白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による哲学の講話をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
Billecocq神父に哲学の講話を聴きましょう
本年度の新連続講座にようこそ。ご案内したとおり、今年は一人の著作者を徹底的に分析することにします。
ジャン=ジャック・ルソーです。彼について、多くのことが言われているし、流行っている作者です。
皆様は、ルソーのことを聞いたことがあるに違いありません。皆様はどれほど彼の著作を読んできたか分かりませんが、大体の場合、知られているのに意外と実際にはそれほど読まれていないか、少しだけしか読まれていないようです。一応面白い人物だと言えましょう。面白いというか、ルソーについての通説というか、何というか、大体の場合「フランス革命の根本的な理念(原理)」を確立した人物としてルソーが知られています。
革命の原理を確定したかについて議論の余地があったとしても、少なくとも、ジャン=ジャック・ルソーの遺体が「パンテオン(革命が偉大だと評価した人物を葬るパリの建物)」に置かれているぐらい「不吉な人物」であると言えるでしょう。パンテオンに遺体があるのは象徴的なことです。この事実だけをみても、ジャン=ジャック・ルソーという人物の位置付けは自明でしょう。要するにルソーがパンテオンの門の上に刻まれているように、「祖国 が偉大な人に感謝している」一人の名人であることは揺るがない事実です。
ルソーを紹介しようと思った時に、どうすれば一番良いでしょうか。難しいことですけど、この連続講座は今年、五回ほどルソーについての講演をするので、一回ごと一つのテーマに絞ってルソーをご紹介します。毎回一つのテーマに絞って説明していきます。そうすると、多様な観点からルソーを見る効果があると同時に、幾つかの哲学上の概念を復習します。政治哲学なり、政治じゃない哲学上の概念なり、心理学上の概念などもちょっと触れれば何より幸いです。こうした方が、ルソーを理解するために一番やりやすいと思ったからです。その上で、できれば、できるだけ、ルソーの著作の原文自体をご紹介していきたいと思います。ルソーの書いた文章を知って頂けば、私の話に肉付けするために一番分かりやすいし、やりやすいでしょうから。
【これからのテーマ】
今回の第一講演は比較的に手短になると思いますが、「ルソーの人生」をご紹介していきたいと思います。今回は分かりやすくて疲れない話になると思います。ルソーの人生自体は疲れる人生でしたけど、今晩はルソーの人生に絞ってご紹介していきたいと思います。
これからの四回の講演の時には、四つのテーマをご紹介します。順番は前後になる可能性がまだありますが。
第一のテーマは「ルソーと芸術」についてです。ルソーが「芸術」について多く言及したし、彼の書かれた最初の大作は芸術についてでしたから。その際、ルソーの二つの著作をご紹介する予定です。『ダランベール宛の書簡』と『学問芸術論』です。後者はルソーが書いた最初の「ディスクール(論)」です。現代では「芸術」を語ることはかなり稀になってきたので、面白いテーマだと思いました。芸術について語るときに、社交上の話ぐらいでは、あまり深入りしませんね。「芸術」を特徴づけるのは何であるか、政治上の位置付はどうなっているか、どうすべきか、というような大事なテーマはほぼ触れられていません。だから、そのテーマを機に、芸術に関する哲学上の基礎をちょっとご紹介して、糧になればなによりです。
第二のテーマは「ルソーと政治学」です。このテーマこそは一番普段にルソーに語られている課題ですから、ある意味で一番分かりやすい部分である、少なくともルソーの特徴を理解するために一番役立つテーマでしょう。というのも、ルソーの一番有名な理論は、彼の政治論だからです。政治というテーマでルソーの名作は『社会契約』なのです。また、ジャン=ジャックの二つ目の「ディスクール(論)」もあります。『人間不平等起源論』もあります。以上の第二のテーマの時にご紹介する著作です。
第三のテーマは「ルソーの教育論」です。その際、カトリックによる教育観を復習する機会にもなります。その時に、『エミール または教育について』を中心にご紹介する予定です。
最後に触れるテーマはより難しいテーマにはなりますが、「ルソーと信仰と宗教」というテーマにしたいと思います。それを分析するために、『エミール または教育について』という著作の最後の部分である「サヴォワの主任司祭の信仰宣言」という文章を中心にご紹介したいと思います。そして、ルソーの宗教観というテーマについて、ルソーの面白いヴォルテール宛ての一通の書簡もあります。
以上、今年、ご紹介していく四つのテーマです。そうして、ルソーの諸著作をご紹介し、我々現代人にとっても、関心のある幾つかのテーマをご紹介できたらと思います。ルソー論をご紹介するきっかけに、本来の良き原理・理念をご紹介できればと思います。こういった本来の良き原理から出発して、どうやってルソーがこれらについて語ってきたかということをご紹介できればと思います。
テーマについては以上の通りです。
【ルソーの人生】
さて、今日の講演の題目は「ルソーの人生」です。私は歴史家ではありません。年表も出来事も私には非常に覚えづらくて歴史家の才能が残念ながら私に欠如しています。いくら読めても、なぜか年表は覚えられないのです。だから、今日だけは歴史家でない私の話を聞いて下さる皆さまは可哀そうでしょうけど、何とか頑張らせていただきます。
ルソーの人生を理解するために、二つの入門書をお勧めしたいと思います。
一つ目は、人生だけではなく、ルソーの思想をも論じるので哲学的な側面もありますが、ジャック・マリタンの「三人の改革者」という入門書です。本当に優れている小さな論文で、「三人の改革者」と題しています。三人の改革者はだれであるかというと、デカルト、ルターとルソーです。マリタンにとって、この三人こそが、世界のすべてを改革した人物なのです。哲学上の改革はデカルト、政治上の改革はルソー、宗教上の改革はルター。
マリタンの結論に関して、一つだけ警戒を言い出しましょう。確かルソーに関しての結論だったと思いますが、マリタンには「人格主義」という傾向があります。つまり、人間において「人格」と「個人」をほぼ現実的な区別として捉える傾向がある「人格主義」です。そして、マリタンは「共通善」よりも「人格」を優位に立たせるという誤謬に偏りがちです。それだけを指摘しておきましょう。
「三人の改革者」をお勧めします。読みやすいし、マリタンは、二番目に紹介するルソーについての部分を「ルソー、自然の聖人」と題しています。ルソーを特徴づけるために、よく当たっている表現だし、正しい表現だと思います。
また、ルソーの人生について、もう一つの書籍を熱くお勧めします。ベルナール・フェ Bernard Fayによる「ジャン=ジャック・ルソー」という書籍です。Fayはルソーが自分自身のことを語った文章を多く拾ってルソーの人生を紹介します。確かにルソーの諸著作の特徴は「ルソーが自分を語る」ということです。「ルソーは自分を思う」とも言えるでしょう。ともかく、Fayがとりわけ『孤独な散歩者の夢想』と『告白』をはじめ、ルソーの諸著作に参照しながら、ルソーの人生を紹介します。そして、ルソーの人生を立派に紹介することに成功します。ルソーの人生は細かく具体的に語られています。これは、ルソーの後を一歩一歩追いながら、それぞれの風景の描写も美しく、彼のそれぞれの行為と行動を旨く描写し表現している書籍です。しかも、書きぶりも本当に良くて堪能できる一書です。
ついでに、今ちょっとだけFayの書籍の文章を読んで堪能していただきたいと思います。序文の部分です。序文はとても短いので。そういえば、序文が短いのは良いことですね。短いと本を読みたくなりますが、序文が長ければ長いほどに逆ですね。本番に入る前に、「それほど長い文書が必要だなんて」ということを気付いた時に本を読む気は少なくなりますね。さて、引用しましょう。
