25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

貴種流離譚

2015年05月23日 | 文学 思想
 尾鷲市に九鬼町という過疎化した浦村がある。ここによそから若者がやってきて、国の助成金を受けて、地元のご老人を集め、食堂を作った。茎の人々は嬉しい、やりがいがある、とテレビでのニュースは流す。テレビニュースというのはそういう題材が好きだ。しかも地方創生というキャッチフレーズを安倍首相が言っていることもあるのだろう。

 僕は「貴種流離譚」の現代版であると思っているし、以前からこんな話はいくらでもあった。
 おそらく、地元のある誰かが言い出したら、「あんな人がやるのだから」とか「ふん、客なんかこんぞ」「なんであの人が村おこしなんだ」とかとなってしまうのだろう。そこに、わけのわからない「にいちゃん」の登場である。わけのわからない人のことをとやかく言うことはできない。素性もわからない。ただ、遠くから神様がきたように崇めてしまうのである。桃太郎もかぐや姫も「貴種流離譚」である、どこかから「どんぶらこどんぶらこ」と赤ちゃんが流れてくる。それがやがて鬼退治をしてくれる。

 この「貴種流離譚」は「卑種流離譚」と表裏にもなっている。いずれ貴種もだんだんと素性がわかってくる。性格や物の考え方もわかってくる。政府からお金をぶんどって、それで過疎の町が潤って、元気になって、という発想のそもそもが僕に言わせれば、「卑種」である。僕も一度政府のお金を。つまりは税金を株として投資していただいたことがあるので、以後、大いに反省した時期があった。もう絶対に「卑種」にはならないと心に誓ったことがある。

 こういうところから村おこしなどと言っていても無理なのだ。自分たちの資金力で、必死にやる。退屈なので、おもしろいからやるでは無理なのだ。国からお金を助成してもらうなんてのもダメなのだ。責任がないのだ。本当は国民の税金のはずであるが、国が助成してくれたからとはしゃいでいてはいけないのだ。NHKの記者にはそんな視線が全くと言っていいほそなかった。素直に現象を喜んでいるのと、それをニュースで扱ってもらった喜びがあるだけだった。

 先日スーパーの前で、民生委員・児童福祉委員の方々がティッシュペーパーを配って、宣伝活動をしていた。おすらくあれも税金からでているものだ。そういうことはしないほうがいいのである。宣伝活動をするのだったら、何もティッシュを、無料配布しなくても市の広報紙や、辻辻の啓蒙活動や、夜毎の相談会などを開くほうが先だ。ティッシュ代がいくらかかるのかわからないけれど、地元新聞に広告を出してもいいのである。ティッシュペーパーには民生委員や児童福祉委員が何をするものなのか書かれていなかった。

 「地方創生」という言葉は竹下登首相のころから言っていた。小渕首相にいたってはすいたいするべく産業にも大いにお金をばら撒いた。よく覚えている。1998年頃のことだ。一時は衰退産業も息をついたが、やがてほとんどが衰退し廃業していった。

 気がついたら、国の借金は1000兆円を超えている。あと、5,6年で国民の貯蓄を上回ってしまう。国の借金の80%は銀行にに国債を買ってもらうことだ。そして日本銀行はそれを保証していることだ。日本銀行は異次元の金融緩和などと言って、危ない綱渡りをしている。これは危ないなんてものじゃない。

 日本の地方はどうして行かなければならないのか。老人たちが退屈しのぎにワイワイとやっているような呑気さは本当はないはずなのだ。真剣に、どうしたら、地方は、尾鷲は衰退せずにやっていけるのだろうか、と考えなければならないのだ。しかし、周縁からの人の声しかきかないという狭い村落共同体の宿命は用意に変わるものでもない。いくところまでいくか、という感じになる。