするところです。諸聖徳の実践こそが、聖なる道なのです。また、聖なる道のことを指して、より単純な、素晴らしい呼び方があります。それは「キリストにならう」という言い方です。私たちの主こそは、普遍的にして、ご自分の人生をもって、諸聖徳の実践をお示しになりました。人々の誰かを問わずに、その身分を問わずに、その時代を問わずに、その住まいの場所を問わずに、すべての人間が、一人たりとも例外なく、人間のだれでも、私たちの主を彼の聖なる人生において、見習うことができます。主の諸聖徳の実践において見習えます。

【イエズス・キリストの示した模範】
さて、私たちの主が示してくださった聖徳といったら、一体どの聖徳でしょうか。
幾つかありますが、先ず、天主に対する諸聖徳があり、それから、隣人に対する諸聖徳があり、また言ってみればご自分に対する諸聖徳もあります。
私たちの主は、道を実践したと同時に御教えを説き、こう言います。「私のしたとおりにするようにと私は模範を示した。」 と。つまり主の御跡に従っていくようにという招きに他なりません。

【天主に対する諸聖徳の模範を示す】
【宗教徳(敬神徳)】
さて、天主に対する諸聖徳の模範は何でしょうか。一番肝心の聖徳は、宗教徳・敬神徳という聖徳です。つまり、天主に結びつける聖徳なのです。私たちの主が仰せになった通りです。「私は私の父のことに従事すべきだ」 と。聖マリアと聖ヨゼフに対してこうおっしゃいましたね。「私が私の父のことに従事すべきだと知らなかったのですか」と。
お祈りするために家族を離れます。神殿に入って、祈るためにおられるのです。また、私たちの主が、親しみの心を込めて、ご自分の聖父(ちち)について語られます。これらこそ主の示した宗教徳です。勿論、前述したように、主には(天主聖父を至福直観で常に見ていたので)信徳もなく(至福直観を既に所有していたので)望徳もなかったのですが、この宗教徳がありました。
【従順の徳】
この宗教徳、また祈りの徳孝愛の徳をもって、父たる天主に対する聖徳と供に、従順の徳を備えていました。天主に対する従順です。御摂理に対する従順です。この聖徳も、私たちにしてみれば、実践しづらいかもしれません。オリーブ山上で、ことにこの聖徳の模範は示されました。「父よ、私の意のままのではなく、あなたのみ旨のままに」と。
こうしてご自分の人間としての意志を、天主の意志に従わせるのです。「あなたのみ旨のままに」。こうして聖パウロ曰く「十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして、従われた」のです。 これは、従順の徳の一番完璧の模範で、これほど完璧の模範は他にあり得ません。「死ぬまで」従ったからです。所謂、時間においての「死」というのではなくて、与えられた死に方を承知するまで、従ったという意味です。これが従順の徳です。
【意向の純粋さ】
続いて、意向の純粋さという聖徳もあります。つまり、主が、ご自分の栄光を求めないで、聖父の御栄光ばかりを求めたからです。主は、ご自分のために行動することは一度もなく、必ず聖父のために行動されます。主は「父のことに従事」するのです。総てのことにおいて、いつも、天主の栄光を讃えるためです。宗教徳を実践する別の要素に他なりません。もちろん私たちの主、イエズス・キリストの人生において、傲慢心などは、微塵もありませんでした。常に純粋な意向をもって、単純にすべてを天主に捧げていました。
以上、私たちの主がその模範を示し給うた 主(おも)な天主に対する諸聖徳をご紹介しました。私たちはこれらを見習うべきです。

【私たちの主の隣人に対する諸聖徳の模範】
続いて、私たちの主は、隣人に対しても、諸聖徳を実践されました。当然、その模範は御教えにおいて多く示されています。例えば、良きサマリア人の喩え話とかがありますように、サマリア人が、道沿いに倒れすべて奪われた状態で見捨てられ痛みと過労で死にかけていたこの人のために立ち止まって世話をするという喩え話です。御教えで、隣人に対する聖徳は立派に説かれています。が、それに留まらずに、主は実践し、身をもってその模範を示してくださいました。
【優しさ(善良さ)】
主は、この上なく優しさを施しました。皆、主に近寄ることが出来ました。確かに、こう仰せになりました。「労苦する人、重荷を負う人は、すべて私のもとに来るがよい。私はあなたたちを休ませよう。」 と。仰せになっただけではなく、実践されたわけです。彼に近寄れた人々、彼に触れることのできた人々は、無数にいます。らい病(ハンセン病)の病人でさえ、彼に近寄ることができたのです。また、出血症を患っている女も、後から近づいてきて、かれの服の房を触ることが出来て治りました。私たちの主は、相手を問わずに、だれに対しても、親切で、優しさを施しました。偉い人に対しても、低い人に対しても。病人に対しても健全な人に対しても。私たちの主は、人々の皆が御自分に近寄ることを無条件に許しました
【憐れみ】
そして、この優しさの徳と共に、私たちの主は、無限の憐れみの徳(慈悲)をも施しました。例えば、エルサレムの婦人たちとイエズスとの場面は典型的です。福音を見たら、その慈悲が示されています。「私のために泣くことはない。」 と主が婦人に言います。「むしろあなたたちと、あなたたちの子らのために泣け。」と

