テンキチのブログ「誠」

忘れてはならない誠=真実を記しておきます。テンキチが気づいた其の度に。

真実の歴史講座 -22-

2005年08月01日 19時18分54秒 | 歴史のこと
  【満州族と漢民族】

 ところで、清は満州族です。清朝は、いざという時に帰郷する郷里を温存する為に、漢民族を満州には移住させませんでした。ところが、清朝が滅び、日本が満鉄を統治し、鉱業を盛んにし、治安がよくなると、漢民族がどんどん満州に入ってきました。年間に百万人もが移住してきたのです。
 そもそも、満州族と漢民族とは全く異なる民族なのです。共産党の植民地政策(共産党が植民地を自分の国にする為の方法)についてですが、例えばチベットを例にとりますと、チベット族は漢民族とは全然違う民族です。人種も、言語も、宗教も、全てにおいて違います。チベットという地域は、かつて漢民族の支配下に置かれたことはありません。にもかかわらず、中国はチベットを植民地としています。このように、ある地域を自国領にする為に中国という国はどうするかというと、そこへ漢民族を送り込むわけです。犯罪者を釈放して、チベットへ送るのです。奨励金を出してまで移住させます。
 このようにして、漢民族がチベットの地にどんどん増えることになります。そして、チベットは中国の領地だと主張するというわけです。これと同じことを中国は、満州でも行なっています。満州を東三省と改名して、どんどん移民を送り、自国領に組み入れています。ソ連も全く同じことをバルト三国でやりました。バルト三国に住んでいる数万人の民を囚人同様にシベリアに連行し、その間にロシア人をどんどん移住させたのです。

<続く>

真実の歴史講座 -21-

2005年07月31日 21時08分56秒 | 歴史のこと
  【満州事変の背景】

 さて、歴史は移り、満州事変へと進むわけですが、満州事変には、こういう背景があるのです。満州事変の前年より、支那では排日・侮日運動が繰り広げられ、昭和5年には、実に10人の日本人が殺害されています。上海で、四川で、山東で、一般の日本人が殺されました。
 昭和6年5月30日には間島暴動が起きます。発電所が襲撃され、電気が消える。通信は止まり、交通が破壊される。そして、日本人、朝鮮人、二人が殺されるという事件が起きます。次には、共匪(共産賊)事件が満州の方々で起こります。件数は81件起こります。これによって殺された日本人は44人、負傷者は数限りなしです。満州事変が起きたときの満州は、張学良の軍隊20万人、一本の鉄道を守衛している日本軍(関東軍)は1万人、満鉄は20倍の敵に囲まれていたのです。そのうえ当時の中国政府は革命外交を唱え、日本が有する既得権益、つまりは満鉄とか旅順、大連の租借権を、武力をもって回収すると声明しました。ですから、下の民々はいい気になって目茶苦茶をやったのです。当時、日本人の小学生は、関東軍の兵隊さんに守られながら学校に通ったのです。
 中村粲先生は『大東亜戦争への道』で「満州事変は原因ではなく、むしろ結果であった」と言われています。このような背景を新聞は書きませんし、知識人も言いません。満州事変と言うと、柳条溝の鉄路に爆薬を仕掛けて、それを支那軍のせいにして攻撃したのだとよく言われます。そうではないのです。背景には、前述したことが種々あったのです。排日集会が頻繁に開かれ、これが満州全土に拡がって、「日本の製品は買うな、焼いてしまえ。日本人を見たら石を投げろ、唾を吐きかけろ。」と運動したのです。このような状況下で、しかも20倍の敵軍に包囲された中で、どうするかが関東軍の課題だったのです。
 満州事変の直接の契機となったのが、中村大尉虐殺事件です。これも日本人が普通に考え得る殺され方ではなく、腹わたを抉り出され、目を抉られ、腕はもぎ取られ、生きたまま焼かれた、といった殺され方でした。さらに、万宝山事件が起きます。同胞の朝鮮人の集落が襲われ、大勢の朝鮮人が殺されます。この中村大尉虐殺事件や万宝山事件が直接のきっかけとなって、「これは何とかしなければ、20万の張学良軍が、いつ日本人を襲ってくるか分からない」ということで起きたのが、柳条溝事件なのです。
 そのころ、アメリカの資本による満鉄包囲網が完成します。リットン報告書に、こう書いてあります。「四半世紀に亘る満州における国際戦争は、鉄道の戦いであった」と。

