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【すらすら読める】ジャン=ジャック・ルソー・その人生・その思想 その二【第2部】:学問芸術論のなかにある誤謬

2020年01月16日 | 哲学
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による哲学の講話をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

Billecocq神父に哲学の講話を聴きましょう



【第二部】
それでは、第二部となります。第一部より、多少短いですが、お配りした抜粋は第一部より多少多いです。というのも、一番有名な引用は第二部にありますから。
手元にある最初の抜粋こそは、恐らく一番一般的に、「学問芸術論」から紹介されている文章だと思われます。

「人間の休息を敵視するある神が学問を発明したというのは、エジプトからギリシャに伝わった古い伝説だった。」
C'était une ancienne tradition passée de l'Égypte en Grèce, qu'un dieu ennemi du repos des hommes était l'inventeur des sciences.

プロメテウスの神話の話ですね。「人間の休息を敵視する」ティタンのプロメテウスが「ゼウス」から火を奪って、人間に火を渡したという神話です。御存じの通り、ゼウスが憤怒して、罰としてプロメテウスを鎖で拘束し、毎日毎日、鷲によってプロメテウスの肝臓が食われるのです。そして、夜になって、肝臓が回復して、翌日が改めて鷲が来て肝臓をいつまでも食っているというのです。また、プロメテウスは人間に冶金術を教えたともされています。

ルソーによると、「エジプトからギリシャに伝わった古い伝説」はプロメテウスが人間の敵であることを証明するといっています。なぜでしょうか。ゼウスがプロメテウスを罰したからです。つまり、ゼウスが人間を守ろうとしたからだとルソーは言っています。
「では、学問の生みの親であるエジプト自身が、学問について持っていたに違いない見解は、どんなものだったのだろうか。エジプト人こそ学問を生み出した源を身近に見ていたのだから。」
Quelle opinion fallait-il donc qu'eussent d'elles les Égyptiens mêmes, chez qui elles étaient nées ? C'est qu'ils voyaient de près les sources qui les avaient produites.

ちょっと飛ばします。同じ段落の最後に次の文章があります。学問の原因を語る一行。これはよく引用されている部分です。
「天文学は迷信から生まれ、雄弁術は野心、憎悪、お世辞、虚偽から生まれ、幾何学は貪欲から、物理学は無益な好奇心から生まれた。これらすべて、道徳でさえ、人間の傲慢さから生まれたのだ。それゆえ、学問と芸術とが生まれたのは、我々の悪のせいなのであって、もし、徳のお陰で生まれたのなら、われわれが、学問芸術の利益について疑うことは、もっとすくないことだろう。」
L'astronomie est née de la superstition ; l'éloquence, de l'ambition, de la haine, de la flatterie, du mensonge ; la géométrie, de l'avarice ; la physique, d'une vaine curiosité ; toutes, et la morale même, de l'orgueil humain. Les sciences et les arts doivent donc leur naissance à nos vices : nous serions moins en doute sur leurs avantages, s'ils la devaient à nos vertus.


明記されていますね。
学問と芸術は悪い習俗を引き起こした、と。だが、その上に、学問と芸術の原因もまた人間の悪徳なのだと主張しています。

例えば人々は「丁寧さ」を身につけたのは、偽善心のせいであるか、あるいは、へつらいのせいであるかということになりますね。また、なぜ天文学者が出たかというと、ルソーによると、彼らは迷信的だったから、天体を見ることによってその迷信を満たそうとしていたからだということになります。道徳でさえ、なぜか存在するかというと、ルソーに言わせれば、「人間の傲慢さ」に由来しているからだといっています。なんか「自分の完成」を求める「傲慢な人間」のせいで道徳ができたという感じ。
「それゆえ、学問と芸術とが生まれたのは、我々の悪のせいなのであって、」
Les sciences et les arts doivent donc leur naissance à nos vices
書きぶりとして上手く良く出来上がっているでしょう。パッと読むと、一瞬「まあそうかもしれない」と思われてもおかしくないようにされている巧みな書きぶりですね。


【「原因」と「きっかけ」との二つの概念を混同】
以上の段落には、何らかの一理がなくはないかもしれませんが、そこでルソーが犯している主な誤謬は、次の通りです。つまり、区別すべき二つの言葉を混同して、間違って使っているという誤謬を犯すのです。「原因」と「きっかけ」との二つの概念を混同します。原因と切っ掛けは別々のことです。