「今より二世紀前からずっとルソーについて多く語られてきました。好意をもって、熱心をもって、熱狂をもって、教養をもって、策略をもって、不実をもって、嫌悪をもって、ルソーについて多くがばらばらに語られました。時にルソーについて愚かさをもって語られたこともありました。そしてそれはそれで敬意を払うべき膨大な批評とはなりますが、あまりにも多く存在するので、中心になるはずの著作者自体が、そしてその特質とその人間性を見失う恐れがありましょう。私もルソーから引力を感じて彼について長く勉強し続けました。最初は彼の著作を堪能しました。彼に魅力されたし、怒りもしたし、魅惑されました。ある日、ルソーを理解したい気持ちになりました。自分自身のことを一度も自らで理解したことのない人間について、私が理解しようとするのは厚かましかったかもしれません。しかしながら、自分自身を自分で理解できなかったルソーは、少なくとも自分のことを謝り、自分のやったことを正当化し、自分を称賛することぐらいはしました。私は最初にルソーの行動を見た上で、ルソーを理解しようとしたのですが、彼の行動は曖昧のままで両義性があると思いました。
また、ルソーの思想を見た上で理解しようと思いましたが、彼の思想はどうしてもよく把握できませんでした。私の検討を逃げるかのようにルソーが感情へ逃げ込んで、それらの感情は暖かくなりながら、不安定でもあったと気づくようになりました。彼の『告白』を何度も読み返しました。眩しい幻、とらえどころのない幻覚、偽りの幻影。彼を読み込んだ挙句、彼のことを私は夢で見始めました。夢で彼を見た時、彼の本当の人物といよいよ出会うことができました。ルソー自身も語るように、ルソーの人生は夢だったのです。それ以外なんだったでしょうか。
また、ルソー自身が神話でした。ルソーは確かに生きていたことは生きていましたが、夢を見るために生きていたのです。ルソーの残したのは、終わらない夢の連鎖に過ぎません。ただ彼の才能によってその夢は美しくされて、時にはかれの興奮が注がれた夢になるか、あるいは時には懐中の情けに満ちた夢にもなります。ルソーはどうせ夢の中に生きていたので、私がその高い雲だった夢の世界に、彼を探し出しに行き、彼をいよいよ見つけたのです。」
書きぶりは悪くないでしょう。残りの全書も同じ書きぶりで、美しいスタイルになっています。堪能できる書籍です。書きぶりはね。描写される人物は美味しくないということは紛れもない事実ですけれど。そして、この本の副題は「ジャン=ジャック、人生の夢を見る」です。
【ルソーの人生の生い立ち】
さて、ルソーの人生の本番に入りましょう。生まれた年は1712年です。つまり、彼の人生は18世紀のど真ん中となります。生まれたのは、1712年6月18日のジュネーヴです。フランスのパリを逃げた家庭に生まれました。というのも、彼の家族はプロテスタントだったからです。フランスからスイスへ亡命した家族でした。まあ、確かにその出生は恵まれていないかもしれません。プロテスタント信徒として生まれることになります。プロテスタントの洗礼を幼児の時に受けました。生まれてから二十日間ぐらいが経って、ルソーの母がなくなりました。つまり、ルソーは自分の母をすぐ失い、母を知りませんでした。ルソーの母は同年7月7日に亡くなっています。母なし育ちました。父に育てられます。父は主に狩りをして生計を成り立たせていました。ルソーは特に大切にされた子供でした。父と一緒に、ルソーの伯母も彼の世話をずっとやってきました。多くの愛が注がれた子でした。愛情のこもったこういった環境でルソーが開花したと言えます。ルソーは愛され、愛されていることをよくわかっていました。
また、指摘すべき点は、ルソーが魅力的な人物だったことです。Bernard Fayがそれを何回も強調しています。年齢を問わず、ルソーはずっと魅力的な人物だったのは確かのようです。それは想像に難くない性質でしょう。彼の諸著作を読んでも、その魅力さがいつでも感じうるでしょう。彼の諸著作は文学的に言うとやっぱり綺麗で魅力的ですから。つまり、ルソーの書きぶり自体はなかなかよく出来ているのは事実です。ルソーは魅力があるし、そして魅力があることを彼は知っています。その魅力を示す話があります。Bernard Fayが次の話を紹介します。
ルソーが幼い時に、何かの悪戯(いたずら)をやったせいで、「食事なし」の罰になりました。父が「食事なし」という罰をルソーに与えました。すると、ルソーが家族の全員に丁寧にご挨拶をし、テーブルを去り、何かの動物を焼いている暖炉の前を通りかかりました。暖炉の前でルソーは立ちとどまって「おやすみなさい」と丁寧に焼かれていた動物に挨拶をしました。すると、父がそれを見て笑って、罰をやめることにするのです。テーブルにルソーを戻して、結局、普通に食べられたという話です。こういった例で確認できるように、ルソーには紛れもない魅力があるのです。
後は、ルソーという子は穏やかな静かな子だったのも、間違いありません。愛の注がれた環境で育たれながら、かなり早い段階で、父に指導されて読書を教わったのです。ルソーはずっと読書好きで多くの本を読みこなしてきました。父は彼に本を読ませていたし、また、父が朗読して、息子に読み直してもらったりしていました。声に出して読み合う感じです。古典も含めて。ルソーという子の憧れた一つは、古代ローマ人の英雄的な行動だったそうです。また、ルソーは小説を読むのも好きでした。
問題はルソーを勉強させるときに、読書ほどに旨く行っていなかったことです。まず、ルソーの父が裁判を避けるためにVaux州を去って亡命せざるを得なくなります。父が亡命するが、息子を叔父に託すことになっています。ジャン=ジャック・ルソーは父と一緒に行きません。父が去って叔父の所に住むようになったのは、ルソーの10歳の時でした。そして、10歳にもなったので、何か仕事をさせることになりました。あちこちに見習いとして従事させてみたのです。その一つの見習いの経験は、(裁判所の)書記の所に働きに行くことでした。ただ、ルソーはどうしても怠惰な性格で、あちこち見習いに行っても、休憩時には必ずルソーがジュネーヴの壁外へ散歩に行っていました。当時はジュネーヴにはまだ壁に囲まれていたので。ルソーは壁外に行って、野原や森を散策することが大好きだったのです。確かに、ルソーの諸著作を読むと、とりわけ『告白』を読むと、ルソーがどれほど野原を熱愛しているか、どれほど冒険に夢中になっているか、どれほど孤独な散策こそを熱愛しているかよくわかります。それは間違いないことで、因みに彼の性質の一つの特徴として覚えておくべきでしょう。
その性格を語る次の話があります。ある休憩の時に、もしかしたらある日曜日の時だったかもしれません。Bernard Fayは日曜日の時だったと書いています。いつも散策に行っていたルソーでしたが、その日に町に戻る時に、壁の門が閉まっていました。壁外に一人ぼっちで入ることができません。そのせいで、見習いとして雇われている所の契約をその日の分に果たすことは不可能となってしまいました。すると、ルソーは、その状況を受けて、町を逃げてしまうのです。さりげなく。16歳の時でした。そして、その近くの村に避難し、その村の主任司祭の許に行きました。なぜ主任司祭の所に行ったかというと、当時なら、主任司祭という存在がまだ尊敬されて、困った時に助けてくれるという評判だったからです。まあ、ルソーから見ると、主任司祭の信仰を聞くつもりはなかったようです。でも、一応、主任司祭はルソーに対して優しくしてくれて、彼を雇ってくれるし、ルソーが彼を気に入っていました。これもルソーの性格の特徴的な点です。
ルソーが相手を評価する時に、いつもその司祭の時と全く同じパターンとなっています。ルソーの全人生を見ても変らない性格です。多くの場所に旅行してきたし、多くの地方を歩いたルソーがいつもそうでした。