<続く>

真実の歴史講座 -20-

2005年07月29日 20時57分10秒 | 歴史のこと
  【支那人の残虐性】

 話は少し横道にそれますが、この南京事件の時の中国領事は森岡領事で、日本人は約100人が南京にいました。ここに入り込んできた支那兵(およそ半分は共産党勢力)が、凄まじい暴れ方をしたのです。森岡領事が病気で寝ている寝室に侵入し、領事の目の前で奥さんは強姦されました。南京にいた日本人は略奪され、裸にされ、女性は強姦されました。領事館の物はことごとく全て、便器まで奪い取られてしいました。日本人の自宅は焼き払われ、破壊されます。続いて同じ年の8月、「済南事件」が起きます。済南には、1,810人の日本人がいました。その内、女性は829人です。ことごとく凌辱され、暴行され、略奪されたのです。死者12人、負傷入院者400人でした。
 支那の漢民族という民族は、食人習俗(カニバリズム)の伝統を持つ人種です。つまり、人肉を食すのです。ですから、ただ人を殺すのではなく、鼻を削ぎ、耳をちぎり、腕や足を切って五体をバラバラにするのです。生きながらにして顔や頭の皮を剥ぐ、腹を裂いて腸をつまみ出す、目をくり抜く、足を片方づつ馬にくくり付け引き裂く、……。これらは皆、刑罰の種類として記されてもあります。日本人には考えられませんが、彼らにとってはよく承知していることなのです。現在でも、胎児や嬰児をスープに入れて食べるという料理があり、実際に食べられているそうです。
 このような残虐非道な行為が行なわれたのが、この時の南京事件、済南事件、そして通州事件です。通州では、300人以上の日本人が、惨い目にあい、事件後に現地を視察した人が直視できないという光景だったそうです。ある日本人は、手と鼻にワイヤーを通され、街中を引きずり回されていました。
 後に詳述しますが、教科書に日本軍が南京で虐殺を行なったとされているあの所謂「南京事件」、これを朝日新聞に連載したのは本多勝一記者の「中国の旅」ですが、南京で日本軍が中国人を虐殺したという記述の中に、今述べたようなことをそっくりそのまま日本軍がやったと書いてあります。中国人が自分たちのやる習慣や歴史上やってきたことを、日本人にとっては考えることすら思いつかないこととも知らず、当り前のようにそのまま日本人がやったということにして話をし、それをそのまま本多勝一は書いているのです。
 日本人には、そのような歴史も風習もありません。父親が娘と性交する、兄妹がセックスする、こんなことを中国人にさせて日本軍の兵士は喜んだ、と「中国の旅」に書いてありますが、これこそは中国人がよくやる習慣であって、日本民族には決してあり得ないものです。
 とにかく、日本と支那では民族の根本が違い過ぎます。その残虐性が違うのです。そして、この残虐極まりない支那民族の中でも特に暴虐な共産勢力が北上し、満州の張学良と合体するのです。

<続く>
 

真実の歴史講座 -19-

2005年07月26日 21時25分26秒 | 歴史のこと
  【ソビエトの南下政策と支那の赤化②】

 昭和6年(1931年)9月18日の柳条溝事件、これは関東軍が鉄道を爆破して事変を起こすわけですが、「柳条溝事件は日本の謀略であり、明らかに侵略戦争だ。大東亜戦争が侵略戦争でないとしても、満州事変は明瞭に侵略であり、その後の盧溝橋事件も、青年将校が内閣の言うことを聞かずにやった侵略戦争だ」と言う知識人も多くいます。しかし、歴史的事実はそうではありません。
 まず、孫文はヨッフェというソ連の革命家と手を結びます。当時、孫文は袁世凱に天下を取られ、浮いていました。その孫文に、ヨッフェ等のソ連の革命家が擦り寄り、「第一次国共合作」を行なうのです。つまり、孫文率いる国民党の中に共産党を同居させたのです。結局は、国民党もマルクス・レーニン主義を信奉することになるのです。
 孫文の三民主義とマルクス・レーニン主義は違います。しかし、共産主義勢力は、政策的な面から入り込み、国共合作を推し進めます。やがて、共産主義勢力が伸び、孫文の勢力は圧迫され、共産党系の政府ができます。これが武漢赤色政府の成立です。これは革命政府ですから、武漢赤色政府は、まずは一方的に漢口のイギリスの租界を実力で回収します。しかも、共産党勢力は上手く国民党の中に潜り込み、国民党を赤化させます。1925年に亡くなった孫文の後を継いだ蒋介石は、武漢赤色政府とは戦わないで、南京を攻略します。この時に起きたのが、1927年3月の「南京事件」です。(あのいわゆる南京事件とは全く別物で違います)