つまり、ルソーは「人間の悪こそ学問と芸術の原因である」と主張します。
しかしながら、実際においては、「人間の悪は学問と芸術の原因ではなく、そのきっかけに過ぎない」というべきです。同じに見えても全く違う結論になります。なぜかというと、「原因」というのは、「必然的に」結果を伴うのです。「結果」は必ず「原因」から引き起こされているからです。結果はその原因と必然的に結んでいるということです。要するに、「原因」は「結果」を生むのです。

一方、その言葉の意味から自明な通り、「きっかけ」から、結果が生じるのではなく、その切っ掛けは「事情・状況」であって、「その状況において、ある結果がある原因から実現した」という意味です。原因と切っ掛けとの区別は見えたでしょうか。「原因は結果を生む」。それに対して、「きっかけは結果を生まない」ということです。きっかけは「ある原因がある結果を生んだ」状況・事情に過ぎないのです。

それでは、「人間の悪が幾つかの学問の “きっかけ”になった」ということは、それは可能だし、実際にあったかもしれません。しかしながら、「人間の悪が幾つかの学問の “原因”」だったのは、それは無理です。また後述しますが、実際において、「学問の原因」というのは、知りたい気持ちこと、理解したい気持ちといった人間においての「自然なる欲望」にあるからです。
御覧の通り、以上の段落では、良く書きあがったものの、根本的な誤謬があります。「原因」と「きっかけ」が混同されています。
ちょっと哲学用語を使わせていただいたら、「偶然を対象にした詭弁 [注2] 」という誤謬のある文章です。ちょっと飛ばします。手元にある次の段落に移ります。

[注2]つまり、偶然なことを「必然」なことをみなす詭弁。

「もし、我々の学問が、目指す目的において無益であるとするならば、それが生み出す結果によっても、学問はさらに一そう危険なものである。無為の中に生まれた学問が、今度は無為をはぐくむ。」
Si nos sciences sont vaines dans l'objet qu'elles se proposent, elles sont encore plus dangereuses par les effets qu'elles produisent. Nées dans l'oisiveté, elles la nourrissent à leur tour

ここでは、学問と芸術を生み出した悪の内に、ルソーが「無為」を加えるのです。諺は御存じですね。「無為はあらゆる悪徳の母だ」と。
「無為の中に生まれた学問が、今度は無為をはぐくむ。」
そこでは、ルソーにとって厳密にいう「悪循環」があるとされます。悪である無為が学問を生み出し、そしてルソーにとって悪である学問が無為を生み出すのです。

「そして、取り返しのつかない時間の浪費こそ、学問が必然的に社会に与える第一の害である。道徳においてと同じように、政治においても、すこしも害をしないことは、大きな悪である。無用な市民は、すべて有害な人とみなすことができる。」
et la perte irréparable du temps est le premier préjudice qu'elles causent nécessairement à la société. En politique, comme en morale, c'est un grand mal que de ne point faire de bien ; et tout citoyen inutile peut être regardé comme un homme pernicieux.

要するに、ルソーにとって、学者や芸術家は無用な人です。なぜかというと、これらは、ルソーにとって、善を施さない人々だからです。ルソーにとっての善は、徳そのものです。したがって、その理論だと、徳をもって行動しない人は、無用となるしかありません。故に、彼にとって学者や芸術家は無用な人です。手元にある抜粋に次を省いたと思いますが、そこで啓蒙哲学者たちと科学者たちに声をかけます。

「そこで、有害な哲学者諸君、物体は真空でどんな比例で引き合っているか、惑星の公転において、同一時間に通過する面積の比は、どれほどであるか、」云々「などを我々に教えてくれる諸君、かくも多くの崇高な知識を我々与えてくれる諸君よ、どうかつぎの問いに答えてくれ。もし諸君が、われわれに、以上のことを教えなかったとしたら、我々の人口がいまよりもすくなく、政治も良くなく、恐れられることも少なく、繁栄してもいず、あるいは一そう邪悪になっただろうか。」
Répondez-moi donc, philosophes illustres ; vous par qui nous savons en quelles raisons les corps s'attirent dans le vide ; quels sont, dans les révolutions des planètes, les rapports des aires parcourues en temps égaux ; … Répondez-moi, dis-je, vous de qui nous avons reçu tant de sublimes connaissances ; quand vous ne nous auriez jamais rien appris de ces choses, en serions-nous moins nombreux, moins bien gouvernés, moins redoutables, moins florissants ou plus pervers ?

