ファチマの聖母の会・プロライフ

お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

ペトロの否認 【公教要理】第三十九講 贖罪の玄義[歴史編]

2019年04月09日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第三十九講  贖罪の玄義・歴史編・その七・ペトロの否認



【真夜中の虐待】
私たちの主は衆議所(サンヘドリン)によって刑を宣告されたところです。ところが、夜中の集会だったので、その裁判の宣告には何の価値がありません。無効です。というのもユダヤの律法に従うと、有効な宣告を下すためには、サンヘドリンの集会は必ず昼間に行われるべしとの規定があったからです。

その後、どうなったでしょうか。私たちの主は独房に入れられました。夜中に具体的に何があったか不明な点が多いですが、恐らく番兵たち或いは番人たちに渡されて、虐められてしまったでしょう。その夜中に関して福音には遠慮がちであまり記されていないのです。福音者によると「イエズスを監視していた人々は、イエズスをあざけり、殴り」 などとあります。

その場面に対する福音の遠慮は分かりやすいでしょう。ひどく虐待されたに間違いありませんから。福音の続きは「目隠しして、「当ててみろ、おまえを打ったのはだれだ」と聞き、そのほかいろいろ侮辱の言葉を浴びせた」 とあります。また「イエズスにつばをかけ、下男たちもイエズスを打ちたたいた」 ともあります。だから、監視の人々は私たちの主を虐待して、私たちの主は抵抗をしなかったのです。私たちのために、私たちの罪を贖罪するために、すべての苦しみを受け入れてくださいました。



【無効の死刑宣告】
暁を控えて、夜中の残りの数時間の間に、私たちの主は独房に入れられてしまいます。暁になったら、合法的にサンヘドリンは集会することを控えていました。

暁になったら、実際に有効な宣告をするために、サンヘドリンが改めて集会しました。そして、もう一度イエズスがサンヘドリンの前に連れていかれました。福音者たちはその通りに記します。「夜が明けたときに」 と聖ルカが記します。聖マテオなら「夜明けになると」 とあります。御覧の通りに、福音者たちは、夜明けの時にこそ、日が出てからこそにサンヘドリンが集会したということを強調しています。

裁判の刑の宣告は前回と全く同じです。「この男は死に値する」 。しかしながら、ちょっとした問題があります。カイアファに至っては、生死を決める、つまり死刑を宣告する権能はもうありません。ユダ王家が王杖(権力のしるし)を失ってから、つまり、パレスチナがローマ帝国の一つの地方になってから、大司祭たちはもう死刑を宣告することはできなくなりました。ユダヤ人は生死に関する宣告をする権能はありません。だから、死刑を宣告したところで、それを執行させることはできないのです。従って、現地の、つまりエルサレムのローマ総督に告訴する必要が生じました。ポンシオ・ピラトです。


【聖ペトロは主を否む】

サンヘドリンの裁判の後からとポンシオ・ピラトの裁判が始まる時までの間に、聖ペトロの否認という場面があります。中庭に聖ペトロがいました。火の近くで体を温めていました。

「下女が一人近寄ってきて「あなたもあのガリラヤのイエズスと一緒にいた人ですね」といった」 。それに対して、聖ペトロが否みました。もう一回、もう一人の下女が彼の方言に気付いて、彼の正体が分かりました。
が、聖ペトロは自信をもって、もう一度否みました。誓いによる否認になります。
「私はそんな人を知らぬ」 と聖ペトロが言いました。深刻な否みです。聖ペトロは、イエズスと何の関係がないと言ってしまいました。

その少し前に「主よ、私はあなたのために命を捨てます」 といっていた聖ペトロなのに。また「先生、どこに行っても私はあなたについて行きます」 といった聖ペトロだったのに。しかしながら、私たちの主はこう忠告しておきました。思い上がったことだということを知らせました。
「私は言う。今日、今夜、雄鶏が二度鳴く前に、あなたは三度私を否む」 と予言されました。
予言されたとおりに、三回にわたって自分の主を否むと、雄鶏の声が聞こえました。そこで、私たちの主の言葉を聖ペトロが思い出しました。私たちの主は一体何をしたでしょうか。私たちの主は天主であり、良き天主です。だから、無限の慈悲の心を込めて、聖ペトロの方へ頭を向けてかれに目をやったのです。天主にしか持てない視線で聖ペトロをご覧になったのです。つまり、霊魂を貫くような視線、心の奥まで、霊魂の隅まで行く視線です。


