今回の大地震、被害が明らかになるたびやるせない思いです。
自分の記録を残しておきます。
2011年3月11日(金)
1430 実家のある千葉県北西部の駅着。
1440 徒歩で実家に到着。母は掃除をしていた。
1446 地震発生。長い。いつもは収まるころに激しくなってくる。
TVを母が父は飾棚を押さえていたが、飾棚の中の壺が倒れる。
納戸のなかに突っ張り棒でかけておいた、バッグ等落ちる。
壁に掛けてあった油絵が大きく揺れる。
犬用の水が大きく揺れこぼれる。
1520頃 TVの津波の中継を見て震えが止まらなくなる。
真っ黒な水と瓦礫が、畑をなめるように進んでいく。
道路を走っていた車も呑み込まれてしまった。
16頃 中学生の姪が自転車で帰ってくる。地震後校庭で1時間ほど待機してたとのこと。
家に誰もいなかったらどうしようと心配していたらしい。
1749 夫から連絡、自宅の付近は停電している様子。
海岸沿いのため津波が心配だったが、潮位の変化はあったが被害はないとのこと。
18頃 仕事で豊田に行っていた弟から連絡。
駅前のマックにいて情報がわからないとのことなので、電車が動かないのでそこにいた方がよいと伝える。
夜 西日本に住んでいる親戚から安否確認のメールが入る。
何度も連絡をくれていたらしいが繋がらなかったとのこと
余震がずっと続いている
23頃 就寝
3月12日(土)
7時すぎ 起床
就寝中、7回も余震がありよく眠れず。
回数は母が数えていた。
0818 豊田のマックで一夜を過ごした弟から連絡。
まだ電車は動いていないとのこと。
0831 バレエ教室の先生から連絡。
スタジオが被害を受けたのでレッスンはお休み。
11頃 弟から連絡。上野駅に着いたがすごい人でホームに降りるのに2時間待ちとのこと。
14時 弟ようやく帰宅。
豊田のマックは地震直後は閉店していたが、また開店し営業してくれたとのこと。
食べ物には苦労しなかったが、店内でもかなり寒くカイロを7つも貼ったという。
この日も最寄り路線が途中駅までしか運行していなかったので、実家に泊めてもらう。
余震は回数は減ってきたがまだある。
近所の灯篭が倒れ、隣家の外壁にひび割れあり。
新聞で実家の付近は震度6-と知る。
3月13日(日)
7時過ぎ 起床。
最寄り路線全面開通とのことで帰宅の準備をする。
0830 入院中の叔母危篤とのしらせ。
0930 母と最寄り駅に。
私は帰宅、母は妹(叔母)の病院へ。
電車を待つ間、叔母の訃報を聞く。
病院に行くか迷ったが、帰宅することに。
1130 自宅の最寄り駅着。
12時前 帰宅。
自宅は7階にあるが被害はなし。
熱帯魚の水槽の水が少しこぼれた形跡があったが、
そのほかは、何もなかったよう。
今回の地震で、自分、家族、家の被害はなかったが、
被災地のことを考えると胸が痛む。
あっという間に数千以上の命が失われたかと思うと、寒気がとまらない。
被害を受けた、塩竃は去年旅行で訪れた。
商店街の人が手作りで町おこしをしていて、とても暖かい気持ちになった。
南三陸にあるホテル観洋。
窓にカモメの来る、絶景の宿だった。
ここもなくなってしまっただろうか。
まだ余震も続いているし、生活への影響はこれからだと思う。
ごくごく平凡な日常が、こんなに幸せなことかと思い知らされた気がする。
TVボードの上のはまぐり雛が倒れていた