25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

日本人の中には情けない人もいる

2017年07月11日 | 社会・経済・政治

  道を歩いていると、多くの家の軒下に通る人に見せるように植木鉢に花を育てている。ヨーロッパでは出窓には通りを歩く人に見せるように飾り物があるというが、日本人も通る人に見せるよう花々を置いてある。庭木も盆栽も家の敷地内にあるもので、それは自分だけが楽しむようなものであった。今は掃除機があるが、昔は家の掃除は埃は外に掃き出していた。

 講演会でヨーロッパと日本の違いをそんな例を出して、「公共」よか「他者への配慮」「社会」というものを語る人がいたことを覚えている。

 その点から言えば、日本もずいぶんヨーロッパ化したのかな、と思う。

 京都でのゴミ捨ての話が今朝の「モーニングバード」で報告されていた。ゴミ捨て禁止という立て看板のあるところに、若いもんたちが次々とゴミを捨てていく。ポイとゴミ袋を投げる。次の人はペットボトルを投げる。また女性がゴム袋を投げる。そこには人も行き交っている。煙草を投げるものもいた。よく見ていたらポイ捨てする共通点があった。投げるのはジャージの人ばかりである。

 家の中と外。ジャージファッションはそのどっちも使えるものなのだろう。もしかしたらスーツを着ていたらポイ捨てしないのかもしれない。スーツや小奇麗な服は社会性を表している。家ではパジャマでも、裸でも誰がとがめるものでもない。観念の領域が違ってしまうのだ。ジャージは内にも外にも通用するから、社会性というルールの観念が薄らいでしまうのかもしれない。

 情けない話だが、日本人の中にも程度の低い人がいるものだ。パジャマで買い物をする中国人を笑う資格などはない。バス事故で韓国を笑う資格もない。アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国、インド、パキスタンだけに核保有を認めて、北朝鮮は認めないというアメリカや日本の政府にも北朝鮮を責める資格はない。核兵器禁止条約に加入しない被爆国である日本はいつまでアメリカ追従をしているのか、と思うと情けない。