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カトリックとプロテスタントと正教会 【公教要理】第六十一講

2019年09月17日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第六十一講 公教会に対する反論



「聖なる公教会を信じ奉る」。
前回にご紹介したように、私たちの主イエズス・キリストの使命を引き続いて地上において続ける教会を識別するには、四つの特徴を確認すれば良いのです。
「一性、聖性、普遍性、使徒継承」の四つの特徴でした。この四つの特徴のお陰で、公教会に対する幾つかの反論を解決することはでき、その他に別の反論をもたらすでしょう。

第一に、反論を解決することを見ていきます。特にプロテスタントと正教会による反論に答えます。ある典型的な反論はこれです。
「でも、プロテスタントこそカトリックではないだろうか」
「でも、正教会こそカトリックではないだろうか」と言った反論です。

勿論、プロテスタントの諸派の教義と、正教会あるいはギリシャ離教教会の教義の誤謬性を示すことはいくらでもできますし、機会があったら今度ちょっとご紹介しようかと思いますが、それよりも単純な方法があります。

プロテスタントであるにせよ、正教会であるにせよ、この四つの特徴を持つかどうかを検討すればよいのです。言い換えると、「私たちの主イエズス・キリストに完全に本当に依存するだろうか」という質問に答えてみたら良いのです。というのも、前回ご紹介した通り、四つの特徴の一番大事なところは、「一性、聖性、普遍性、使徒継承」の四つの印の最も大事なポイントは、私たちの主イエズス・キリストへ収斂するような流れであるように、時間と時において教会は、私たちの主イエズス・キリストの「一性、聖性、普遍性、使徒継承」を反映するに過ぎないということです。

だから、考えてみましょう。プロテスタントに一性はあるでしょか。聖性があるでしょうか。普遍性があるでしょうか。使徒継承があるでしょうか。同じように、ギリシャ離教教会についても同じ質問をしてみましょう。
プロテスタントに関して「一性」を見出せるのはどう見ても難しい事だと言わざるを得ません。というのは、プロテスタントにおける「自由解釈」という教義、つまり聖書を読んで自由に自分の解釈を加える「自由解釈」というプロテスタントの原理は、一性を破戒します。ところで「自由解釈」こそが、プロテスタントを特徴づける要素です。「自由解釈」というのは、それぞれ自分なりに勝手に解釈してもよいという原理です。「自由解釈」という原理から必然に出てくる帰結は、限りのない分離の連鎖と宗派と派閥の絶えることのない増加という結果に繋がってしまいました。

結果は、それぞれのプロテスタントの宗派の間に、何の統一性もないし、一性もありません。教義上の一性も全くありません。プロテスタントの諸セクトがあるという感じですが、一性は全くありません。残念ながら、ある種の一性をどうしてもしいて見出そうとしたら、否定的な一性に過ぎなく、つまりカトリック教会に対するある種の嫌悪のみが何とかプロテスタントでは共通しています。ところが、否定的な共通性に過ぎなくて、何かを生み出せるような一性ではありません。いわゆる破壊しようとする一性に他なりません。一方、カトリック教会の特徴である「一性」はあえて言えば肯定的で、教義と秘跡を肯定する一性です。一なる教義と秘跡の故に、一性を持つカトリックの司牧者たちを中心とする教会です。したがって、プロテスタントには、一性はありません。

それから「聖なる」という特徴において、プロテスタントはどうでしょうか。一番やりやすいのはやはり創立者の性質をみて、その人物の聖徳の実践を検討すれば一番早いでしょう。残念ながら、プロテスタントの諸宗派を創立した人々は、ルターにせよ、カルヴィンにせよ、ツヴィングリにせよ、残念なことに、聖徳では知られていない人物ばかりであると言わざるを得ません。ルターの人生の伝記を読んでみるとどういった悪徳の内に彼の人生が終わったかは、残念なことに、目に余るほどです。従って、プロテスタントでは聖というのはありません。ルターは、秘跡の聖性でさえを否定してしまいました。また、その他の聖化の方法のすべてを否定してしまいました。断食や祈祷や福音的勧告や誓願や聖母マリアに対する崇拝などをすべて否定してしまったのです。以前にも、童貞聖母マリアについてご紹介したことがありますが、いとも聖なる童貞母への崇敬を否定すると、聖母の聖性をも拒絶します。
プロテスタントでは、諸聖人などは崇敬されてはいません。また、プロテスタントの構成員の間に、「聖人」と言ったような溢れた聖徳を実践し遂げた者を、いくら検討しても出てきません。「善い人」がいるかもしれませんが、「英雄的な聖徳の内に偉業を遂げる」ような聖人はいません。