<続く>

真実の歴史講座 -18-

2005年07月24日 09時42分35秒 | 歴史のこと
  【ソビエトの南下政策と支那の赤化①】

 ところで、共産革命を遂げたソビエトロシアが外蒙に侵入し、外蒙をソ連属領の第一号にしました。外蒙は満州のすぐ北ですから、日本はソビエトの南下にも気を遣わなければならなくなりました。ロシア国家が共産国家になり、それが満州のすぐ北側に存在するため、特に警戒しなければならなくなったのです。しかし、アメリカは距離も離れていたので、ソビエトの東方侵略や赤化政策にはさほど関心はありませんでした。
 支那の状況は、孫文が1911年に辛亥革命を起こし、清朝を倒して、中華民国が誕生します。孫文の旗印は「滅満興漢」です。つまり「満州を滅ぼして漢民族を興隆する」というものです。満州は中国ではないという意識です。万里の長城より外は「化外の地」であって、自分の国とは考えていないのです。この満州を支配していたのが張作霖です。張作霖は、人民からは収奪し内政は行わないという悪徳政治家で、中国本土への進出を企んでいたものですから、遂に日本の将校が彼を爆殺します。息子の張学良は、南の勢力と手を結び、満州の五色旗をやめて、晴天白日旗を満州に入れます。ところが、この南の勢力というのは、主に共産勢力だったのです。満州が赤化しだしたのです。ボルシェビキの勢力が入り、排日・侮日運動をやりだします。日本の満州における権益を奪おうとするのです。
 張学良はアメリカと組んで満鉄包囲鉄道を敷きます。渤海湾に泰皇島という港を開発して、大連に対抗し、満州から得た農産物や鉱物を大連からではなく、この泰皇島から輸出させるのです。日清の約束を破って、いわゆる満鉄包囲網を作るのです。満州事変が起こった原因を調査したリットン報告書にも、日清戦争からの長い因縁と歴史と交渉があったことを述べた後「世界にはこのような例はおそらくないだろう」とまで書いています。

<続く>

真実の歴史講座 -17-

2005年07月18日 20時18分30秒 | 歴史のこと
  【アメリカの日本移民排斥と白人主義】

 さて、アメリカは日本に対して何をしたか。日露戦争が終わった翌年、アメリカ太平洋艦隊が示威行動か、横浜にやって来ます。当時日本はアメリカに移民を送っていましたが、この移民に対して、米国は圧力を加えてきました。日本からの移民が最も多いカリフォルニア州で、まず日本人移民排斥が行なわれました。そして、日本人移民には土地の所有を認めないという法律を作りました。
 また、日本では写真によるお見合い結婚が当時はよくありました。当時、移民の青年たちも、日本の親戚を頼ってお嫁さんの世話をしてもらい、写真を送ってもらって、仲人の勧めで花嫁がアメリカに渡るということもありました。ところが、アメリカは、こんな写真結婚は認めないと言い出しました。アメリカに移住した日本の青年は、日本のお嫁さんを貰うことができなくなってしまいました。その後、アメリカの大審院は「日本人は帰化による市民権獲得の資格無し」という判決を下しました。ヨーロッパの移民には、帰化による市民権を与え、土地を所有して子供たちを学校へ通わせる権利を与えていたのですが、日本人は差別されたのです。
 1923年には「排斥移民法」が可決されます。米下院で308対58、上院で69対9で可決されます。日本からの移民は一切受け入れないというのです。既に入っている移民からは、その土地を取り上げる、帰化権を取り上げる、という無茶なことまでアメリカはやったのです。
 これは中国人や朝鮮人にも同じです。つまりは、有色人種など、移民させないということです。オーストラリア、ニュージーランド、カナダもアメリカに倣い、日本人の移民を拒否しました。白豪主義とか言って、有色人種を入国しなくしたのです。
 この白人主義の移民法によって、日本は、アメリカにもオーストラリアにもカナダにも入れなくなりました。日本は、結局「満州へ、満州へ」と向かい、満州は日本の生命線となっていくのです。