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【共に苦しむという同情】
また、私たちの主は、ナインのやもめの息子の葬式を見かけると、感動して、その憐れみの心を動かします。ナインのやもめが、既に夫を失った上に、一人っ子の息子の葬式をせざるを得ない光景を見ます。息子は死んだのです。私たちの主は、この婦人の苦しみを見て、同情で感動します。「同情で感動した」とは、語源的な意味で捉えるべきです。つまり、「Cum・Pati」で、「一緒に苦しんだ」という意味です。御自分の霊魂において、実際にやもめの苦しみを受けて、同じように苦しんだということです。
【献身】
共同の苦しみとしての慈悲の徳(憐れみの心)と優しさの徳とに合わせて、無限な献身の聖徳をも実践しました。聖パウロの言う通り、「私を愛し、私のためにご自身をわたされた」 ということです。
また、最後の晩餐のときにも、この聖徳の模範が見られます。使徒たちの足を御自分で洗う場面です。全力で主は献身的に一身を捧げます。偉大な献身の心、偉大な犠牲の心といった隣人のための聖徳の模範を示し給いました。


【自己に対する聖徳の模範】
最後に、私たちの主は、自己に対する聖徳の模範をも残しました。もちろん、これらの聖徳も、必ず私たちの周りに、広く輝くわけですけど、他の聖徳より、自分に関係するということです。
【慎ましさ、無邪気さ】
例えば、慎ましさの聖徳、或いは、無邪気さの聖徳とかです。私たちの主に曰く「鳩のように無邪気であれ」 と。また、主が限りなく無邪気でおられることはいつも確認できます。福音では、ファリサイ派の人々が、主を誘うために、主を嵌めるために、よく主に近寄ります。「さて今回こそ、罠を仕掛けて落としてやるぞ」といわんばかりのファリサイ派の人々ですね。しかしながら、私たちの主は、驚くほどの動じない無邪気さを持っておられ、あっさりと罠から免れます。主は罪を経験したことがないので、完璧な無邪気さをもっておられます。天主たる無邪気さですね。当然でしょう。

例えば、姦通の婦人に出逢う時です。この婦人は、姦通の現行犯で捕まったのです。律法は、ハッキリ明記していて石殺しの刑の対象になります。主を嵌めようとする人々はこう思いつきます。主が慈悲の心を持ち、憐れみ深く親切だから、主のところにこの婦人を連れてやろう、と。そこで姦通の婦人が主に紹介されます。どちらかしかありません。主が、自分の御教えを否定して、この憐れみを忘れて、律法に従って石殺しをすすめるか。しかし、この選択では自分を否定することになります。それとも、憐れみを施すことによって、律法を否定するか。この選択では、主の御教えの基礎がすべて崩壊します。律法を廃止するために来たのではないという教えなのですから。ファリサイ派の人々は、「してやった、これで彼はもうそこまでだな」と喜々としています。そこで、姦通の婦人を主のもとに連れてきます。これに対して、主は呆れるほど、お手上げになるほど、無邪気な返事をします。先ず、聖書によれば、座っているままに「イエズスは身をかがめて、地面に指で何か書きはじめた」 とあります。座る姿勢は無邪気な姿勢であると同時に、師の姿勢でもあります。ファリサイ派の人々が、主の反応を待ち望みながら、「もしかしたら、はまったか!」と思います。
その時、イエズスは「身を起こして」、頭を上げます。来ていた皆を眺めながら、こう言いだします。「あなたたちの中で罪のない人がまずこの女に石を投げよ」と。これで、憐れみの心と律法への従順との中庸を守ることが出来ました。御自分の御教えを否定せずに、ご自分の法を否定せずに、済んだわけです。
続いて、聖書には、簡潔ながらも、感嘆すべくこう記されています。「これを聞いた人々は、皆、老人をはじめ一人一人去っていった。」確かに、老人はより多くの罪を負っているでしょうから。
それで、こういった無邪気な、単純な一言で、主は、これらのファリサイ派の人々の口を閉ざしたわけです。実に、こういった無邪気さ、単純さは、主の内面的な聖徳の溢れの状態を表しています。「私に罪があると確認できる人がいるか」と 。

