テンキチのブログ「誠」

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真実の歴史講座 -21-

2005年07月31日 21時08分56秒 | 歴史のこと
  【満州事変の背景】

 さて、歴史は移り、満州事変へと進むわけですが、満州事変には、こういう背景があるのです。満州事変の前年より、支那では排日・侮日運動が繰り広げられ、昭和5年には、実に10人の日本人が殺害されています。上海で、四川で、山東で、一般の日本人が殺されました。
 昭和6年5月30日には間島暴動が起きます。発電所が襲撃され、電気が消える。通信は止まり、交通が破壊される。そして、日本人、朝鮮人、二人が殺されるという事件が起きます。次には、共匪(共産賊)事件が満州の方々で起こります。件数は81件起こります。これによって殺された日本人は44人、負傷者は数限りなしです。満州事変が起きたときの満州は、張学良の軍隊20万人、一本の鉄道を守衛している日本軍(関東軍)は1万人、満鉄は20倍の敵に囲まれていたのです。そのうえ当時の中国政府は革命外交を唱え、日本が有する既得権益、つまりは満鉄とか旅順、大連の租借権を、武力をもって回収すると声明しました。ですから、下の民々はいい気になって目茶苦茶をやったのです。当時、日本人の小学生は、関東軍の兵隊さんに守られながら学校に通ったのです。
 中村粲先生は『大東亜戦争への道』で「満州事変は原因ではなく、むしろ結果であった」と言われています。このような背景を新聞は書きませんし、知識人も言いません。満州事変と言うと、柳条溝の鉄路に爆薬を仕掛けて、それを支那軍のせいにして攻撃したのだとよく言われます。そうではないのです。背景には、前述したことが種々あったのです。排日集会が頻繁に開かれ、これが満州全土に拡がって、「日本の製品は買うな、焼いてしまえ。日本人を見たら石を投げろ、唾を吐きかけろ。」と運動したのです。このような状況下で、しかも20倍の敵軍に包囲された中で、どうするかが関東軍の課題だったのです。
 満州事変の直接の契機となったのが、中村大尉虐殺事件です。これも日本人が普通に考え得る殺され方ではなく、腹わたを抉り出され、目を抉られ、腕はもぎ取られ、生きたまま焼かれた、といった殺され方でした。さらに、万宝山事件が起きます。同胞の朝鮮人の集落が襲われ、大勢の朝鮮人が殺されます。この中村大尉虐殺事件や万宝山事件が直接のきっかけとなって、「これは何とかしなければ、20万の張学良軍が、いつ日本人を襲ってくるか分からない」ということで起きたのが、柳条溝事件なのです。
 そのころ、アメリカの資本による満鉄包囲網が完成します。リットン報告書に、こう書いてあります。「四半世紀に亘る満州における国際戦争は、鉄道の戦いであった」と。

<続く>

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