25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

あの戦争と日本人 3回目

2015年05月16日 | 文学 思想
 あの戦争中に中学生や高校生だったものの多くは軍国少年であった。尊敬する吉本隆明も軍国少年だった。半藤一利は吉本よりも若かったが、やはり軍国少年であった。時代の雰囲気、熱狂は新聞もラジオも煽り、国民も新聞をあおり、熱狂の新聞は部数を伸ばした。吉本の「戦争論」だったか、なにかで、父親にぼそっといわれたことがあった。「戦死なんてのは勇ましく死ぬなんてもんじゃないんだよ。病気になったり、飢えて死ぬのがほとんどなんだよ」と。それが吉本少年の記憶に残った。
 「あその戦争と日本人」を読み終えて、太平洋戦争だけで、戦闘員の戦死者は陸軍で165万人。海軍で47万人とされている。このうち餓死のよる戦死者は70%である。また海軍の海没者(戦わずして海に沈んで死ぬということ)は18万人である。戦争は飛行機の時代になっていたのに、大和や武蔵のような軍艦を作った。その費用があれば戦闘機を何千機も作れるものだった。兵士の持つ銃剣は日露戦争のときと同じもの。これもものすごい数を作り、機関銃などを作ることもなかった。

 広島や長崎では戦争で忍耐していたふつうの人々が瞬時に、わけもわからず死んでしまった。
 半藤一利はあれだけ慎重であり、戦争を避けたかった明治の日露戦争で、もう大砲の弾もなく、銃剣の弾もなく、どうにもならない状況の中で、奇跡的に日本海海戦でロシア艦隊を打ち破ったところで、講和を果たした。講和はすでに準備されていたのである。もう戦争をする余力はなかったのである。国民は狂喜した。尾鷲史にも日露戦争勝利を祝う写真が残されているが、全国で祝典が行われた。その勝利に水をさすようなことは政府も言えなかった。
 やがて明治を作ってきた元勲たちは死んでいって、世代交代が行われていった。戦争の分析ではなく、「精神論」だけが受け継がれていった。

 現在、ぼくらは歴史の大転換期の中にいる。戦争放棄をうたった平和な日本の70年間は終わり、戦争ができる国といつの間にか、内閣によって決められてしまった。自衛隊の母親は「なんで国民のみなさま反対してくれないのでしょう」という人も、「不安です」とう自衛隊員の奥さんの言葉などがテレビで紹介されているが、新聞もテレビも大反対の論調にはならず、勇ましいのだけが声を張り上げている。だいたい勇ましいことをいうやつほど本当は勇ましくないというのは僕らもまた知っているが、それにしても、犠牲者はいつも下の隊員である。悩み、苦しみ、精神に異常をきたすのも下の隊員である。小泉内閣のときに紛争のない地域で支援活動が始まったが、あれ以降、参加自衛隊員の自殺者が多いのは新聞で発表されたとうり、多いのである。

 ひとつどうなっているのかわからないことがある。仮に自衛隊員が集団的自衛権の行使で外国に行き、戦死したとすると、やはり靖国神社に奉られるということになるのだろうか。天皇でさえ行かない神社に強制的にということなのだろうか。それとも憲法の精神で個人の自由が許されるのだろうか。この論議を「縁起でもないことを言うな」といえば、これは日本人の悪しき「言霊思想」であり、悪しき「精神論」である。その辺のことが何も知らされていない。僕だけがしらないのだろうか。

 と、テレビをつけたら、「淡谷のり子名曲アルバム」が出てきた。戦争中でも国防婦人隊が跋扈する中で淡谷のり子は派手な服を着て、派手に化粧をし、個を貫きとうしたという。彼女を紹介するナレーターは「大衆が一番怖い」とも言っていた。

 日本はあの戦争でまたもや分析をしていない。分析せずに、「押し付け憲法だ」「戦勝国の裁判だ」などと言っている。政治家や軍部、天皇はどこで、何を間違い、マスコミはどうあったのか、国民はどうあったのか、徹底的に朝鮮に謝り、中国に謝る。そしてリセットする。それがなぜできないのか、僕にはわからない。その思想もわからない。