ルソーはいつも全人生に亘って旅してばかりいて、彼の性格は落ち着きがなく、どこもいつも不安定です。あまり、同じ場所に長く泊まることはできず落ち着かないタイプです。人を出逢う度に、相手を評価することに当たって、心で判断します。頭の理性で判断するのではなく、心で相手を評価します。つまり、「直感的」に、相手のことを知らなくても、相手の正しい評価はできなくても、いきなり「惚れてしまう」ような性格を持つルソーです。だから、その主任司祭に遭った時に「惚れてしまった」パターンというか、非常に「大のお気に入り」となります。主任司祭がルソーに「カトリックへの改宗」を勧めると、ルソーが「いいじゃん」という感じで応じて、改宗することを受け入れました。
ということで、次に主任司祭は、最近回心した婦人のいるスイスのヴヴェー(Veuvay)村へルソーを連れて行きました。Madame de Varins(ヴァランス夫人)という婦人です。ヴァランス夫人という人物はルソーの人生の中で非常に大事な人物となります。ヴァランス夫人の住まいに到着して、彼女と初めて出会った時に、ルソーはやっぱりひと目惚れしました。彼女もルソーのことをひと目惚れしたようです。当時、ヴァランス夫人はまだ比較的に若かったのです。確か三十歳ちょっと以下だったと思います。ルソーは16歳辺りでした。次は、ルソーの改宗へ向けて、公教要理を勉強しなければならないということで、トリノ市へ行くことになりました。つまり、Veuvayからトリノに行く知り合いがちょうどいたついでに、ルソーも一緒にトリノに行って、そこで女子修道院で公教要理の教えを受けることになりました。ルソーは改宗志願者だったわけです。
ルソーには、正確には、どうしても傲慢心があったので、改宗までの間に、彼はちょっと目立った改宗志願者として教師たちによっても目をつけられました。まあ、ルソーは度を超えなかったので、それでも改宗は無事に出来ました。1728年4月23日、カトリック洗礼を無事に授かりました。洗礼志願だった時代のルソーの一番の喜びは、トリノ市を散策するということでした。要するに、余り稼がないで、運に頼って、生計を立てずに、毎日を冒険のようにふらふら散策したりして生活しているという日常でした。金がなくなりそうな時に、何とかちょっとした「バイト」であちこち何とかちょっとした金を稼ぐのです。仕事だけは相次いで見つけることだけが見つけるのですが、長く同じ仕事にいられなくて、いつも不安定なのです。
この時代に、次の話があります。ある日、ある仕事に就いた時に、ルソーが大嘘をつきました。あるどこかの引っ越しの際、たまたまそこにあった桜色のリボンを見つけました。なぜかルソーはそれを気に入って、自分のものではないのに取ってしまいました。そういった行為も、ルソーの「直観的」な性格をよく物語っています。「好きだから、盗んでしまう」。ルソーを理解するために、やっぱり直感・本能という性質が非常に強いことを理解しなければなりません。
話に戻ると、ルソーがそのリボンを取ってしまうと、後で上司が桜色のリボンを見かけなくなったから、「だれか、どこにあるか見たか」と従業員に聞きました。その時に、ルソーは黙ったままでした。そして、その後に、ルソーの手袋に桜色のリボンが入っていたことが明らかになりました。すると、ルソーはどうしたかというと、家の女性の料理人が犯罪者だと嘘をつきました。結局、料理人は罰せられなかったようです。ルソーが料理人を咎めたので、上司はルソーと料理人を対決させてみますが、何も結論が出なかったので、結局罰はなかったということで終わりました。ルソーも料理人も「私はやっていない」という立場を固く断言していたので。
だから、上司にしても、仕方がないわけです。犯罪者を明らかにするのはできないまま、上司は罰を与えることはできませんでしたが、次のような結論で終わったそうです。
「盗みを犯した犯罪者の行った悪事が、彼の良心を咎めるだろう」みたいなことを上司が言ったようです。確かにこの事件はルソーに印象深く残りました。可愛そうな料理人ですね。
まあ、こういったようにルソーは人生を送っていたのです。かなり不安定にやっていました。ルソーのトリノでの滞在は一年とちょっとでした。その時期に何人かの仲間と友達ができたし、そして、何人かの女性にも恋していたようです。また、ルソーは綺麗だなと彼が感じる女性に会うたびに惚れるような感じで、大体ルソーがその女性をたらし込もうとしています。こういった恋愛などはたぶん精神的に留まるのですけれども、特徴として長く続きません。同じ気持ちにあまり留まれないルソーで、恋愛面でも不安定で次々に変わります。ルソーの不安定という特徴だけは、いつも変わらず安定している特徴でした。
結局、自分自身も言うように「自分について絶望したルソー」、そしてどうせ周りも皆、ルソーのことをがっかりして、ルソーはスイスに戻ることになります。ヴァランス夫人の所に戻るのです。ヴァランス夫人と再会すると、あえて言えばルソーが改めて「惚れる」ことになり、間もなくヴァランス夫人の家に泊まることになります。ルソーはヴァランス夫人を親しく「母さん」とずっと呼んでいました。逆にもヴァランス夫人がルソーを親しんでずっと「坊や」と呼んでいました。
【ルソーと音楽】
ところで、ルソーは何とか稼がざるを得ないのですが、ルソーの不安定と怠惰の性格から、なかなか旨く行かず、余り仕事はしませんでした。結局、辛うじて大聖堂の聖歌隊での仕事が紹介されました。ルソーは歌がうまく、音楽に興味を持っていました。そういえば、彼の音楽好きの特徴は一般的にそれほど知られていないかもしれません。しかしどちらかというとルソーの人生において大事な一要素なのです。音楽を好み、聖歌隊で働いた時代に、一人の聖歌隊員と友情をもり、仲間となりました。問題はその一人が評判の悪い人で、良い青年ではなかったのです。ヴァランス夫人をはじめ周りの人々にも警告されていたのに、ルソーは自分の友達に対して客観的な評価はできず、分別を欠いていました。「彼と関わることを止めよう」といったような判別力を、ルソーはなかなか持てなかったのです。これもルソーの性格を知るためになかなか面白い例だと思います。ルソーはいつもこういった性格でした。直感と感情で動くタイプの人物です。
【リヨンに行くがすぐスイスに戻る:困難なことから逃亡する】
それを見て、ヴァランス夫人は何とかルソーをその子から離れさせようとしました。そのために、聖歌隊長が町を何かの理由で去ってリヨンに行くことになった時、ヴァランス夫人はルソーに聖歌隊長と一緒に行くように頼みました。すると、ルソーは師匠と一緒に町を去りました。私の記憶が正しければ、リヨンに到着するや、師匠が町を歩いて人前で癲癇(てんかん)の発作を被ったのです。つまり、師匠が地面に転げ回ったり、泡立った唾を吐いたりするような発作(ほっさ)でした。ルソーはパニックしました。一応、師匠をどこかに泊まらせるようにと周りの人に聞かれてルソーは答えるのですが、その後、ルソーはそのままに逃げます。師匠から離れて逃げました。そこで、スイスにもう一度戻ることになります。一年ぐらい彷徨(さまよ)うことになりました。音楽論の教室をあちこちして、ちょっとして稼ぐのですが、本当のところルソーは音楽理論について何も全く知らなかったので、はったりをかまして教えていました。最初は相手が気付かないのですが、間もなく、いくらたっても生徒が上達しないので、当然ながらあまり長つづきできません。
次の場面もありました。ある音楽の夕べに誘われた時に、そこで何かの曲を弾いてくれないかと頼まれました。ルソーは受け入れて弾いてみるのですが、参加者全員が笑い出した、という話があります。皆に笑われて、ルソーは深く面目をつぶされたと感じたようです。それは兎も角、音楽教室をやって、音楽を好んでいる人々と付き合うおかげで、ルソーは少しずつ音楽の知識の基礎を何とかちょっとだけでも得るようになりました。その一年の間に、音楽教室以外にも、ルソーは多く散策していました。ルソーはやっぱり散歩・散策するのが大好きです。夢想にふけることが大好きなのです。だいたいの場合、散策する間に、どっかに出会って惚れた「女性」のことについて夢想するのが特に好きでした。また、ヴァランス夫人の事を頻繁に思っていました。ルソーは誰よりもヴァランス夫人を尊敬していました。
