ファチマの聖母の会・プロライフ

お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

善や悪に向かわせる「習慣」と「徳」について 【公教要理】第八十一講

2020年01月13日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第八十一講 善徳

 
引き続き、人間的行為 [注1] についてご紹介していきたいと思います。道徳という分野です。
人間が目的地にたどり着くために実践すべき行為についてです。

まず、人間的行為とは何であるかをご紹介しました。その次に、人間的行為を律する規範をご紹介しました。近因の規範は良心で、遠因の規範は法です。
従って、良心と法との二つの規範、近因と遠因、あるいはあえていえば内的と外的な両方の規範に基づいて、人は行為を実践するべきとなります。つまり、人間は規範に従ってその言動や行為を実践することにより、最終目的地にたどり着くことが出来るのです。

具体的な行為をするために、人間には多くの能力が備わっています。
身体を使って動くことが出来るし、意志を作動させて実際にある行為をなさしめ実現へと移す能力を持ちます。ところが、意志だけでは不足となります。なぜかというと、人には「習慣(habitus)」があるからです。

本日の講座は習慣 [注2] についてご紹介したいと思います。次回も少しずつ人間のいくつかの習慣を具体的にご紹介いたします。

習慣とは何でしょうか。習慣、厳密に言うとラテン語の「Habitus」というのが一番正確でしょうが、習慣とは、人間の一つの能力を指し、ある行為を「普通に」行わせる能力だと言います。
言い換えると、ある行為を頻繁により楽に行える能力を「習慣」といいます。

「習慣」には二つの種類があります。
良い行為を通常行わせる習慣と、悪い行為を通常行わせる習慣との二つです。

容易にいつも行うようにするという意味での「習慣」です。
反射的なものとまではいえないかもしれませんが、殆ど考えなくても自発的に行わせるようにするという意味での習慣です。良い行為を行わせる習慣は「善徳」です。悪い行為を行わせる習慣は「悪徳」といいます。

習慣とは、私たち人間が持つ多くの能力(意志あるいは知性など)を一定の方向へ傾かせます。容易に一定の方向に向かう行為を実践させるのです。
したがって、善徳とは、善い習慣を言います。つまり善徳とは善い行為を習慣的に普通に容易に行わせる状態です。
逆に言うと、悪徳は悪習です。悪しき習慣で、悪い行為を習慣的に普通に容易に行わせる状態です。
要約すると、習慣というのは安定的な能力で、それによって本人がその意志などの能力を善へあるいは悪へ傾かせます。
習慣は、悪い行為を実践するように傾かせるか、良い行為を実践するように傾かせるかするものです。
習慣のメリットはある行為を実践することを楽にさせる点にあります。
善徳のおかげで、良い行為を楽に行えるようになります。
また、残念ながら、悪徳のせいで、悪い行為を楽に行えるようになります。

習慣によって霊魂に、さらに強い「癖」の場合には見える形で体においてでさえ、ある種の傾向を刻印するかのようです。刻印するという表現はちょっと強すぎるかもしれませんが、やっぱりある習慣が身につくと簡単に変えられないものです。
だからこそ、善徳を身につけることにメリットが多いことは明らかでしょう。だから、なるべく早く善徳を身につけるべきであることの理由はわかりやすいでしょう。

裏を返せば、悪徳を身につけてしまったら、それをなくすことがどれほど難しいかは周知のとおりです。というのも、悪徳も善徳と同じように、「刻印されている安定的な傾向」ですから、悪習・悪癖のせいで人生は苦しくなり難しくなります。
しかし善徳を身につければ、人生はより簡単になり、楽になります。
~~

たとえてみましょう。非常に単純な例ですが、職人に頼んで、なにかやってほしい時、普通ならば、そのことをやったことがない、はじめての職人に頼むよりも、経験のある、そのことを何度もやっている職人の方にいくはずです。なぜでしょうか。後者の場合、いつもやっているので、安定的に習慣的に普通に頻繁に容易にそのことをやっているので、頼れるからです。
つまり後者の職人の作業はほとんど反射的に良い方向に傾いているわけです。
しかしながら、前者の職人の場合、やったことがないから、初めてやってもどうなるかはよくわからないのです。