聖ペトロは私たちの主の視線を受けて、お言葉を思い出しました。同時に、私たちの主の慈悲の御心をも思い出します
ユダも同じ慈悲の言葉を聞いたはずなのに。「友よ、あなたは口づけをして人の子を裏切るのか」 が言われたのに、ユダは慈悲の御心を無視しました
聖ペトロはユダと違って、私の主の視線をうけて、泣き出しました。聖ペトロの性格を考えると、彼の熱気らしい性格を考えると、聖ペトロが泣き出したと言われたら、ただのものではなかったわけです。悔しみ、いや深い悔しみの涙でした。
ある教父によると、その後ずっと、雄鶏が鳴くたびに、聖ペトロは泣き出したというほどです。確かに、彼の人生の最後まで、雄鶏の鳴き声は彼が裏切ったことを思出させたということは想像にかたくないのです。

聖ペトロは悔しみの涙をこぼしました。残念ながら、それと打って変わって、ユダがいます。

~~

【イスカリオトのユダ】
ユダも、裁判の成り行きを何とか見ています。彼のお陰で主が逮捕されたのですから。銀貨三十枚を貰ったユダですが、見て聞きました。死刑の宣告をも聞きました。「この男は死に値する」 。

ユダは悩みます。考えてみると当然でしょう。裏切ったので、気が咎めています。しかも、私たちの主をよく知っています。三年間ずっと傍にいました。良き天主なるイエズスがこの世に生きてきた道をずっとユダが見守ってきたわけです。だから、死刑の宣告を受けて、ユダの心がやましくなります。そこで、一体何をやるでしょうか。私たちの主を裏切った時に、ユダは、犯しそうな罪をそれほど考えなかったでしょう。そのどころか、賞金をばっかり考えていたでしょう。私たちの主を裏切ったときに、けちな欲望ということで一番動いていたでしょう。

しかしながら、銀貨三十枚を貰うと、恥の気持ちと恐怖の気持ちが彼を覆いました。
「司祭長と長老たちにあの三十枚の銀貨を返し、「私は罪なき者の血を売って罪を犯した」といった。」
ユダは、私たちの主イエズス・キリストが無罪であることを認めるということです。しかも、司祭長に知らせるのです。一つの証言でしかないものの、なかなかの本物の証言です。「罪なき者」と裏切者自身が言っているのです。続いて、「ユダはその銀貨を神殿に投げ捨て」 ます。


司祭長がこう応じます。「それがどうした。われわれはかかわりがない、おまえ自身のことだ」 。言い換えると、「我々は関係ない。自分でなんとかしなさい」という意味です。

残念ながら、ユダの悔悛は超自然的になっていませんでした悔い改めの第一歩が見られますが、成熟していませんでした。だから、赦しを乞わずに終わってしまいました。私たちの主、イエズス・キリストに赦しを乞ったら、頂けたに違いないのに。にもかかわらず、ユダは首吊り自殺してしまいました。

詩編には次の預言がありました。「呪いを好んだから、呪いは彼におよび、祝福を喜ばなかったから、祝福が彼を去るように」 恐ろしい預言といったら恐ろしいです。

司祭たちは金が返されたので、ちょっと困りました。血の値だから神殿の倉に納めることはできなかったからです。殺人に当たる値の金だったからです。で、銀貨三十枚で、「陶器造りの畑を買って」 外人の埋葬用に使わせれておきました。またアラマイ語で「Akeldama」と呼ばれて、「血の畑」という意味です。

まとめると、ユダという裏切り者がいます。
否認者あるいは背教者の聖ペトロがいます。
両方とも重い罪を犯しました。
私たちの主は常にお赦しを与えようとなさっておれます。
一人は赦しを受け入れました。自分の犯した罪を悔やんで泣き出して回心します。聖ペトロです。
残念ながら、もう一人は赦しを受け入れませんでした。自分で自分を御慈悲と切り離してしまった挙句、首吊り自殺をします。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。