【モンペリエ、リヨン、パリ】
次は、フランス南部のモンペリエに行きます。その理由は、ルソーに心臓の問題が出たということで、行くように言われたからです。なにか心臓病ではないかという疑いがありました。
モンペリエでは、依然同じようなパターンを繰り返していました。若い女性と出逢って一目惚れしました。おそらく、精神的な恋愛にとどまったと思われます。でもどうでしょうか、彼は天使のような人物でもなかったのです。
モンペリエに滞在してから間もなく、リヨンに行きました。そこで、コンディヤックという啓蒙思想家と知り合いました。エティエンヌ・ボノ・ド・コンディヤック。1740年当たりに出会った同世代です。
ルソーは30代です。コンディヤックはルソーの二歳下なのですから、同世代です。そして、リヨンではダランベールとも知り合って友達となります。それをきっかけに、「啓蒙」の世界に初めて足を踏み入れることになりました。ダランベールはルソーの5歳下です。まあ30歳になる辺りだと、世代は大体一緒と言えましょう。リヨンでこういった友達ができた上、パリへ向かいました。パリでは音楽関係の仕事に就こうとしました。ここでも音楽でした。後でも見られるように、ルソーは全人生において結局、音楽で稼ぐようになっています。
そういえば、音楽についての論文を書くことも試みました。新しい記譜法を作ってみました。私の記憶が正しければ数字を使う記譜法だったと思います。ところが、この記譜法は完全に大失敗に終わりました。とにかく、パリに住んで、写譜者として働きます。それほど音楽上の知識がなくても出来る仕事で、さすがにルソーらしいです。ルソーはどうせ怠惰で、散策することが大好きですから。やっぱり、ルソーの一つの性格の特徴は怠け者ですね。パリでは、写譜の仕事しながら、町を楽しむのです。現代に比べたら、当時のパリの方が小さかったし、自然も多かった、広い場所もあったし、もうちょっと自由に動けた町でした。
パリでディドロと知り合いました。面白い出会いでしょう。ディドロと啓蒙家らの世紀です。ディドロは1713年生まれで、ルソーの一年下です。啓蒙家はやっぱり大体皆、同世代です。ディドロとその他の知り合いを通じて紹介されて、「サロン(パリ社交界)」に足を運ぶようになりました。有名な18世紀のサロンですね。それらのサロンで話し合っていて、あえて言えば来たる革命が策略されているサロンです。新しい思想はそこで流されて、交換されて、そしてサロンの外のエリート層にも流れていく影響力のあるサロンでした。
こうしてルソーはサロンに通うことになりますが、必ずしもいつも歓迎されているわけでもありません。ある時ルソーはイタリア人の大使と知り合いました。その大使はルソーの文学上の能力を評価して、ルソーを秘書として雇いました。
【ヴェニス】
つぎは、大使の後を追って、一緒にヴェニスに行くことになります。というのも、ルソーは以前トリノに一年間ほど滞在したので、イタリア語が流暢にできたからです。年表はちょっと前後してしまいますが、その時の一つの場面をご紹介しましょう。ある時に彷徨っていた時代に、散策していたらある男と出逢いました。その男は、ギリシャ正教会の修道院長だと自称する人物でした。そして、トリノにいたのは、「聖域の独立のために運動しているからだ」とその人物が言っていました。その男は空威張りに過ぎなかったものの、ルソーは騙されてその男に金を渡してしまいました。自称の肩書きを主張していたその男は、たんなる詐欺師で金を貰おうとしていただけでした。そして、ルソーは相手が詐欺者であることを見抜く分別力を全く欠如していたので、相手を正しく評価できず、その男の話に乗りました。ちょっとだけ乗ったのではなくて、かなり長い間にその詐欺者の後に付いていたし、詐欺であることがばれるまでその後に付いていました。ルソーは嘘が分かった時、騙された悔しさで泣き出したと明かしますが。今の話は、ルソーの分別力の欠如を良く物語る話なのでご紹介しました。
元の話に戻ると、大使館の秘書官として、ヴェニスに行くことになりました。ヴェニスの滞在の間に、当時の有名な音楽者と出逢いました。また、ヴェニスではルソーの大好きな「移り気」な空気を満喫できました。放蕩の雰囲気にあって、ルソーはその雰囲気が気に入ります。それだけではなく、ヴェニスでの滞在の時にこそ、ルソーは本当の意味で初めて政治活動を経験することになります。従ってルソーが政治について考え始めたきっかけはヴェニスで見たことでした。ヴェニスは都市国家で、政治的に言うとすべてが揃っていながらも小さくて全体図が見やすいところがありましょう。ヴェニスでの滞在は一年以内でした。そういえば、いつも転々と動く分、ルソーの人生を整理するのは難しくなります。
【パリに戻る:同棲、結婚】
ヴェニスでの一年間の後に、パリに戻ることになります。パリでは、テレーズ・ルヴァスールと同棲します。結局、その後に結婚しましたが。ルソーは熱心なカトリック教徒でもなく、そういった結婚の掟を破っても平気で躊躇うことはなかったようです。どうせ、かつてトリノに行ってカトリックに改宗したのは、憧れのヴァランス夫人に勧められたことと、それでちょっとした金を貰えたからに過ぎないので、熱心なカトリック信仰心を持つわけがありませんね。テレーズ・ルヴァスールと同棲し、彼女と間に5人の子供をもうけることになりました。1747年から1751年までの間に、5人が生まれました。ところで子どもが生まれた途端、ルソーは五人とも捨て子の団体に預けました。要するにルソーは、卑怯にも自分の子を捨てるのです。このこともルソーの性格の不安定さを象徴的に示します。
【子供を全て捨てた理由:皆が自分の敵であるという偏執狂(パラノイア)があった】
面白いのは、ルソーは自分の著作では自分の子を捨てた幾つかの理由を挙げています。彼が記す一つの大きい理由は「妻の家族から子どもを離れさせてあげる」ためです。あえて言えば、気持ちだけは理解できるかもしれませんが、その理由はルソーのもう一つの性格の特徴を示します。つまり、ルソーが偏執狂だからです。それは本当のことで、いつも、皆が彼を敵にしているということをルソーが常に感じざるを得なかったのです。彼の晩年になって、感じだけではなく、確かに実際に皆が彼の敵になるようになりましたが。
でも、彼が本当に偏執狂で、皆が自分のことを責めているように感じていた挙句に、実際に皆を敵に回してしまったのです。『告白』を読んでも、人類全員がルソーのことを恨むかのように書かれていますね。
【子供を全て捨てた理由:子どもを育てる金がない】
捨て子の団体に自分の子を捨てた第二の理由として、「子どもを育てる金がないから」とルソーは記します。
【子供を全て捨てた理由:祖国こそが我が子を良き市民にするため】
第三の理由として、これは彼にとっての一番重い理由になると思われますが、「自分の子を捨てたのは、市民的な行為であり、祖国こそが我が子を良き市民にするためだった」といった感じの理由を記します。なんて卑怯でしょうね。そういえば、ヴォルテールもルソーの卑怯さをはっきりと咎めていました。要するに、ルソーが5人子供いたのに、全員を捨てました。にもかかわらず、「教育論」を書くことになります。まあ、いつもあることですね。「教訓」を偉そうに与えながら、自分に関してはやらない。
パリでは、百科全書の作成に参加しました。有名な百科全書のことです。ダランベールやディドロなどが参加した百科全書作成ですが、ルソーは音楽についての項目を担当することになりました。御覧の通り、その時点でルソーの書いた物には哲学のような文章は何もありません。まだ、何も書いていなかったのです。つまり、1747~1748年の時点で、まだ何も書いていませんでした。音楽についてのちょっとした文書が少しあるぐらいで、文学上のルソーはその時点でまだ存在しない、というかまだ無名でした。どうせルソーは不安定な生活しているので、もうちょっとしっかりとした人間関係を結ぼうとします。というのも、金を稼いで、より豊かな生活したいと思っていたのです。それだけです。