道徳においても以上の事例と似ています。善に慣れていることもあれば、悪に慣れていることもあります。普通にいつも良い行為をしている人は、楽にこれからも良い行為を実践していく傾向があります。善徳です。
逆に、残念ながら、普通にいつも悪い行為をしている人は、楽にこれからも悪い行為を実践していく傾向があります。悪徳です。
要するに、習慣とは以上のようなものです。

良く悪くも、結果がどうなるかは別として、人生において人々は必ず習慣をもっています。必ず、年を取っていくと人は良くも悪くも習慣を身につけていきます。
だから、なぜ教育がそれほど大事なのかがよくわかるでしょう。教育とは、子供に当然ながら悪習ではなく良い習慣、つまり善徳を刻印させる営みです。

例えば、親はしつこく子供が礼儀正しく食べるように力を尽くします。これも良い習慣をつけさせるためです。「躾」です。また「慇懃さ」あるいは「礼儀ただしさ」といったものですね。つまり「文明」そのものです。
文明の語源は「市民としてスムーズにうまく生きていけること」といったような意味合いがありますが、社会においてまさに「和」を保つ「習慣」です。ある意味で文明国とは、「和の精神を刻印されている、善き習慣をもっている人々から構成される社会だ」と言えましょう。

以上で、人生においてどれほど習慣が大事かを理解していただけたかと思います。
どれほど若いうちに良い習慣を身につけていくことが大事であるかも理解していただけたかと思います。子供にたいしては常に気を付けて警戒し用心するのは非常に大事です。なぜかというと、大体の習慣は若いうちに身についていくものだからです。子供の時に得てしまった習慣は年を取るとどんどん強くなっていきます。年を取っていくと誰でも痛感するものです。
ある場面において、なぜかどうしてもあっちの方向へいってしまうという。
「もう癖だ、変えられない」といって、お手上げになることが多いのでは?なにか「しょうがない」という必然性があるかのように。

実際は、必然性はありませんが、習慣は霊魂に刻印されているので、無理では決してないとしてもその傾向に逆らうことは非常に難しいのです。善徳なら幸いですが、悪徳なら大変です。だから、教育が肝心かなめなのです。


習慣の種類を区別してみましょう。どうやって区別すればよいかというと、それほど簡単ではありません。

まず、天国に行けるために実践すべき行為をするように傾かせる習慣というものがあります。
人間の究極的の目的地である天国にたどり着くために、超自然の目的をえるための行為への傾向という習慣があります。「超自然の習慣」です。超自然の善徳です。

究極的の目的のためではないものの、自然上の善を得るような行為への傾向の場合は「自然上の習慣」です。
目的別、あるいは善により、習慣は超自然であるか自然であるかの区別ができます。

たとえば、信徳、望徳、愛徳は「超自然の善徳」です。信徳、望徳、愛徳といった習慣のおかげで、直接、人間の目的地、善である天国へ向かわせます。
後は、たとえば、礼儀正しく食事をとるといったような習慣、「躾」といったような習慣は「自然の習慣」です。
習慣の区別はまず「自然と超自然」で別れます。
~~

次は、ちょっと微妙なニュアンスですが、「能率」別でもそれぞれの習慣を区別します。どういえばいいでしょうか。つまり、どうやって習慣を得たかによって区別するといえましょう。つまり、それがいつ「習慣になる」かという問題ですが、習慣になるのは、同じ行為を繰り返すことによって身についていきます。

つまり、ある種の行為を繰り返すことによって、私たちの霊魂・知性などの能力において傾向を与えます。この場合は、後天性の習慣です。つまり、生まれてから教育において、人生において獲得された善徳はそういった習慣です。例えば、子供の時代、怒りといったような感情を抑制することを習って、柔和にふるまうように習った場合、剛毅とよばれる徳ですが、それは「後天性の習慣」です。

また、例えば、子供の内に、食べる際、与えられる食べ物を好き嫌いなく食べて、度を越えないで節度をもって食べる習慣を習った場合、節制という徳を身についていきますが、これも後天性の習慣です。要するに、ある種の行為を繰り返すことによって善徳を得ていくということから「後天性の習慣」だといいます。

