25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

日々移動する腎臓のかたちをした石

2019年06月18日 | 文学 思想
 今日は「よもやま話」の日で、前々からこの日を楽しみにしていた。村上春樹の東京奇譚集に収録されている短編小説「日々移動する腎臓のかたちをした石」がテーマだった。ところが火曜日の今日がその日だったとすっかり忘れてしまっていた。
 忘れてしまった理由と思われるのは、朝、実家の家で乾かしていた草木を鋸で解体し、大きく伸びた樹木を切ってしまい、庭の草刈りをして興奮したからだと思う。汗をいっぱいかいて、昼を迎え、日清の火鍋麻拉麺を食べてさらに汗だくとなって、「なつぞら」を見たのだった。それが終わるとNHKの番組はちょっと不思議な老人の漫画家を紹介した。魔夜峰央という変わった男性だったので、好奇心いっぱいにして、彼が奥さんから習っているバレエダンスを見ていて、これはおもしろいわい、とすっかりテレビにはまって喝采していた。そこへリーダーの南さんから電話がかかった。「あれ、忘れとったよ。今すぐ行くで」と言い放ち、車で3分、公民館まで走った。
 会員のみなさんは、これで村上春樹は三度めである。「レーダーホーゼン」「ハナレイ・ベイ」そして今回の短編。
 小説の構成は練りに練られていて、主人公の小説家淳平は過去に父親が言った「男が一生に出会う中で、本当に意味を持つ女は三人しかいない。それよりも多くもないし、少なくもない」
淳平はこの言葉に囚われるのだが、読者もこの言葉ではたと自分を振り返ることになる。あるいは、この言葉の意味、つまり「本当に意味を持つ」ということがわからなく、小説の中で戸惑うしかない。解答は小説の中にあるのだろうと読み進めることになる。
 2番目の「意味ありそうな女キリエ」と淳平はパーティーで出会う。話が合う。会話は面白い。セックスもいい。淳平は「揺さぶられて」仕事ができる男である。キリエは違う。彼女を揺さぶるのは風である。淳平は彼女の仕事、本当に好きなものをテレビの中でインタビューされているキリエから偶然に知る。淳平が執筆中の不倫をしている女医の小説の結末もキリエからの揺さぶりを受けることになる。執筆中の小説の中で妄想のように、幻視のように見える日々移動する腎臓のかたちをした石は不倫関係を断ったときに消えてしまう。それはキリエは淳平にとって意味ある女であるが、キリエにとって意味ある男ではないことに気づくのと同時である。執筆中の小説の結末は淳平とキリエという男と女のメタファになっていて、小説の構成としては優れたものだとぼくは思う。腎臓という二つの臓器は男と女を表している。腎臓はひとつであってもなんとか生きられるものであり、「女のいない男、男のいない女」を暗示している。
 「よもやま話の会」は「意味ある女または男」に話が集中し、やがて、仕事、職種、年金などの話に散っていき、二時間が過ぎたのだった。
 因みに淳平の第1の意味ある女性は「神のこどもたちはみな踊る」の中にも収録されている「蜜蜂パイ」で出てくる。