<続く>

真実の歴史講座 -16-

2005年07月16日 19時43分31秒 | 歴史のこと
  【アメリカの満州進出への野望】

 1909年、アメリカのノックス国務長官が次のように宣言しました。「全満州の鉄道の中立化を図ろうではないか。」つまり、南満州鉄道の日米共同経営に失敗したアメリカは、日露戦争に勝利して日本の権益となった南満州鉄道と、その他の東支鉄道を国際鉄道にしようというのです。そして、アメリカは南満州鉄道の周囲に鉄道を敷くことを宣言したのです。
 しかし、ポーツマス条約締結後、小村外相が清国に行き、遼東半島の租借のことと、南満州鉄道の権利及びその周辺の開発権について公式に清国の承諾を得て、さらに満鉄包囲鉄道は敷かないという条約も結んでいるのです。ノックスの宣言は明らかに挑発であります。ある評論家が「満州の鉄道の奪い合い、鉄道をめぐる政争が、日米開戦の始まりである」と言っていますが、結果はそのようになりました。
 つまり、米西戦争でアメリカはスペインに勝ち、グァム、プエルトリコ、フィリピンを占領し、ハワイを併合し、アジアに手をのばして来ます。しかし、イギリスやフランスに比べると中国進出は出遅れました。ですから、後から割り込むために、アメリカの大陸政策として、ジョン・ヘイは「門戸開放、機会均等」を唱えたのです。アヘン戦争と三国干渉で、イギリス、フランス、ドイツは、九龍を取り、香港を取り、広州湾・青島・遼東を奪い、主な都市に租界を設けて、関税の自主権を獲得し、鉄道や鉱山の利権も獲得していきます。アメリカを除く西欧諸国は、既に支那の各地を奪い合い、いたるところに権益を確保していたのです。残るは満州でしたが、その満州に割り込むにも、日露戦争に勝利して満州に権益を得た日本がいました。アメリカにとっては日本が邪魔なのです。
 かくして、大東亜戦争は日露戦争から始まったという観方をとることができるのです。『大東亜戦争肯定論』で林房雄氏は、更に遡って、ペリーの黒船来航から日米戦争は始まったと書いています。それも一つの観点ですが、ポーツマス条約が結ばれた時から、日米は相容れないものとなり、満州を真ん中に置いて奪い合う関係になったと観ることができるのです。

<続く>
 

真実の歴史講座 -15-

2005年07月13日 20時54分29秒 | 歴史のこと
  【ワシントン会議】

 パリ講和会議の後、大正11年(1922年)にアメリカを中心として9ヶ国が集まり、ワシントン会議が開かれました。ここではまず、軍艦の数を決めました。当時のアメリカの海軍は強いとはいえませんでした。逆に日本海軍は強いとされ、アメリカはイギリスと謀って、主力艦の隻数・トン数を、英米それぞれ5に対して日本は3の比率とするように決められてしまいました。戦わずして、アメリカは日本の軍艦を沈めることに成功したのです。次のロンドン条約では、補助艦の潜水艦とか駆逐艦の比率も決められ、日本の戦力は弱められ、常に英米が優位になるような体制が作り上げられていくのです。
 そして次には、アメリカにとっては日英同盟は邪魔ですので、これを強引に破棄決議させます。第一次世界大戦で英仏は大変な戦費を使い、かなりの犠牲を出し、国力は随分と弱体化してしまいます。それに比して、後から参戦して甘い汁を吸ったアメリカは、世界一の強国となることができたのです。アメリカは世界覇権を狙い、日本を追い詰める必要から、軍艦戦力比の五・五・三体制を作り、日英同盟を止めさせ、代わりに米国の支配する4ヶ国同盟を作るのです。
 更には、9ヶ国条約を作り、ジョン・ヘイが提唱した中国の「門戸解放、機会均等」を条約にします。これも日本を抑え、アメリカが中国に進出する為のものです。これまで中国に権益を持っていた西欧諸国の力を弱め、後から入ってきたアメリカの権益を強めることを、主義主張ではなく条約として認めさせたのです。
 そして、日本が膠州湾と青島を中国に返還させることを決定します。
 最後には、満州での日本の立場を認めた「石井・ランシング協定」を御破算にします。ワシントン会議とは、こうした内容と性格を持った会議だったのです。
 昭和5年(1930年)、ロンドン会議が開かれ、補助艦の総数比率を、英米それぞれ10に対して日本は7とする条約を締結します。
 この結果、日本軍部の不満が頂点に達し、いわゆる統帥権干犯問題を引き起こし、浜口首相暗殺や血盟団事件、五・一五事件等、日本国内は昭和動乱期に突入することになるのです。