たとえてみると、折り紙と似ています。この紙を一度折るとします。そして、何度も何度も同じ折に折っていったら、その折は深くなって、何もしないでも紙は自然に折れてくるような、もう折れているままになるしかないようなものは習慣と似ています。習慣は霊魂においての「折り」だと言えましょう。そして、頻繁にその霊魂においての折りを折ることによって、その習慣を強くします。また、ある種の行為をほとんど反射的にやるように、習慣を得ていきます。「後天性の習慣」です。

「後天性の習慣」以外に、「習えない」習慣、後天性ではない習慣もあります。天主より直接に与えられている習慣です。「天賦の習慣」だといいます。なぜ天賦かというと、天主が霊魂にその習慣を入れてくださるからです。直接に天主より賜る習慣です。
「天賦の習慣」は必ず「超自然の習慣」です。というのも、天主より直接に賜ったものなので、超自然に属するのですが、当然ながらそれらの超自然の習慣は自然上の対象に応用することも可能です。例えば、信徳、望徳、愛徳は天主より直接に賜る善徳です。



天賦の善徳のなかには、賢明徳、正義徳、剛毅徳、節制徳という徳さえもあります。天主は我々に聖寵を与えるたびに、これらの天賦の徳をも与え給うのです。
ただ、習慣なので、霊魂においてある種の「折り」を与えるかもしれませんが、それで実際に効果をもたらすために、霊魂による作用が必要です。したがって、具体的に言うと、天賦の徳は必ず後天性の徳と一緒に働くことになります。ただ、天賦の徳は後天性の徳を支えて、助けて、またそれらの徳の完成化をはかり、それらの善徳を霊魂においての定着化を助けます。


最後に、対象別で習慣を区別することもできます。習慣の対象は被造物である場合、つまり地上における何かが対象となる場合です。天主にたどり着く手段である被造物が対象になる場合、「道徳的な習慣」といいます。典型的なのは、四つの「枢要徳」です。賢明徳、正義徳、剛毅徳、節制徳です。それから、その四つの徳と並ぶ多くの善徳もあります。柔和、寛容、従順、貞節などなどです。
「道徳的な習慣」は被造の世界における何かがその徳の対象となり、その被造物を通じて、天主にたどり着くための手段、つまり私たちの究極的な善である天主を得るための手段に関するものです。
~~
それから、私たちの霊魂において、天主ご自身を対象にしている習慣もあります。いいかえると、それらの徳のおかげで、私たちの究極的な目的である天主とにつながらせる習慣(徳)です。
被造の世界の何かではなく、創造主が対象となります。「対神徳」です。三つあります。
信徳と望徳と愛徳です。これらの徳によって我々人々は天主と直接につながりうるのです。

また、上のすべての徳は私たちの霊魂において益々増やすことが可能です。当然、自然徳はすべて後天性の徳です。つまり、実践すればするほど、良い行為を繰り返せば繰り返すほど、それらの徳は霊魂において増えて、どんどん深く霊魂に備わっていくのです。

天賦の徳の場合、行為の繰り返しによってでは増えません。なぜかというと、天賦の徳の由来は私たち人間ではなく、天主だからです。したがって、天主によってのみそれらの天賦の徳は増えていきます。具体的にいうと、秘跡にあずかることによって、また超自然な愛徳による行為によって増えます。
人間による行為によってではなく、天主が私たちにおいて働きたもうおかげで、私たちにおいての天賦の徳が増えます。


全体図に戻ると あることが自明になったかと思います。
つまり、自然徳において、善の循環があります。良い行為を繰り返すことによって良い習慣が生まれて、そしてさらに良い行為をやるのは容易になっていき、そしてさらに良い行為をやるおかげで良い習慣は強くなっていくという善の循環ですね。
そのおかげで、善徳が強くなり、良い行為を実践するのも容易になり、そして容易になればなるほど実践するのが快く楽しくなります。容易にできる時こそ、快くなってきますから。悪徳なら、逆に悪循環です。

以上、習慣あるいは徳に関する全体図のご紹介でした。
善へ傾かせる習慣なら善徳であり、悪へ傾かせる習慣なら悪徳です。

[注1] 「人間的行為」と「人間の行為」とは意味が違う。区別する必要がある。
[注2]「習性」は野生動物の習性というようによく使われ、自然の本能のニュアンスがある。習慣は人間が繰り返し行って身につけるもので、ここでは全て習慣と修正した。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。