第三の特徴である「カトリック性・普遍性」はどうでしょうか。プロテスタントというのは16世紀に生まれたのですが、確かに世界中に広まりはしました。それは事実ですが、宗派はまったくばらばらなので「プロテスタントが広まった」とはいっても、同じプロテスタントなのではありません。こういった状態なので「普遍性」を欠いています。というのも、一性の欠如の故に、普遍性を不可能なことにしています。というのも、普遍性というのは、時代を問わず場所を問わない一性だと言えるからです。それで、教義上の一性がなければ、時間において長く存続することも出来ないし、場所においても長く存続できないということです。要するに、プロテスタントのセクトは無数である故に、無数の「プロテスタント宗派」があって、例えばドイツならルター派とか、ジュネーヴならカルヴィン派とか、イギリスなら英国国教派とか無数にあります。その多数の故に、何らかの普遍性をも不可能にしています。また、その多数の宗派の故に、それぞれの構成員が纏まることを不可能にしています。

最後に、プロテスタントには使徒継承という特徴は全くありません。というのも、当初から、使徒からの聖伝の大部分を切り捨てて、使徒という基盤から離れてしまったからです。その上に、プロテスタントは単なる人間に由来している諸派にすぎません。何らかの宗派にしても、ルターをはじめその創立者たちは単なる人間にすぎなく、使徒たちから受け継がれた使命は全くありません。それらの創立者は自分勝手に妄想した使命を自分で自分に与えたにすぎません。

要約すると、公教会を特徴づける四つの刻印はプロテスタントにおいて一つもありません。従って、プロテスタントは私たちの主イエズス・キリストが望み給った救済の道ではないということです。プロテスタント主義はイエズス・キリストの働きを続けていないということです。私たちの主イエズス・キリストにおいてそしてイエズス・キリストの働きを引きつぐ教会において見いだせるべきこの四つの特徴は、一つもプロテスタントにはありません。
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今度ギリシャ離教教会の方に目を当ててみましょう。また正教会と呼ばれていますが、検討してみると、キリストの真の教会であることを識別できるこの四つの特徴がないということが分かります。ほぼ千年前にあったギリシャ離教は間もなくして多くの独立した教会に分かれて、お互いに何の関係も繋がりもなくなりました。それぞれの教会は自分の権威者を持つほど、完全にそれぞれが独立しました。さらにいうと、それぞれの教会の権威者の間にかなり多くの争いがあるほどです。要するに、プロテスタントとおなじように、正教会と言っても、纏まった教会ではなくて、それぞれ全く独立していて、一性はないということです。



次に、聖性に関してどうでしょうか。創立者に目を当ててみましょう。残念ながら、9世紀のフォティオスと11世紀のミハイル1世という創立者たちを見ましょう。そういえば、カトリックからの離教自体は1054年に起こしたのですが、9世紀のフォティオスこそが、その離教を始めた人物です。フォティオスもミハイル1世もローマ教会から離れてしまったのは、野望のせいであるに他なりません。また、自分の支配権を確立するためだったし、また愚かな聖職者たちの間の喧嘩のせいで分離までしてしまったのです。

結果として、正教会の歴史を見ると、奇跡は非常に少ないと言わざるをえないし、聖人も輩出しないし、偉業も生まれなくなったということです。ギリシャ離教教会には普遍性が全くありません。主に東方を中心にやっているだけです。世界中に広まってはいません。

使徒継承にかんして、ギリシャ離教教会はかなり早い段階で、使徒の教えを捨てた部分があります。以前にご紹介したように、特に聖霊の発生に関する使徒的教義を否定してしまいました。「聖霊は聖父と聖子より発する」という信条を否定してしまいました。ギリシャ離教教会は、「聖霊は聖父よりしか発しない」とするのです。さらにいうと、残念ながら、公教会の司牧者である教皇との繋がりを切り捨ててしまいました。公教会の位階制と聖ペトロの継承者であるキリストの代理者である教皇から離れて、そのつながりを切り捨ててしまいました。すると、公教会の使徒継承の基盤へのつながりを切り捨ててしまいました。従って、正教会は「一性、聖性、不偏性、使徒継承」の一つも持ちません。だから、正教会は私たちの主イエズス・キリストの働きを受けついで続ける教会ではありません。

