25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

ビ・バップ

2015年05月08日 | 音楽
ディジーガレスピーのビ・バップジャズを聴いていると、ほとんどニューヨークにいるような気がしてくる。ハーレムを散策したことがあった。アポロ劇場にも行ったことがある。一人旅だった。ハーレムは危ないと言われていた時期だったが、なんともなかった。ケージョン料理も食べた。僕はその頃はたぶん人生に興奮していたのだと思う。
 ワシントンでもシアトルでもニューヨークやシカゴでもジャズライブのあるところに飛び込んだ。といってジャズのことは何も知らない。一人とて、ジャズミュージシャンの名前を知っているのではなかった。
 雰囲気だ。音から出てくる情緒がまるで違ってしまうのである。

 この男(ディジー)がスウィングジャズからビ・バップジャズへと変えたのは今知ることである。
 ジャズが生まれてから何年になるのか知らないけれど、クラシックの時代がバロックから古典、ロマン派、民俗学派、印象派と移っていったようにジャズも変遷の歴史があるのだろう。山下洋輔などはフリージャズと呼ばれている。
 その山下洋輔が三人の男と対談している本があって、二晩続けて、二人との対話を読んでいる。今夜は第三人目である。それで終わりだ。
 僕は音楽家というものを一番リスペクトしている。即興で演奏することも、間違いなく弾くということも、小刻みに同じリズムで叩くという小太鼓にしても、僕には感嘆するばかりである。なぜプロは間違えないのだろう、といつも思う。
 ジャズは間違っていいのか、と言えばそうではないのだ。ひとつの音とて間違えない。それがプロというものなのだ。
 その音楽界の中では僕の知らない専門用語がいっぱいでてくる。

 いつもうざったいと思うのは、三味線奏者が洋楽をしたり、尺八奏者が管弦楽をバックに演奏したり、ジャズと邦楽をミックスしたりすることだ。インド音楽はインド音楽でいいし、長唄は長唄でいいと強く思うのだが、演奏者というのは腕があがってくると、ミックスしたくなってくるものらしい。

 バッハは即興音楽のように聞こえるし、モーツアルトなどはバリバリアドリブで弾いただろう。ヴェートーヴェンが即興の名手だったことは最近知った。しかし当時のヴェートヴェンが東洋にこれるとは思えない。西洋音楽は楽譜技術を発展させ、西洋音楽を完成させた。邦楽奏者は邦楽をやればいいと思うのだが、技を見せたかったり、好奇心で融合させようと思ったり、おもしろいものが生まれるんじゃないかと思ったのだろう。それはあるのかもしれない。しかし僕はいつも違和感を感じている。

 さてディシーガレスビーを聴いている。ああ、タモリや中上健次などは地下のジャズ喫茶でこんなのを聴いていたんだなあ、と思う。僕よりいくつも上の世代である。その雰囲気は異様でもある。退廃も、どん底も、こころの虚ろも、陶酔も、逃避も、猛烈なエネルギーにも満ち溢れている。