要するに、徳に関して、学問などは無用だとルソーは主張します。
ルソーは学問学術と習俗の頽廃を因果関係で結ぶので、それに対して「徳」を弁護しようとします。彼にとって、徳が人間において存在するために、学問を除外すべきだと言っています。故に、次のように続きます。

「だから、あなた方の業績の重要性をふりかえってみてくれ。我々の学者や最良の市民の最も輝かしい業績が、我々にほとんど役に立たないとすれば、国家の物資を貪り食って、何の役にも立たないあの多くの無名作家たちや、なすところのない文士どもの群れを、どう考えたらよいかを、いっていただきたい。」
et Revenez donc sur l'importance de vos productions, si les travaux des plus éclairés de nos savants et de nos meilleurs citoyens nous procurent si peu d'utilité, dites-nous ce que nous devons penser de cette foule d'écrivains obscurs et de lettrés oisifs, qui dévorent en pure perte la substance de l'État.
国家に居候(いそうろう)している連中です。ルソーは現代に生きているのならば、現況に対してどう描いたでしょうかね。

「なすところがない、といえるだろうか。実際、文士どもが、そうであればありがたいのだが!そうだったら、習俗はもっと健全で、社会はもっと平和だったろうに!ところが、これらの生意気で、くだらぬ口やかましい連中は、有害な逆説を武器として、四方へ出かけてゆき、信仰の基礎をくつがえし、徳を破滅する。」
Que dis-je, oisifs ? et plût à Dieu qu'ils le fussent en effet! Les mœurs en seraient plus saines et la société plus paisible. Mais ces vains et futiles déclamateurs vont de tous côtés, armés de leurs funestes paradoxes ; sapant les fondements de la foi, et anéantissant la vertu.

どう見ても、啓蒙哲学者たちはなかなか狙われているのですね。
「彼らは、祖国とか、宗教とかいう古い言葉を嘲り笑い、人間の内にあるあらゆる神聖なものを打ち壊したり、卑しめたりするのに、自分たちの才能と哲学をささげている。」
Ils sourient dédaigneusement à ces vieux mots de patrie et de religion, et consacrent leurs talents et leur philosophie à détruire et avilir tout ce qu'il y a de sacré parmi les hommes.

確かにルソーの書きぶりは美しいですね。勿論、根本的に間違っている根拠を打ち出して啓蒙哲学者を攻撃しています。確かに啓蒙哲学者を攻撃するが、間違っている根拠で攻撃します。それについては、また後述します。
そして、ルソーは幾つかの事例を挙げてから、次のように続けます。

「それでは、この奢侈の問題において、正確には、何が問題なのか。それは、国家(帝国)にとって、輝かしいが短命であるのと、有徳であるが永続的であるのと、どちらが重要であるか、を知ることである。」
De quoi s'agit-il donc précisément dans cette question du luxe ? De savoir lequel importe le plus aux empires d'être brillants et momentanés, ou vertueux et durables.

同じ対立ですね。一方はピカピカな外観。他方は実際においてどうなっているのか。「輝かしい」のは外観であって、そして、建前なので、表面的に過ぎなくて、何れか崩れるというのです。だから、輝かしい帝国は短命だとルソーは言います。それは、第一部の時に事例を挙げた論調からの帰結ですね。エジプトとか古代ローマと古代ギリシャなどは、輝かしくなろうとした時に、衰退し始めたとルソーは確認しようとします。有徳のあるものは長生きするといっています。

「わたしは、いま輝かしい、といいましたが、その輝かしさは、どのような光によってだろうか。豪奢な趣味が、同一人の魂の中で、正直な趣味と結びつくことは、ほとんどない。」
Je dis brillants, mais de quel éclat ? Le goût du faste ne s'associe guère dans les mêmes âmes avec celui de l'honnête.
いつも、同じ対立ですね。ここでの「正直」は「有徳」との意味ですね。

「いや、極めて多くの下らぬ気づかいによって堕落した精神が、偉大なものにまで高まることは、決してないし、また高まる力があるにしても、その勇気に欠けている。」
Non, il n'est pas possible que des esprits dégra-dés par une multitude de soins futiles s'élèvent jamais à rien de grand ; et quand ils en auraient la force, le courage leur manquerait.

続きは、「芸術家というものはすべて、賞賛されることを望む。」
Tout artiste veut être applaudi.