以上、主な「諸教会」に関して簡潔に言えることをご紹介しました。以上のように、神学上に議論に入らなくても、信徒の誰もが知っている公教要理だけでも言い返せることをご紹介しました。
四つの特徴を基準に検討してみるとかなり評価しやすくなります。要約すると、私たちの主イエズス・キリストとご自分の公教会の四つの特徴を持たないからこそ、主の働きを続けていない諸教会と言えます。
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次に、以上のようにカトリック教会に対しても同じ反論で攻めることはできるのではないかという問題を検討しましょう。この課題を無視するわけにはいきません。時間の問題で、完全にすべてを深く説明しきれなくても、幾つかのカトリック教会に対する主な反論を取り上げましょう。

例えば、歴史上にあった諸スキャンダルが良く揚げられています。しかも、最高の権威者たちの間でさえ今でもスキャンダルが出ています。10・11・12世紀において、破廉恥の歴代教皇が何人かいたのは確かだし、時に最低の行為も司教たちの間にあったのも事実です。それに対してどう答えたらよいでしょうか。

まずそれらのスキャンダルなどは、公教会の御教えによって起こされた事件ではないと言うべきです。それらのスキャンダルと罪は必ず「自由意志」の乱用によってこそ出てきたので、公教会は常にこういった行為や罪を断罪したし、罰し続けています
つまり、これは非常に大事ですけど、公教会がいつも悪者を悪者として断言して、スキャンダルや罪を奨励するようなことは一切なかったのです。いつも厳しく罰して断罪し続けました。そこで、公教会とその聖職者の間に潜り込んできたすべて悪徳は、絶えず断罪され続けて罰され続けました。これからも断罪され罰され続けるでしょう。また、必ず、多くのスキャンダルに時代の後に、偉大な聖なる教皇が現れます。例えばイルデブランドの聖グレゴリオ七世とか全力を尽くし、あらゆる手段を尽くして、広まっていた悪用や乱用を根絶します。

またほかの典型的なカトリック教会に対する批判は「不寛容」です。
例えば、アルビジョア派聖地への十字架軍派遣とかです。また尋問裁判所とか。それぞれ一つずつは検討すべきかなり広い課題です。それらの課題について多く言われたりしますが、残念ながら、言われている多くのことは間違っていると言わざるを得ません。それぞれの課題について、それぞれの時代背景も理解した上で、教会史の講演をして、その真相を紹介する必要があるでしょう。実際のところ、乱用と言われている十字軍などは、乱用でもなんでもなかったというのが真相です。公教会はいつも絶えず託された遺産を守ろうとし続けてきたのがポイントです。

主は御教え・聖性という遺産を託して、その遺産を守る為に公教会を制定なさったのです。公教会は当然ながらその遺産を広め、広く配分し続けたのですが、時に遺産を守る為に厳しい態度をせざるを得なかった時も生じました。家長と似ているといえましょう。家族における父は、あえて言えば子供を通じて自分の存在を存続・延長するという側面があると同時に、自分の子供たちが善い道を歩み続けるために、罰したり厳しくしたり正当な手段を使うのはごく自然のことで、使わなかったら無責任な父になります。

この例でみるように、どの指導においても、両側面があるのです。勧善懲悪ですね。また一方、家業であれ何であれ、ある働きを継承し続け、さらに発展させようとする勢いもあり、同時に指導というもう一つの側面もあります。これは引き継がれた遺産という善を守ろうとする時に必要なのです。例えば、十字架軍を取り上げるなら、公教会は聖地に巡礼に行っていた信徒たちを守ろうとしていたのです。巡礼者たちは必ず巡礼中に襲われたり盗まれたりしていたので、彼らを守る必要が生じたのです。また同じくイスラム教徒たちに略奪されて占領されてしまった聖地を守ろうとしました。単純な正当防衛でした。