ある種の超越した知性の持主であるみたいなことで捉えるべきではありません。当然ながら、確かに主は超越的な知性の持主ではあります。臨機応変の才が確かにあります。しかしながら、それ以前に、主の生活の聖なる実践がまずあります。私たちの主は、本当の答えを出しました。

また、税金についても、同じです。チェザルに税を納めるべきか、と。主はファリサイ派の相手たちを困らせています。「一銭(デナリオ硬貨)を見せよ」と主が答えますね。一銭が渡されて、主が「これは誰の像、だれの銘か」と。「チェザルのです」と言い返されたら、「チェザルのものはチェザルに、天主のものは天主に返せ」と仰せになります。それに対して、何と反駁できるのでしょうか。何も言い返そうもないのです。こういった場面こそ、私たちの主、イエズス・キリストの無邪気さを良く示しています。

また、主の受難の時に、この無邪気さは素晴らしく輝きます。私たちの主は、起訴される時にも黙ったままです。さすがです。なんと言いだせばよかったでしょうか。言われることは全て嘘なのです。証言者は、一人も纏まった証言がありません。何も言わなくても、なんと不正な裁判になっているか、だれの目にも余ったのです。現場で告発している人々こそ、お互いに矛盾ばかりという状態です。大司祭にイエズス・キリストが答えると、番兵の一人がイエズスを平手打ちします。それに対して、イエズスは立派な無邪気さでこう言います。
「私が悪いことを話したのなら、その悪い点を証明せよ。もし良いことを話したら、なぜ私を打つのか。」 と。間違いなく、この番兵は、頭を下げながら、恥ずかしく去ったことでしょう。私たちの主、イエズス・キリストのこの反応も、内面的で完璧な御教えの実践のお陰で、これができたわけです。聖徳を完璧に、溢れるほど実践しているから、こう出来ました。無邪気さと慎しさとの聖徳。

また、主の無邪気さは、次の場面に特に現れます。「子どものするようにさせておけ。私のところに来るのをとめるな。天の国を受けるのはこのような者たちである」 と。というのも、子どもたちに特にある徳は、やっぱり無邪気さです。このように、私の主は、聖徳に溢れています。



【忍耐の徳】
後は、勿論、主の忍耐さの聖徳もあって、良く知られています。「忍耐」という言葉は、ラテン語の「Pati」から来て、「苦しむ」という意味です。まさに、主は、当時の人々を耐え忍んだわけです。また、今でも、私たちを耐え忍んでいると言っても良いです。でも、死にいたるまでの忍耐さなのです。すごいでしょう。十字架上の死にいたるほどまでに、主がすべてを苦しんだのです。
【現世的な利益からの離脱、清貧】
続いて、現世的な利益からの離脱という徳の模範をも示し給いました。清貧の心も教えられていますね。ご降誕を通じての教えであることはもちろんですけど、主の御人生を通じても清貧の徳の模範が示されています。「人の子には枕するところもない」 と仰せになった通りです。また、こういった単純の心、清貧、無邪気な心を御教えにも説きます。「空の鳥を見よ。撒きも、刈りも、倉に納めもせぬに、天の父はそれを養われる」 と仰せになった通りです。「あなたたちは鳥よりも遥かに優れたものではないか。明日のことを心配するな。」また、私たちの主は、それらの聖徳を実践しました。金も持ち物も何も持たなかったわけです。御教えとその聖なる実践こそ、彼の宝なのです。
【苦行の模範】
それから、苦行の模範をも示し給います。前に見た場面ですが、荒野での断食をもって、偉大な苦行の模範を残しました。主は、苦行を完全に実践しました。峻厳な苦行を実践しました。
以上、どうやって、私たちの主が、ご自分の教えに加えて、ご自分の人生において、素晴らしい完全で聖なる実践を踏まえたかをご紹介しました。
つまり聖なる実践こそが、言ってみれば、御教えを確認し確立するのです。


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