その後は、ヴォルテール氏をちょっと嫌がらせするための指摘があります。
「有名なアルエよ!あなたは、雄々しく力強い美を、我々の偽りの繊細さのために犠牲にしたことが、いかに多かったか、また、あなたが、つまらぬことにはきわめて入念な、あの礼節の精神のために、あなたの中にある偉大なものを、失ったことが、いかに多かったかを、われわれにいっていただきたい。」
Dites-nous, célèbre Arouet, combien vous avez sacrifié de beautés mâles et fortes à notre fausse délicatesse, et combien l'esprit de la galanterie si fertile en petites choses vous en a coûté de grandes.
まあこれは、復讐でしょう。

「このようにして、奢侈の当然の結果である習俗の堕落が、こんどは趣味の腐敗を呼び起こすのだ。」
C'est ainsi que la dissolution des mœurs, suite nécessaire du luxe, entraîne à son tour la corruption du goût.
つまり、習俗の堕落の上に、趣味の腐敗も起こる、これで、もうルソーの理論が完成すると言えるでしょう。このようにして、ルソーが見ている悪循環となります。

今度は、手元にはない文章をご紹介しましょう。
「人々が、習俗について反省すれば、かならず原始時代の単純な姿を思い出して、楽しむことだろう。」
On ne peut réfléchir sur les mœurs, qu'on ne se plaise à se rappeler l'image de la simplicité des premiers temps.
ここは「自然状態で創られた」人間という課題にいつもルソーが打ち出すのですね。次は手元にはあります。

「生活の便宜さが増大し、芸術が完成に向かい、奢侈が広まる間に、真の勇気は萎靡し、武徳は消滅する。そして、これもやはり学問と、暗い小部屋の中でみがかれる、あのすべての芸術のしわざなのだ。」
Tandis que les commodités de la vie se multiplient, que les arts se perfectionnent et que le luxe s'étend ; le vrai courage s'énerve, les vertus militaires s'évanouissent, et c'est encore l'ouvrage des sciences et de tous ces arts qui s'exercent dans l'ombre du cabinet.
言い換えると、学問と芸術は無気力を引き起こすとルソーが言っています。
つづいて、ルソーが多くの事例を並べます。ゴート人とか、カール八世とか、ローマ人とか、ギリシャとか。

そして、手元にある次の段落になります。ほぼ最後の抜粋になるかもしれません。
「学問を修めることが、戦士としての資質にとって有害であるとすれば、それは道徳的資質にとっては、さらに一そう有害だ。幼年時代以来、無分別な教育が、我々の精神をかざり、われわれの判断力を腐敗させた。」
Si la culture des sciences est nuisible aux qualités guerrières, elle l'est encore plus aux qualités morales. C'est dès nos premières années qu'une éducation insensée orne notre esprit et corrompt notre jugement.

まさに、この論文は学問と芸術に対する大批判ですね。

「いたるところに見られる広大な施設(学校)で、莫大な費用をかけて、青年にあらゆることを教えているが、義務だけは例外のようである。あなた方の子供たちは、自国語はしらないのに、しかも、どこにも使われていない他国語を話すことだろう。」
Je vois de toutes parts des établissements immenses, où l'on élève à grands frais la jeunesse pour lui apprendre toutes choses, excepté ses devoirs. Vos enfants ignoreront leur propre langue, mais ils en parleront d'autres qui ne sont en usage nulle part

まあ現代風の学校に見えますね。
「また自分たちがほとんど理解することができないような詩を作ることはできるだろう。」
ils sauront composer des vers qu'à peine ils pourront comprendre
現代なら、もう誰も詩を作ることはできないなあ。理解しないことにかんしてはまあ変わりませんね。

「子どもたちは、誤謬と真理とを弁別できないのに、特殊な議論によって、他人にそれらを見分けにくいものにする技術を身につけるだろう。しかし、高邁、公正、節度、人間らしさ、勇気などの言葉が、何を意味するかは知らないだろう。」
sans savoir démêler l'erreur de la vérité, ils posséderont l'art de les rendre méconnaissables aux autres par des arguments spécieux : mais ces mots de magnanimité, de tempérance, d'humanité, de courage, ils ne sauront ce que c'est
確かに現代は全くその通りですけど。

「祖国というあの優しい名をけっして耳にすることはないだろう。また、神について語られるものを聞くとしても、それによって神を畏敬するよりは、むしろ神を怖がることになるだろう。」
ce doux nom de patrie ne frappera jamais leur oreille ; et s'ils entendent parler de Dieu, ce sera moins pour le craindre que pour en avoir peur.