《続く》
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
Billecocq神父に哲学の講話を聴きましょう
本年度の新連続講座にようこそ。ご案内したとおり、今年は一人の著作者を徹底的に分析することにします。
ジャン=ジャック・ルソーです。彼について、多くのことが言われているし、流行っている作者です。
皆様は、ルソーのことを聞いたことがあるに違いありません。皆様はどれほど彼の著作を読んできたか分かりませんが、大体の場合、知られているのに意外と実際にはそれほど読まれていないか、少しだけしか読まれていないようです。一応面白い人物だと言えましょう。面白いというか、ルソーについての通説というか、何というか、大体の場合「フランス革命の根本的な理念(原理)」を確立した人物としてルソーが知られています。
革命の原理を確定したかについて議論の余地があったとしても、少なくとも、ジャン=ジャック・ルソーの遺体が「パンテオン(革命が偉大だと評価した人物を葬るパリの建物)」に置かれているぐらい「不吉な人物」であると言えるでしょう。パンテオンに遺体があるのは象徴的なことです。この事実だけをみても、ジャン=ジャック・ルソーという人物の位置付けは自明でしょう。要するにルソーがパンテオンの門の上に刻まれているように、「祖国 が偉大な人に感謝している」一人の名人であることは揺るがない事実です。
ルソーを紹介しようと思った時に、どうすれば一番良いでしょうか。難しいことですけど、この連続講座は今年、五回ほどルソーについての講演をするので、一回ごと一つのテーマに絞ってルソーをご紹介します。毎回一つのテーマに絞って説明していきます。そうすると、多様な観点からルソーを見る効果があると同時に、幾つかの哲学上の概念を復習します。政治哲学なり、政治じゃない哲学上の概念なり、心理学上の概念などもちょっと触れれば何より幸いです。こうした方が、ルソーを理解するために一番やりやすいと思ったからです。その上で、できれば、できるだけ、ルソーの著作の原文自体をご紹介していきたいと思います。ルソーの書いた文章を知って頂けば、私の話に肉付けするために一番分かりやすいし、やりやすいでしょうから。
【これからのテーマ】
今回の第一講演は比較的に手短になると思いますが、「ルソーの人生」をご紹介していきたいと思います。今回は分かりやすくて疲れない話になると思います。ルソーの人生自体は疲れる人生でしたけど、今晩はルソーの人生に絞ってご紹介していきたいと思います。
これからの四回の講演の時には、四つのテーマをご紹介します。順番は前後になる可能性がまだありますが。
第一のテーマは「ルソーと芸術」についてです。ルソーが「芸術」について多く言及したし、彼の書かれた最初の大作は芸術についてでしたから。その際、ルソーの二つの著作をご紹介する予定です。『ダランベール宛の書簡』と『学問芸術論』です。後者はルソーが書いた最初の「ディスクール(論)」です。現代では「芸術」を語ることはかなり稀になってきたので、面白いテーマだと思いました。芸術について語るときに、社交上の話ぐらいでは、あまり深入りしませんね。「芸術」を特徴づけるのは何であるか、政治上の位置付はどうなっているか、どうすべきか、というような大事なテーマはほぼ触れられていません。だから、そのテーマを機に、芸術に関する哲学上の基礎をちょっとご紹介して、糧になればなによりです。
第二のテーマは「ルソーと政治学」です。このテーマこそは一番普段にルソーに語られている課題ですから、ある意味で一番分かりやすい部分である、少なくともルソーの特徴を理解するために一番役立つテーマでしょう。というのも、ルソーの一番有名な理論は、彼の政治論だからです。政治というテーマでルソーの名作は『社会契約』なのです。また、ジャン=ジャックの二つ目の「ディスクール(論)」もあります。『人間不平等起源論』もあります。以上の第二のテーマの時にご紹介する著作です。
第三のテーマは「ルソーの教育論」です。その際、カトリックによる教育観を復習する機会にもなります。その時に、『エミール または教育について』を中心にご紹介する予定です。
最後に触れるテーマはより難しいテーマにはなりますが、「ルソーと信仰と宗教」というテーマにしたいと思います。それを分析するために、『エミール または教育について』という著作の最後の部分である「サヴォワの主任司祭の信仰宣言」という文章を中心にご紹介したいと思います。そして、ルソーの宗教観というテーマについて、ルソーの面白いヴォルテール宛ての一通の書簡もあります。
以上、今年、ご紹介していく四つのテーマです。そうして、ルソーの諸著作をご紹介し、我々現代人にとっても、関心のある幾つかのテーマをご紹介できたらと思います。ルソー論をご紹介するきっかけに、本来の良き原理・理念をご紹介できればと思います。こういった本来の良き原理から出発して、どうやってルソーがこれらについて語ってきたかということをご紹介できればと思います。
テーマについては以上の通りです。
【ルソーの人生】
さて、今日の講演の題目は「ルソーの人生」です。私は歴史家ではありません。年表も出来事も私には非常に覚えづらくて歴史家の才能が残念ながら私に欠如しています。いくら読めても、なぜか年表は覚えられないのです。だから、今日だけは歴史家でない私の話を聞いて下さる皆さまは可哀そうでしょうけど、何とか頑張らせていただきます。
ルソーの人生を理解するために、二つの入門書をお勧めしたいと思います。
一つ目は、人生だけではなく、ルソーの思想をも論じるので哲学的な側面もありますが、ジャック・マリタンの「三人の改革者」という入門書です。本当に優れている小さな論文で、「三人の改革者」と題しています。三人の改革者はだれであるかというと、デカルト、ルターとルソーです。マリタンにとって、この三人こそが、世界のすべてを改革した人物なのです。哲学上の改革はデカルト、政治上の改革はルソー、宗教上の改革はルター。
マリタンの結論に関して、一つだけ警戒を言い出しましょう。確かルソーに関しての結論だったと思いますが、マリタンには「人格主義」という傾向があります。つまり、人間において「人格」と「個人」をほぼ現実的な区別として捉える傾向がある「人格主義」です。そして、マリタンは「共通善」よりも「人格」を優位に立たせるという誤謬に偏りがちです。それだけを指摘しておきましょう。
「三人の改革者」をお勧めします。読みやすいし、マリタンは、二番目に紹介するルソーについての部分を「ルソー、自然の聖人」と題しています。ルソーを特徴づけるために、よく当たっている表現だし、正しい表現だと思います。
また、ルソーの人生について、もう一つの書籍を熱くお勧めします。ベルナール・フェ Bernard Fayによる「ジャン=ジャック・ルソー」という書籍です。Fayはルソーが自分自身のことを語った文章を多く拾ってルソーの人生を紹介します。確かにルソーの諸著作の特徴は「ルソーが自分を語る」ということです。「ルソーは自分を思う」とも言えるでしょう。ともかく、Fayがとりわけ『孤独な散歩者の夢想』と『告白』をはじめ、ルソーの諸著作に参照しながら、ルソーの人生を紹介します。そして、ルソーの人生を立派に紹介することに成功します。ルソーの人生は細かく具体的に語られています。これは、ルソーの後を一歩一歩追いながら、それぞれの風景の描写も美しく、彼のそれぞれの行為と行動を旨く描写し表現している書籍です。しかも、書きぶりも本当に良くて堪能できる一書です。
ついでに、今ちょっとだけFayの書籍の文章を読んで堪能していただきたいと思います。序文の部分です。序文はとても短いので。そういえば、序文が短いのは良いことですね。短いと本を読みたくなりますが、序文が長ければ長いほどに逆ですね。本番に入る前に、「それほど長い文書が必要だなんて」ということを気付いた時に本を読む気は少なくなりますね。さて、引用しましょう。