また、アルビジョア派も、公教会はカトリック教義を守ろうとしたのです。尋問裁判所でさえも、ほとんどの場合に大げさに言われています。例えば、宗教裁判による死者の数は出鱈目ばかりです。どれほど公教会が憐れみ深く判決を出したかは、裁判の判決文さえ読んでみたらすぐわかるのです。
大体の人々は、一次史料を無視しながらいろいろなことを断言するのですが、一次史料さえ読んだら、公教会がどれほど慈悲深く裁いていたかが分かっています。悪を成していた人々をあらゆる手段を尽くして最後の最後まで回心させて助けようとし続けていました。

またある病者が癌でも、いや壊疽にかかってしまっても、生き残る為に腐っている四肢の一本を切断することを一瞬も憚れません。当然でしょう。この病者が生き残る為に自分の四肢の一本を切断せざるを得ないことを決定した時に、かれに「なんだ!この酷い者。あなたの四肢の一本の尊厳はどうなるのか」と言われたら理不尽でしょう。違うでしょう。その四肢の一本のせいで、全身が腐りかけて、病者が死にそうになっているのではないでしょうか。切断しなければ死ぬことになるという状態です。

公教会もこういったような非常な状況に遭うこともあります。つまり自分の体から一部を切断し切り捨てなかったら、公教会全体が滅びるというような状況にあったら、切断せざるを得ません。つまり、悪と誤謬を公教会内に広めていく人々のせいで、公教会が滅びる危険に晒されている時に、健全な社会として自分の存続を守るべきです。

だからこそ、私たちの主イエズス・キリストは、聖ペトロに本物の指導権を与え給ったのです。この権能によって、体内で弊害を起こしている部分を切り捨てる権能があるのです。以上のような発想でそれらの歴史を見るべきです。

また、典型的な批判は、公教会が「科学」に反対しているとかもあります。有名なのはガリレオ事件ですね。一次史料を読むのをお勧めします。そうすると、すぐ明白になります。まずガリレオは何の虐待、何の厳しい刑も受けたことはないことが確認されます。しかも、ガリレオは、当時の教皇の親しい友人だったし、Bellarmin枢機卿のお陰でガリレオ事件は一旦何も問題なく収まったのです。ところが、残念ながら、数年後に事件が再発したものの、ガリレオが諸教皇や多くの枢機卿たちの庇護を得たのは事実です。

また、公教会はずっと学問の味方であり続け、学問を保護し続けました。ピオ十二世の御代を見たら、すぐわかるでしょう。ピオ十二世は科学を激励しました。どれほど多くのカトリック信徒が科学者で、学者で、天才であって科学の進歩に貢献し発明をしたかを見たら明白明瞭でしょう。以上のような課題は現代になって微妙に取り扱いにくくなりましたが、時間の問題でそれぞれ細かく深い入りできないものの、それぞれの問題に対して表面にとどまってはいけません。それではなくて、一次史料を中心にもうちょっと詳しく調べて見ようと思ったら直ぐ明白になってきます

そういえば、それぞれの課題に対して、公教会が何の遠慮も何の恐れも感じていません。簡単にそれぞれの真相を打ち出して、弁明することができるからですが、公教会に弁明させ得る余地も無くしているのは、どれほど不正なことでしょうか。

要するに、それぞれの問題に対して、歴史学の方法をもって一次史料を調べるのは第一の規則です。どれほど公教会が全てを施し続けてきたか再確認すればよいでしょう。使徒たちに向けて私たちの主イエズス・キリストが仰せになったことを思い出しましょう。ある意味で、公教会の「第五の特徴」であるといっても過言ではないかもしれません。とにかくカトリック教会の典型的な特徴です。

使徒たちに「この世があなたたちを憎むとしても、あなたたちより先に私を憎んだことを忘れてはならぬ」 と仰せになった通りです。そこで、公教会の第五の特徴とで呼ぶべき特徴は、常に迫害されていることです。もう当初から迫害されたし、そしてその後に現代までずっと絶えずに迫害され続けている教会です。

当然ながら苦痛を礼賛してはいけないのですが、確かに次のことが言えます。私たちの主イエズス・キリストを死なせたい気持ちがあったと同じように、公教会を死なせたい気持と迫害しようとする勢いが実際にあって、いまでも続いていることも間違いありません。だから、イエズス・キリストに続いて、公教会も迫害されています。でも私たちカトリック信徒はこの迫害を受け入れて、自分の霊魂と隣人霊魂たちの回心を得るための償いとして受け入れます



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