「私は生徒たちが、ジュ・ド・ポーム(古式テニス)に時を過ごすことを望むだろう。少なくとも、生徒の体が一そう丈夫になるだろうから」と、ある賢者がいった。」
J'aimerais autant, disait un sage, que mon écolier eût passé le temps dans un jeu de paume, au moins le corps en serait plus dispos.
そして、お配りしたこの抜粋の最後の文章はこうです。

「子どもたちが学ぶのは、大人になった時になすべきことであって、大人になって忘れなければならないことではない。」
Qu'ils apprennent ce qu'ils doivent faire étant hommes ; et non ce qu'ils doivent oublier.
確かに、書きぶりは旨いですね。


さて、こういった悪徳と偽善心はどこから来るでしょうか。手元にある次の文章はその問いに応じるのです。
「才能の差別と得の堕落とによって人間の中に導き入れられた有害な不平等からでなければ、これらすべての悪習が、いったい、どこから生まれてくるのか。(…)人間に要求されるのは、もはや、誠実であるかない
かではなくてして、才能があるかないかである。書物が有益であるかどうかなくして、文章が上手かどうかである。」
D'où naissent tous ces abus, si ce n'est de l'inégalité funeste introduite entre les hommes par la distinction des talents et par l'avilissement des vertus ? … On ne demande plus d'un homme s'il a de la probité, mais s'il a des talents ; ni d'un livre s'il est utile, mais s'il est bien écrit.
いつも「外観・内面」、「建前・本音」の対立ですね。

「才人のうける報酬が莫大なものだが、徳のある人は依然として尊敬されない。」
Les récompenses sont prodiguées au bel esprit, et la vertu reste sans honneurs.
そして、その後は知識人がいるかもしれないが、市民はもはやいないとルソーは言います。

従って、彼に言わせれば、祖国もなくなったということです。それから、印刷術をもルソーは厳しく批判しています。それから、ホッブス、それから、スピノザを対象に批判を投げます。
そして、結びの前に、次の文章があります。手元にはないような気がしますが非常に面白いです。

「しかし、もしも学問芸術の進歩が、我々の真の幸福に何も加えることもなく、またもしこの進歩が、われわれの習俗を腐敗させ、されにまた、もし習俗の腐敗が純潔な趣味に害を与えたとするならば、あの初歩的な本ばかりを書いている人たち―ミューズの神殿に近寄るのを妨げるために、また、物を知ろうと試みる人々の力をためすかのように―自然がそこには張り巡らしたら障壁を、ミューズの神殿から取り除いてしまった人たち―の群れを、なんと考えたらよいのか。」
Mais si le progrès des sciences et des arts n'a rien ajouté à notre véritable félicité ; s'il a corrompu nos mœurs, et si la corruption des mœurs a porté atteinte à la pureté du goût, que penserons-nous de cette foule d'auteurs élémentaires qui ont écarté du temple des Muses les difficultés qui défendaient son abord, et que la nature y avait répandues comme une épreuve des forces de ceux qui seraient tentés de savoir ?
ここでは、数少ない本当に才能のある作家の弁護をルソーが行っているところです。一旦飛ばしまして、後で改めて触れます。
それから、この本は次の文章で終わります。

「おお 徳よ! 素朴な魂の崇高な学問よ!お前を知るには多くの苦労と道具とが必要なのだろうか。お前の原則はすべての人の心の中に刻みこまれていはしないのか。お前の掟を学ぶには、自分自身の中に帰り、情念を静めて自己の良心の声に声に耳を傾けるだけでは十分ではないのか。」
O vertu! Science sublime des âmes simples, faut-il donc tant de peines et d'appa-reil pour te connaître ? Tes principes ne sont-ils pas gravés dans tous les cœurs, et ne suffit-il pas pour apprendre tes lois de rentrer en soi-même et d'écouter la voix de sa conscience dans le silence des passions ?

また後述しますが、そこで触れられているのは「良心」という課題です。覚えていらっしゃるかもしれません。「良心よ!良心よ!神なる本能よ!」というセリフがありました。

「ここにそこ真の哲学がある。」
Voilà la véritable philosophie

つまり、ルソーにとって真の哲学は「自分自身の中に帰する」ことであり、「何をすべきか」と言ってくれる道徳的な行為を招く自分の良心を聞くことであると言っています。

「そして、文学の世界で不滅の生をえている、あの有名な人々の名誉を羨むことなく、かれらとわれわれとのあいだに、かつての二大民族のあいだに認められたあの輝かしい区別―一つはよく語らうことを知り、他はよく行うことが出来たーを設けるように努めよう。」
et sans envier la gloire de ces hommes célèbres qui s'immortalisent dans la république des lettres, tâchons de mettre entre eux et nous cette distinction glorieuse qu'on remarquait jadis entre deux grands peuples ; que l'un savait bien dire, et l'autre, bien faire.
これで、「学問芸術論」が終了します。