「今より二世紀前からずっとルソーについて多く語られてきました。好意をもって、熱心をもって、熱狂をもって、教養をもって、策略をもって、不実をもって、嫌悪をもって、ルソーについて多くがばらばらに語られました。時にルソーについて愚かさをもって語られたこともありました。そしてそれはそれで敬意を払うべき膨大な批評とはなりますが、あまりにも多く存在するので、中心になるはずの著作者自体が、そしてその特質とその人間性を見失う恐れがありましょう。私もルソーから引力を感じて彼について長く勉強し続けました。最初は彼の著作を堪能しました。彼に魅力されたし、怒りもしたし、魅惑されました。ある日、ルソーを理解したい気持ちになりました。自分自身のことを一度も自らで理解したことのない人間について、私が理解しようとするのは厚かましかったかもしれません。しかしながら、自分自身を自分で理解できなかったルソーは、少なくとも自分のことを謝り、自分のやったことを正当化し、自分を称賛することぐらいはしました。私は最初にルソーの行動を見た上で、ルソーを理解しようとしたのですが、彼の行動は曖昧のままで両義性があると思いました。
また、ルソーの思想を見た上で理解しようと思いましたが、彼の思想はどうしてもよく把握できませんでした。私の検討を逃げるかのようにルソーが感情へ逃げ込んで、それらの感情は暖かくなりながら、不安定でもあったと気づくようになりました。彼の『告白』を何度も読み返しました。眩しい幻、とらえどころのない幻覚、偽りの幻影。彼を読み込んだ挙句、彼のことを私は夢で見始めました。夢で彼を見た時、彼の本当の人物といよいよ出会うことができました。ルソー自身も語るように、ルソーの人生は夢だったのです。それ以外なんだったでしょうか。
また、ルソー自身が神話でした。ルソーは確かに生きていたことは生きていましたが、夢を見るために生きていたのです。ルソーの残したのは、終わらない夢の連鎖に過ぎません。ただ彼の才能によってその夢は美しくされて、時にはかれの興奮が注がれた夢になるか、あるいは時には懐中の情けに満ちた夢にもなります。ルソーはどうせ夢の中に生きていたので、私がその高い雲だった夢の世界に、彼を探し出しに行き、彼をいよいよ見つけたのです。」
書きぶりは悪くないでしょう。残りの全書も同じ書きぶりで、美しいスタイルになっています。堪能できる書籍です。書きぶりはね。描写される人物は美味しくないということは紛れもない事実ですけれど。そして、この本の副題は「ジャン=ジャック、人生の夢を見る」です。
【ルソーの人生の生い立ち】
さて、ルソーの人生の本番に入りましょう。生まれた年は1712年です。つまり、彼の人生は18世紀のど真ん中となります。生まれたのは、1712年6月18日のジュネーヴです。フランスのパリを逃げた家庭に生まれました。というのも、彼の家族はプロテスタントだったからです。フランスからスイスへ亡命した家族でした。まあ、確かにその出生は恵まれていないかもしれません。プロテスタント信徒として生まれることになります。プロテスタントの洗礼を幼児の時に受けました。生まれてから二十日間ぐらいが経って、ルソーの母がなくなりました。つまり、ルソーは自分の母をすぐ失い、母を知りませんでした。ルソーの母は同年7月7日に亡くなっています。母なし育ちました。父に育てられます。父は主に狩りをして生計を成り立たせていました。ルソーは特に大切にされた子供でした。父と一緒に、ルソーの伯母も彼の世話をずっとやってきました。多くの愛が注がれた子でした。愛情のこもったこういった環境でルソーが開花したと言えます。ルソーは愛され、愛されていることをよくわかっていました。
また、指摘すべき点は、ルソーが魅力的な人物だったことです。Bernard Fayがそれを何回も強調しています。年齢を問わず、ルソーはずっと魅力的な人物だったのは確かのようです。それは想像に難くない性質でしょう。彼の諸著作を読んでも、その魅力さがいつでも感じうるでしょう。彼の諸著作は文学的に言うとやっぱり綺麗で魅力的ですから。つまり、ルソーの書きぶり自体はなかなかよく出来ているのは事実です。ルソーは魅力があるし、そして魅力があることを彼は知っています。その魅力を示す話があります。Bernard Fayが次の話を紹介します。
ルソーが幼い時に、何かの悪戯(いたずら)をやったせいで、「食事なし」の罰になりました。父が「食事なし」という罰をルソーに与えました。すると、ルソーが家族の全員に丁寧にご挨拶をし、テーブルを去り、何かの動物を焼いている暖炉の前を通りかかりました。暖炉の前でルソーは立ちとどまって「おやすみなさい」と丁寧に焼かれていた動物に挨拶をしました。すると、父がそれを見て笑って、罰をやめることにするのです。テーブルにルソーを戻して、結局、普通に食べられたという話です。こういった例で確認できるように、ルソーには紛れもない魅力があるのです。
後は、ルソーという子は穏やかな静かな子だったのも、間違いありません。愛の注がれた環境で育たれながら、かなり早い段階で、父に指導されて読書を教わったのです。ルソーはずっと読書好きで多くの本を読みこなしてきました。父は彼に本を読ませていたし、また、父が朗読して、息子に読み直してもらったりしていました。声に出して読み合う感じです。古典も含めて。ルソーという子の憧れた一つは、古代ローマ人の英雄的な行動だったそうです。また、ルソーは小説を読むのも好きでした。
問題はルソーを勉強させるときに、読書ほどに旨く行っていなかったことです。まず、ルソーの父が裁判を避けるためにVaux州を去って亡命せざるを得なくなります。父が亡命するが、息子を叔父に託すことになっています。ジャン=ジャック・ルソーは父と一緒に行きません。父が去って叔父の所に住むようになったのは、ルソーの10歳の時でした。そして、10歳にもなったので、何か仕事をさせることになりました。あちこちに見習いとして従事させてみたのです。その一つの見習いの経験は、(裁判所の)書記の所に働きに行くことでした。ただ、ルソーはどうしても怠惰な性格で、あちこち見習いに行っても、休憩時には必ずルソーがジュネーヴの壁外へ散歩に行っていました。当時はジュネーヴにはまだ壁に囲まれていたので。ルソーは壁外に行って、野原や森を散策することが大好きだったのです。確かに、ルソーの諸著作を読むと、とりわけ『告白』を読むと、ルソーがどれほど野原を熱愛しているか、どれほど冒険に夢中になっているか、どれほど孤独な散策こそを熱愛しているかよくわかります。それは間違いないことで、因みに彼の性質の一つの特徴として覚えておくべきでしょう。
その性格を語る次の話があります。ある休憩の時に、もしかしたらある日曜日の時だったかもしれません。Bernard Fayは日曜日の時だったと書いています。いつも散策に行っていたルソーでしたが、その日に町に戻る時に、壁の門が閉まっていました。壁外に一人ぼっちで入ることができません。そのせいで、見習いとして雇われている所の契約をその日の分に果たすことは不可能となってしまいました。すると、ルソーは、その状況を受けて、町を逃げてしまうのです。さりげなく。16歳の時でした。そして、その近くの村に避難し、その村の主任司祭の許に行きました。なぜ主任司祭の所に行ったかというと、当時なら、主任司祭という存在がまだ尊敬されて、困った時に助けてくれるという評判だったからです。まあ、ルソーから見ると、主任司祭の信仰を聞くつもりはなかったようです。でも、一応、主任司祭はルソーに対して優しくしてくれて、彼を雇ってくれるし、ルソーが彼を気に入っていました。これもルソーの性格の特徴的な点です。
ルソーが相手を評価する時に、いつもその司祭の時と全く同じパターンとなっています。ルソーの全人生を見ても変らない性格です。多くの場所に旅行してきたし、多くの地方を歩いたルソーがいつもそうでした。