<続く>
 

真実の歴史講座 -14-

2005年07月12日 19時40分44秒 | 歴史のこと
  【パリ講和会議と日本が提案した人種平等案②】

 白人と有色人種が一緒に勉強でき、平等に会話することができ、議会で対等に議論できるようになったのは、一体いつからでしょうか。第二次世界大戦が終わって2年目、1947年の国連総会で人権宣言が発表されましたが、このときにやっと白人も黒人も黄色人種も、平等であるとされたのです。
 第一次世界大戦を機とした国際連盟規約には「人種平等」の四文字を入れてもらうことすらできなかったのです。人は種によって平等ではないと、パリの会議で決められてしまったのです。極東国際軍事裁判(東京裁判)のとき、アメリカ人の弁護士と日本人の弁護士とは、便所までが一緒ではなく別々にされていました。日本人の弁護士は、地下室で用を足していたのです。
 そのような差別が、大東亜戦争という大きな戦争の後、ようやく取り除かれたのです。戦後わずか5年の間に、インドを始め東南アジアのASEAN6ヶ国が全て独立します。そして、白人も「人種の平等」を認めざるを得なくなったのです。
 当時のタイの首相、ククリット・プラモードは『12月8日』というタイトルの文章で次のように述べています。
 「日本のおかげでアジア諸国は全て独立できました。日本というお母さんは難産して母体を損ないましたが、生まれた子供たちはすくすくと育っています。今日、東南アジア諸国が英米と対等に話ができるのは、一体だれのおかげであるのか。それは、身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったからである。12月8日は、我々にこの偉大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して、重大なる決心をなされた日である。我々は決してこの日を忘れてはならない。」
 昭和16年(1941年)12月8日、日本国海軍機動部隊が、ハワイの真珠湾に停泊するアメリカ太平洋艦隊を空襲した日であります。

 <続く>
 

真実の歴史講座 -13-

2005年07月10日 20時43分05秒 | 歴史のこと
  【パリ講和会議と日本が提案した人種平等案①】

 日本は第一次世界大戦で、米・英・仏・露の国々と並んで五大国の一つとなりました。大正3年(1914年)、パリで講和会議が開かれ、このとき国際連盟発足の下準備が行なわれます。連合国28ヶ国が参加し、日本は五大国の一つとして出席しました。この会議で日本がドイツから獲得した青島の租借権は、アメリカや中国の強い要請によって、中国に返還します。中国は労せずして、ドイツから青島の租借権を返させることができたわけです。赤道の北にある太平洋上のドイツの植民地諸島は、国際連盟が管理することになり、日本は国際連盟を代理して委任統治することになりました。
 他にもいろいろなことが話し合われましたが、日本がこれだけは何としても通すべく主張したのが「人種平等案」だったのです。西園寺公望を団長とする日本の代表団は、幾度も次のように主張しました。「大戦に勝ったのは、インドがイギリスに協力し、ベトナムがフランスに協力したからではないか。日本も参戦し戦果を得たではないか。白人種・有色人種の差別はこのことを機に撤廃し、人種によらず人は平等であるという原則を打ちたてようではないか。国際連盟規約の前文にでも、人種平等の一文一行を謳うことにしよう。」このことは小委員会に付託され、委員会では17人の委員の内11人が賛成し、通過したのです。
 その当時の人種差別は凄まじいものでした。カリフォルニア州では日本の移民の子供たちは、白人の子供たちと一緒に勉強することはできませんでした。サンフランシスコ地震のとき、日本は50万円(現在の貨幣価値で約600億円)を支援し、その支援金によって小学校等が建てられました。ところが、その小学校に日本の子供たちは入れて貰えないのです。ボロ小屋の別の学校に、中国人や朝鮮人等と共に日本人も隔離されたのです。これらはほんの一例ですが、この当時は、人種は平等ではなかったのです。ですから、これを平等にしようと日本は激しく主張したのです。
 世界中の有色人種の国々や団体からの応援が日本代表団に届きました。しかしながら、イギリスのロバート団長やアメリカのウィルソン大統領が中心となり、この日本の提案に反対したのです。満場一致でなければ、人種平等案は受け入れることはできないと主張し、遂に否決されてしまうのです。

<続く>