さて、要約してみましょう。この論文は、学問芸術に対する厳しい諭告(ゆこく)だと言えます。ルソーにとって、学問芸術は悪徳から生まれたものであって、その結果に、習俗を腐敗させる学問芸術です。これは、ルソーの中心となる主張です。
つまり、最初の問いを一言では答えてみたらこうなるでしょう。
「学問(科学)と芸術との再興は風俗の堕落あるいは風俗の洗練のどちらに貢献しただろうか」
ルソーの答えは「いいえ」と答えるべきだとしています。
いや、悪から生まれた学問と芸術との再興は逆に、歴史においても人類のことを調べても、悪を伴うということが示されているので、学問芸術は徳と関係ないどころか、徳に反対していると言っています。
そして、学問芸術に対する諭告の裏に、ルソーは徳を弁護します。それも間違いなくその文章にあって、ルソーはある種の徳を弁護します。
しかしながら、すぐに指摘しておきましましょう。一つは「すべての学問芸術が悪い」ということをルソーは言っていないのです。

要約してみると「学問芸術は数少ないエリートのためにだけあるべきだ」と主張し、そして、市民の徳を求めるべき政治上の指導者たちへそのエリートが助言を与えるべきだ、と手元にはなかった先ほどの文章の終わりにルソーは主張します。しかし、こういった学問芸術上のエリートは数少ないのです。有徳の士だからです。その場合に限って、学問芸術は悪から生まれず、悪を生まないことが可能となるとの主張です。しかし、それができるのは、限られた少ないエリートだけです。

そういえば、この主張は不思議なところがあります。つまり、言い換えると、学者あるいは芸術家になるために、まるで英雄的な徳を持たなければならないということになっています。要するに、学問芸術は少ないエリートのためである一方、他方、徳はみんなのためにあるとルソーは言います。

【ルソーの「自然」と「芸術」の対立関係は、実は「徳」と「悪習」の対立】
そして、結局、ルソーは「自然」と「芸術」を対立関係に置いている時、実際には、その裏で、「徳」と「悪習」の対立となっています。ごく僅かな例外を除いて、一般論としてこうなるとルソーは主張しています。
そこに注目しましょう。非常に面白いことです。

そこにその後のすべてのルソーの「哲学の基礎」はそこにあるので、注目しましょう。
つまり、自然と徳はいつも相伴うということになります。言い換えると、「人間は自然に善の状態でうまれる」ということですね。
そして、「学問芸術」に基づいた「社会」が「善い自然な人間」を腐敗させるという理論になっていきます。
ルソーがデビューしたこの「学問芸術論」の中に、ルソーの思想の中心にある主張が既に織り込まれているということです。つまり、「人間は自然に善の状態でうまれる」ということで、そして「学問」は人間を腐敗させます。学問というと「政治」でもあります。なぜかというと、ルソーが「自然と政治」とを対立関係に置いているので、「学問あるいは政治」が「有りのままの本来の人間」を腐敗させたという主張になります。
御覧の通り、文章の行間を掘り下げてみると、「ジャン=ジャック・ルソー」の思想の基盤をここで見つけるのです。要するに、ルソーにとって、「創造された人間」と「徳」との間に相関関係があります。人間は善い状態で創造されたというのです。
また、御覧の通り、自然の人間と社会の人間との間に、対立があるということになります。建前と本音。正直さと偽善さ。


【ルソーの間違いをどう指摘するべきか】
さて、以上の意見の前にして、どうこたえるべきでしょうか。
そこには、主に二つの誤謬が織り込まれています。

【ルソーは人間の「原罪」の代わりに、「自分の外・政治」のせいにする】

第一の誤謬は神学上の誤謬です。「原罪」を否定する誤謬です。一目明瞭です。
「原罪の否定」という誤謬。信仰上の真理ですけど、「原罪」さえを認めたら、すべて解決します。
つまり、原罪があると、我々それぞれの心にある原罪のせいで「悪は学問の切っ掛けになることは」可能となりえます。つまり、我々にある原罪は、言い換えると、三つの現世欲からなっていて、いつの間にか、我々を「悪い方向へ」押そうとする傾向を指すのです。そうすると、「悪(習)がきっかけとなっても」理解できますが、それだからといって、悪が原因とはならないのです。