ルソーはいつも全人生に亘って旅してばかりいて、彼の性格は落ち着きがなく、どこもいつも不安定です。あまり、同じ場所に長く泊まることはできず落ち着かないタイプです。人を出逢う度に、相手を評価することに当たって、心で判断します。頭の理性で判断するのではなく、心で相手を評価します。つまり、「直感的」に、相手のことを知らなくても、相手の正しい評価はできなくても、いきなり「惚れてしまう」ような性格を持つルソーです。だから、その主任司祭に遭った時に「惚れてしまった」パターンというか、非常に「大のお気に入り」となります。主任司祭がルソーに「カトリックへの改宗」を勧めると、ルソーが「いいじゃん」という感じで応じて、改宗することを受け入れました。
ということで、次に主任司祭は、最近回心した婦人のいるスイスのヴヴェー(Veuvay)村へルソーを連れて行きました。Madame de Varins(ヴァランス夫人)という婦人です。ヴァランス夫人という人物はルソーの人生の中で非常に大事な人物となります。ヴァランス夫人の住まいに到着して、彼女と初めて出会った時に、ルソーはやっぱりひと目惚れしました。彼女もルソーのことをひと目惚れしたようです。当時、ヴァランス夫人はまだ比較的に若かったのです。確か三十歳ちょっと以下だったと思います。ルソーは16歳辺りでした。次は、ルソーの改宗へ向けて、公教要理を勉強しなければならないということで、トリノ市へ行くことになりました。つまり、Veuvayからトリノに行く知り合いがちょうどいたついでに、ルソーも一緒にトリノに行って、そこで女子修道院で公教要理の教えを受けることになりました。ルソーは改宗志願者だったわけです。
ルソーには、正確には、どうしても傲慢心があったので、改宗までの間に、彼はちょっと目立った改宗志願者として教師たちによっても目をつけられました。まあ、ルソーは度を超えなかったので、それでも改宗は無事に出来ました。1728年4月23日、カトリック洗礼を無事に授かりました。洗礼志願だった時代のルソーの一番の喜びは、トリノ市を散策するということでした。要するに、余り稼がないで、運に頼って、生計を立てずに、毎日を冒険のようにふらふら散策したりして生活しているという日常でした。金がなくなりそうな時に、何とかちょっとした「バイト」であちこち何とかちょっとした金を稼ぐのです。仕事だけは相次いで見つけることだけが見つけるのですが、長く同じ仕事にいられなくて、いつも不安定なのです。
この時代に、次の話があります。ある日、ある仕事に就いた時に、ルソーが大嘘をつきました。あるどこかの引っ越しの際、たまたまそこにあった桜色のリボンを見つけました。なぜかルソーはそれを気に入って、自分のものではないのに取ってしまいました。そういった行為も、ルソーの「直観的」な性格をよく物語っています。「好きだから、盗んでしまう」。ルソーを理解するために、やっぱり直感・本能という性質が非常に強いことを理解しなければなりません。
話に戻ると、ルソーがそのリボンを取ってしまうと、後で上司が桜色のリボンを見かけなくなったから、「だれか、どこにあるか見たか」と従業員に聞きました。その時に、ルソーは黙ったままでした。そして、その後に、ルソーの手袋に桜色のリボンが入っていたことが明らかになりました。すると、ルソーはどうしたかというと、家の女性の料理人が犯罪者だと嘘をつきました。結局、料理人は罰せられなかったようです。ルソーが料理人を咎めたので、上司はルソーと料理人を対決させてみますが、何も結論が出なかったので、結局罰はなかったということで終わりました。ルソーも料理人も「私はやっていない」という立場を固く断言していたので。
だから、上司にしても、仕方がないわけです。犯罪者を明らかにするのはできないまま、上司は罰を与えることはできませんでしたが、次のような結論で終わったそうです。
「盗みを犯した犯罪者の行った悪事が、彼の良心を咎めるだろう」みたいなことを上司が言ったようです。確かにこの事件はルソーに印象深く残りました。可愛そうな料理人ですね。
まあ、こういったようにルソーは人生を送っていたのです。かなり不安定にやっていました。ルソーのトリノでの滞在は一年とちょっとでした。その時期に何人かの仲間と友達ができたし、そして、何人かの女性にも恋していたようです。また、ルソーは綺麗だなと彼が感じる女性に会うたびに惚れるような感じで、大体ルソーがその女性をたらし込もうとしています。こういった恋愛などはたぶん精神的に留まるのですけれども、特徴として長く続きません。同じ気持ちにあまり留まれないルソーで、恋愛面でも不安定で次々に変わります。ルソーの不安定という特徴だけは、いつも変わらず安定している特徴でした。
結局、自分自身も言うように「自分について絶望したルソー」、そしてどうせ周りも皆、ルソーのことをがっかりして、ルソーはスイスに戻ることになります。ヴァランス夫人の所に戻るのです。ヴァランス夫人と再会すると、あえて言えばルソーが改めて「惚れる」ことになり、間もなくヴァランス夫人の家に泊まることになります。ルソーはヴァランス夫人を親しく「母さん」とずっと呼んでいました。逆にもヴァランス夫人がルソーを親しんでずっと「坊や」と呼んでいました。
【ルソーと音楽】
ところで、ルソーは何とか稼がざるを得ないのですが、ルソーの不安定と怠惰の性格から、なかなか旨く行かず、余り仕事はしませんでした。結局、辛うじて大聖堂の聖歌隊での仕事が紹介されました。ルソーは歌がうまく、音楽に興味を持っていました。そういえば、彼の音楽好きの特徴は一般的にそれほど知られていないかもしれません。しかしどちらかというとルソーの人生において大事な一要素なのです。音楽を好み、聖歌隊で働いた時代に、一人の聖歌隊員と友情をもり、仲間となりました。問題はその一人が評判の悪い人で、良い青年ではなかったのです。ヴァランス夫人をはじめ周りの人々にも警告されていたのに、ルソーは自分の友達に対して客観的な評価はできず、分別を欠いていました。「彼と関わることを止めよう」といったような判別力を、ルソーはなかなか持てなかったのです。これもルソーの性格を知るためになかなか面白い例だと思います。ルソーはいつもこういった性格でした。直感と感情で動くタイプの人物です。
【リヨンに行くがすぐスイスに戻る:困難なことから逃亡する】
それを見て、ヴァランス夫人は何とかルソーをその子から離れさせようとしました。そのために、聖歌隊長が町を何かの理由で去ってリヨンに行くことになった時、ヴァランス夫人はルソーに聖歌隊長と一緒に行くように頼みました。すると、ルソーは師匠と一緒に町を去りました。私の記憶が正しければ、リヨンに到着するや、師匠が町を歩いて人前で癲癇(てんかん)の発作を被ったのです。つまり、師匠が地面に転げ回ったり、泡立った唾を吐いたりするような発作(ほっさ)でした。ルソーはパニックしました。一応、師匠をどこかに泊まらせるようにと周りの人に聞かれてルソーは答えるのですが、その後、ルソーはそのままに逃げます。師匠から離れて逃げました。そこで、スイスにもう一度戻ることになります。一年ぐらい彷徨(さまよ)うことになりました。音楽論の教室をあちこちして、ちょっとして稼ぐのですが、本当のところルソーは音楽理論について何も全く知らなかったので、はったりをかまして教えていました。最初は相手が気付かないのですが、間もなく、いくらたっても生徒が上達しないので、当然ながらあまり長つづきできません。
次の場面もありました。ある音楽の夕べに誘われた時に、そこで何かの曲を弾いてくれないかと頼まれました。ルソーは受け入れて弾いてみるのですが、参加者全員が笑い出した、という話があります。皆に笑われて、ルソーは深く面目をつぶされたと感じたようです。それは兎も角、音楽教室をやって、音楽を好んでいる人々と付き合うおかげで、ルソーは少しずつ音楽の知識の基礎を何とかちょっとだけでも得るようになりました。その一年の間に、音楽教室以外にも、ルソーは多く散策していました。ルソーはやっぱり散歩・散策するのが大好きです。夢想にふけることが大好きなのです。だいたいの場合、散策する間に、どっかに出会って惚れた「女性」のことについて夢想するのが特に好きでした。また、ヴァランス夫人の事を頻繁に思っていました。ルソーは誰よりもヴァランス夫人を尊敬していました。