それでも、我々人一人に、悪へのきっかけの可能性がずっとあるのです。そのことだけは、ルソーが痛感しています。イタリアに洗礼を受けに行った時のルソーは、ちょっと公教要理をならったはずなのにそれほど誤っていてしょうがないなあ。問題は次のように要約しましょう。
その切っ掛けをみて、「人間の心の中は何か腐敗している」つまりそれは「原罪がある」ということを断言すべきなのに、ルソーが「いやいや、人間にある腐敗は外から来る」と間違って主張します。つまり、あえていえば政治から腐敗が来るということになるが「自然・本性から来ない」とルソーが言ってます。
要するに、「人間の本性は傷つかれている」という真理をルソーが否定しています。つまり、ルソーにとって、「人間の本性は善いまま」だと主張しています。これは後でもいつも出てくる主張です。これこそ、ルソーの全思想の基盤となる誤謬です。


【ルソーは「意志」を過剰に重んじ、「知性」と「感受性」を否定する】

そして、原罪の否定の上に、人間の本性に対する誤解があります。人間の本性(自然)はなんであるかをルソーが誤解しています。
従って、原罪の問題をさておいても、「人間の本性」、「自然状態」を語る時に、ルソーは根本的に無理解にあります。なぜでしょうか。

本来ならば、人間というのは、命づける「霊魂」と「身体」とから構成されている存在です。従って、人間は理性が備わっているので、人間には「知性」があり、「意志」を持ち、「自由意志」をも持つ存在です。または、感受性(感覚)をも持ちます。これらのすべては人間には「自然に」備わっている要素です。要するに、能力です。ところが、「能力」というのは、何かが「できる力」であり、また「可能性」であります。たとえば、何かの能力を持つ時に、「それができる」と言いますが、その通りです。可能です。

ここでは何の意味を持つでしょうか。人々には「能力」が備わっているということは、人々には「可能性」が備わっているということです。そして、人々は、自分を完全にするために、それらの「可能性」を実現すべきですね。要するに、誰かが「何かができる」と言った時、その「できること」を実際に実践する時にこそ、「何か可能だ」といったよりも自分が完全になるのです。
ということで、人間の本性は、これらの能力を持つだけではなく、それらの能力をそれぞれの完全にまで達成するということも人間の本性です。

そして、「知性」の完全性は他でもない「学問」です。言い換えると、「真理」が知性の対象です。「意志」の完全性は他でもない「徳」です。言い換えると、善く「行動」することが、または「善」が意志の対象です。ところが、この「善」は何であるかを発見しなければなりません。そして、よく理解されていると思いますが、「善」を発見することは可能になるためには、「学問」を通じて「善」を知る必要があります。したがって、善を発見するためには、ある程度の真理を知性が事前に知る必要があります。言い換えると、ある程度に学問にまで知性が達成しなければ、善を発見できないのです。

だから、ルソーのいう「学問がないままに人間が自然に有徳である」という命題はあり得ないことです。どうやって、自然のままに、徳を身についていけるでしょうか。誰から徳を教わるというでしょうか。

ルソーの人生自体を見ると、この矛盾が自明です。ルソーを前にして、「あなたは自然の状態だった時に、つまり幼い児童と青春だった時に、自然に有徳だっただろうか」と聞きたいところですね。要するに、ルソーがまだ教育を完成に貰っていなかった時に、「自然に有徳」だったことはなかったどころか、まあ…

そして、あえて言えば、ルソーの誤った主張は結局、かれがパラノイアであることを示します。きっと、ルソーも誰もと同じように、自分が過去に犯した悪い事を思って痛く感じて、それは精神的な負担となっていたでしょう。そして、反省するよりも、自分が罪を犯したのに自分のせいにするよりも、その負担を忘れるために、ルソーにとって「良心が神の本音」だと思っているから、もしも「自分の良心」に従うことが出来るのなら、ルソーも「自分がいつも善いままだった」と彼は思っていたでしょう。そして、そうはならなかったのは、「社会のせいだ」と、「社会が私を腐敗させた」とルソーが信じ込むようになったのでしょう。たやすい責任回避ですね。

そして、人間の本性にある「感受性」は、知性と意志の作用を得て、「芸術」を生みます。芸術は感受性の完全化です。そういえば、「芸術」と言った時に、厳密に言うと二つの種類があります。
一方、美術そのものがあります。そして、他方、職人の技術もあります。言い換えると、有用性のある芸術です。

ところが、以上のすべては人間の「霊魂と身体の一致」の中に織り込まれています。全体図は見えるでしょうか。
従って、ルソーの思想には第一に原罪の否定という誤謬があります。つまり、「人間の本性」は自然に善い本性だ、つまり有徳の本性だとする誤謬ですね。

そして、同時に、ルソーは人間の本性の中に、「意志」を過剰に重んじるあまりに、「知性」と「感受性」を損害し、否定する誤謬となります。自明でしょう。

要するに、ルソーの思想には、ある種の「意志主義」があります。その「意志主義(自由意志・自由主義)」を踏んで、「知性/学問」と「感受性/芸術」を貶めるはめになります。結局、人間は本質的に何であるかについてのルソーの無理解だと言わざるを得なません。そういえば、ルソーは結石によって苦しめられたようです。その時に、ルソーはしっかりとした学問を持った医者に相談できたことを嬉しく思っていたはずです。まあ、最終的に必ずしも治ったかどうかは分かりませんが。

【ルソーは人間の本性について無知であった】
しかしながら、御覧の通り、ルソーがとかく「人間の本性・自然状態」を語ってばかりいるのに、実際において、ルソーが人間の本性を知らないのです。従って、人間の本性に関してルソーは「無知」であることは自明です。ルソーは「幸いなる無知」と讃えるかもしれないが、しかし、結局「不幸なるルソー」に過ぎません。そして、悲しいことに、その無知のせいで多くの人々を誤魔化して騙したのです。つまり、全く筋の通っていないことを近代人に「普及」させてしまったのです。
だから、実際には、ルソーの無知は幸いなことではないばかりか、不幸であって、そしてルソー自身もその無知のせいで、結局かなり不幸な人生を送りました。
以上は、学問芸術論の中にある誤謬のご紹介でした。


一言で要約してみましょう。それで、その一貫性がより見えて来るでしょう。

古典的にいうと、「学問」において次の区別をするのです。つまり、学問には二つの違う目的があります。
一方、学問は「知るためにだけ知ろう」とするのです。
他方、学問は「行動するために知ろう」とするのです。
そして、その後者の学問は、行動・行為するときに、何かの対象をもって実践するのです。
一方、行動の対象は自己となります。他方、別の物を対象に行為を実践します。前にご紹介したことと一緒であり、別の言い方に過ぎません。つまり、「知るためにだけ知ろう」とするのは、狭義の「学問」といいます。そして、自己を対象に、「行動するために知ろう」とするのは、自分を改めるため、自己を改善するためですから、「道徳」または「善き習俗・風俗」といいます。最後に、「別の物を対象に行動ために知ろう」とする営みは厳密に言う「芸術」です。

こういった古典的な紹介を見ると、「学問・習俗(道徳)・芸術」の一致がよく見えてくるでしょう。その三つとも、同じ「学問」ですが、その目的・対象だけが違ってくる「学問」だということです。見えてきたでしょうか。
従って、「学問」の原因は悪でもなんでもなくて、「学問」の原因は「知性」にあります。そして、「知性」は能力であり、求めている目的を得ようとする「知性」です。例えてみると、知性の在り方は、肺臓が「空気を呼吸」しようとすることと似ています。

また、徳の原因は「意志」です。しかしながら、悪の原因も「意志」です。なぜかというと、意志が間違った方向に行くのをゆるしてしまった時に、悪の原因となります。そして、最後に、芸術の原因は「感受性」です。「感受性」という能力も、「美」という目的において完全化しようとする能力です。「美」というのは、「感覚」を本当の意味で嬉しくすることですね。つまり、「知るのが快い」物事は「美」となります。見えてきましたかな。

従って、学問と芸術の本当の原因は、ルソーの言ったように悪でもなんでもなくて、本物の原因はつまり「人間の本性」自体にあるということです[注3]

[注3]したがって、人間がいるところには、芸術と学問が必ず生まれる。裏を返せば、学問と芸術抜きの人間はあり得ないことであり、人間でなくなると言える。

裏を返せば、ルソーには、人間は自然に何であるかと全く誤解しています。だから、間違った結論をルソーが出しています。
あとは、政治における芸術の位置を語るのも面白いですけど、時間の問題で割愛せざるを得ません。

『学問芸術論』はこれで終了します。
その著作の中心なる部分を示すつもりでした。そして、一番代表的な抜粋をご紹介して、そして、それに対してどう結論すべきかをご紹介しました。

ご清聴ありがとうございました。


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