【モンペリエ、リヨン、パリ】
次は、フランス南部のモンペリエに行きます。その理由は、ルソーに心臓の問題が出たということで、行くように言われたからです。なにか心臓病ではないかという疑いがありました。
モンペリエでは、依然同じようなパターンを繰り返していました。若い女性と出逢って一目惚れしました。おそらく、精神的な恋愛にとどまったと思われます。でもどうでしょうか、彼は天使のような人物でもなかったのです。
モンペリエに滞在してから間もなく、リヨンに行きました。そこで、コンディヤックという啓蒙思想家と知り合いました。エティエンヌ・ボノ・ド・コンディヤック。1740年当たりに出会った同世代です。
ルソーは30代です。コンディヤックはルソーの二歳下なのですから、同世代です。そして、リヨンではダランベールとも知り合って友達となります。それをきっかけに、「啓蒙」の世界に初めて足を踏み入れることになりました。ダランベールはルソーの5歳下です。まあ30歳になる辺りだと、世代は大体一緒と言えましょう。リヨンでこういった友達ができた上、パリへ向かいました。パリでは音楽関係の仕事に就こうとしました。ここでも音楽でした。後でも見られるように、ルソーは全人生において結局、音楽で稼ぐようになっています。
そういえば、音楽についての論文を書くことも試みました。新しい記譜法を作ってみました。私の記憶が正しければ数字を使う記譜法だったと思います。ところが、この記譜法は完全に大失敗に終わりました。とにかく、パリに住んで、写譜者として働きます。それほど音楽上の知識がなくても出来る仕事で、さすがにルソーらしいです。ルソーはどうせ怠惰で、散策することが大好きですから。やっぱり、ルソーの一つの性格の特徴は怠け者ですね。パリでは、写譜の仕事しながら、町を楽しむのです。現代に比べたら、当時のパリの方が小さかったし、自然も多かった、広い場所もあったし、もうちょっと自由に動けた町でした。
パリでディドロと知り合いました。面白い出会いでしょう。ディドロと啓蒙家らの世紀です。ディドロは1713年生まれで、ルソーの一年下です。啓蒙家はやっぱり大体皆、同世代です。ディドロとその他の知り合いを通じて紹介されて、「サロン(パリ社交界)」に足を運ぶようになりました。有名な18世紀のサロンですね。それらのサロンで話し合っていて、あえて言えば来たる革命が策略されているサロンです。新しい思想はそこで流されて、交換されて、そしてサロンの外のエリート層にも流れていく影響力のあるサロンでした。
こうしてルソーはサロンに通うことになりますが、必ずしもいつも歓迎されているわけでもありません。ある時ルソーはイタリア人の大使と知り合いました。その大使はルソーの文学上の能力を評価して、ルソーを秘書として雇いました。
【ヴェニス】
つぎは、大使の後を追って、一緒にヴェニスに行くことになります。というのも、ルソーは以前トリノに一年間ほど滞在したので、イタリア語が流暢にできたからです。年表はちょっと前後してしまいますが、その時の一つの場面をご紹介しましょう。ある時に彷徨っていた時代に、散策していたらある男と出逢いました。その男は、ギリシャ正教会の修道院長だと自称する人物でした。そして、トリノにいたのは、「聖域の独立のために運動しているからだ」とその人物が言っていました。その男は空威張りに過ぎなかったものの、ルソーは騙されてその男に金を渡してしまいました。自称の肩書きを主張していたその男は、たんなる詐欺師で金を貰おうとしていただけでした。そして、ルソーは相手が詐欺者であることを見抜く分別力を全く欠如していたので、相手を正しく評価できず、その男の話に乗りました。ちょっとだけ乗ったのではなくて、かなり長い間にその詐欺者の後に付いていたし、詐欺であることがばれるまでその後に付いていました。ルソーは嘘が分かった時、騙された悔しさで泣き出したと明かしますが。今の話は、ルソーの分別力の欠如を良く物語る話なのでご紹介しました。
元の話に戻ると、大使館の秘書官として、ヴェニスに行くことになりました。ヴェニスの滞在の間に、当時の有名な音楽者と出逢いました。また、ヴェニスではルソーの大好きな「移り気」な空気を満喫できました。放蕩の雰囲気にあって、ルソーはその雰囲気が気に入ります。それだけではなく、ヴェニスでの滞在の時にこそ、ルソーは本当の意味で初めて政治活動を経験することになります。従ってルソーが政治について考え始めたきっかけはヴェニスで見たことでした。ヴェニスは都市国家で、政治的に言うとすべてが揃っていながらも小さくて全体図が見やすいところがありましょう。ヴェニスでの滞在は一年以内でした。そういえば、いつも転々と動く分、ルソーの人生を整理するのは難しくなります。
【パリに戻る:同棲、結婚】
ヴェニスでの一年間の後に、パリに戻ることになります。パリでは、テレーズ・ルヴァスールと同棲します。結局、その後に結婚しましたが。ルソーは熱心なカトリック教徒でもなく、そういった結婚の掟を破っても平気で躊躇うことはなかったようです。どうせ、かつてトリノに行ってカトリックに改宗したのは、憧れのヴァランス夫人に勧められたことと、それでちょっとした金を貰えたからに過ぎないので、熱心なカトリック信仰心を持つわけがありませんね。テレーズ・ルヴァスールと同棲し、彼女と間に5人の子供をもうけることになりました。1747年から1751年までの間に、5人が生まれました。ところで子どもが生まれた途端、ルソーは五人とも捨て子の団体に預けました。要するにルソーは、卑怯にも自分の子を捨てるのです。このこともルソーの性格の不安定さを象徴的に示します。
【子供を全て捨てた理由:皆が自分の敵であるという偏執狂(パラノイア)があった】
面白いのは、ルソーは自分の著作では自分の子を捨てた幾つかの理由を挙げています。彼が記す一つの大きい理由は「妻の家族から子どもを離れさせてあげる」ためです。あえて言えば、気持ちだけは理解できるかもしれませんが、その理由はルソーのもう一つの性格の特徴を示します。つまり、ルソーが偏執狂だからです。それは本当のことで、いつも、皆が彼を敵にしているということをルソーが常に感じざるを得なかったのです。彼の晩年になって、感じだけではなく、確かに実際に皆が彼の敵になるようになりましたが。
でも、彼が本当に偏執狂で、皆が自分のことを責めているように感じていた挙句に、実際に皆を敵に回してしまったのです。『告白』を読んでも、人類全員がルソーのことを恨むかのように書かれていますね。
【子供を全て捨てた理由:子どもを育てる金がない】
捨て子の団体に自分の子を捨てた第二の理由として、「子どもを育てる金がないから」とルソーは記します。
【子供を全て捨てた理由:祖国こそが我が子を良き市民にするため】
第三の理由として、これは彼にとっての一番重い理由になると思われますが、「自分の子を捨てたのは、市民的な行為であり、祖国こそが我が子を良き市民にするためだった」といった感じの理由を記します。なんて卑怯でしょうね。そういえば、ヴォルテールもルソーの卑怯さをはっきりと咎めていました。要するに、ルソーが5人子供いたのに、全員を捨てました。にもかかわらず、「教育論」を書くことになります。まあ、いつもあることですね。「教訓」を偉そうに与えながら、自分に関してはやらない。
パリでは、百科全書の作成に参加しました。有名な百科全書のことです。ダランベールやディドロなどが参加した百科全書作成ですが、ルソーは音楽についての項目を担当することになりました。御覧の通り、その時点でルソーの書いた物には哲学のような文章は何もありません。まだ、何も書いていなかったのです。つまり、1747~1748年の時点で、まだ何も書いていませんでした。音楽についてのちょっとした文書が少しあるぐらいで、文学上のルソーはその時点でまだ存在しない、というかまだ無名でした。どうせルソーは不安定な生活しているので、もうちょっとしっかりとした人間関係を結ぼうとします。というのも、金を稼いで、より豊かな生活したいと思っていたのです。それだけです。
《続く》