テンキチのブログ「誠」

忘れてはならない誠=真実を記しておきます。テンキチが気づいた其の度に。

真実の歴史講座 -32-

2005年08月19日 10時49分20秒 | 歴史のこと
  【大東亜戦争と東南アジアの国々(インドネシア)】

 インドネシアには「ジョヨボヨ伝説」という伝承があります。「黄色い肌をした英雄(インドネシアではトビメラと言います)が北方から現れ、白人どもを追っ払ってくれる。そしてジャゴンの花が咲く頃には、黄色い英雄は去って行く。」という伝説です。
 インドネシアに上陸した部隊の中に、拓大出身で陸軍中野学校を出た柳川宗成中尉がおりました。彼は二人の通訳を連れて、単身バンドンに乗り込みます。バンドンにはオランダ軍の司令部があり、テルボーデン中将が指揮を執っています。柳川中尉は上陸すると、参謀の命を受け、単身バンドンに潜行するのです。オランダ兵の目を誤魔化すために変装し、道なき道を主に夜間潜行します。その途中に民家で食事を戴くのですが、この時その家のお年寄りが、柳川中尉を神様のように拝んで、厚くもてなしをするのです。柳川中尉が不思議に思って通訳に尋ねさせると、老人は「ジョヨボヨのトビメラが来られたので歓待しているのだ」と言うのです。柳川中尉は「よし、俺は今日からトビメラになろう」と決意し、オランダ軍司令部に乗り込みます。
 「テルボーデン中将はおらんか、俺は日本の将校参謀だ」と言います。「いま寝ています」とオランダ兵が言うのに対して「ならば起こして来い」と言います。その気迫に圧倒されて、テルボーデンは二階から降りて来ますが、その足は震えていたそうです。柳川中尉はテルボーデンに迫ります。「日本軍は既にここバンドンを三方から取り囲んでいる。貴下は部下将兵のためにも市民のためにも、一刻も早く速やかに降伏しなさい。」柳川中尉もいきなり随分と目茶苦茶なことを言ったものですが、これは日本軍の上陸7日目のことです。9日目にはテルボーデンは、チャルダ将軍総督以下3人を連れて、白旗を揚げて今村軍司令官に降伏したのです。何故このようにたいした戦闘もせずに降伏ということになったのか。それはインドネシアの民衆が立ち上がったからです。「万歳、万歳」と民衆が日本軍を解放軍として迎え、オランダ軍は民衆から見放され、完全に孤立化してしまったのです。
 次に、日本軍はインドネシアを独立させるために、インドネシアの青年を教育し、独立への気概を養います。オランダは文盲政策を採っていましたので、独立するにしても指導者も行政官もおりません。そこで日本は、インドネシアの将来も考え、小中学校をはじめ、商業・農業・海水産等の色々な学校を作り、中堅層を養成するのです。それだけでなく、3万8千人の祖国防衛義勇軍(PETAと言います)を養成します。日本の陸軍士官学校に倣い、将校を教育し、戦える軍隊を作るのです。兵補、即ち軍隊を補完する武器弾薬の製造・輸送や、電話線を施設したりする兵卒を10万人作ります。これらが後にインドネシア独立戦争の主力となるのです。
 さらに、日本軍から、終戦後に帰国することを拒み、脱走してまでもインドネシアに残り、インドネシア軍を率いてオランダ軍・イギリス軍等と戦った日本の将兵は、1千人とも2千人とも言われています。4年間に亘りインドネシア軍を指導し共に戦ったこれらの日本兵は、戦死者だけでも400名、今もなお帰国せずにインドネシアに帰化している旧日本軍人も多くいます。これらの方々はジャビンドウと言われ、インドネシアの人々から尊敬されています。
 このインドネシアの独立がマレーシアに移り、ベトナム、ラオス、カンボジア、フィリピン、さらにはインドの独立へと結びつくのです。即ち、アジアの国々の独立の端緒となったのが、日本が養成したインドネシア独立防衛義勇軍(PETA)だったのです。スハルト大統領もPETAの将校の一人です。独立後は、PETAの人たちがインドネシア軍の中心となり、インドネシア政府の中核となったのです。
 インドネシア政府は、独立に貢献したということで、国家最高勲章である「ナラリア勲章」を前田精海軍少将、軍政官の稲嶺一郎、清水斉、金子智一、高杉晋一等7名に授与しています。大東亜戦争は、アジア侵略戦争などでは決してありません。実は、アジア独立解放戦争であったのです。

<続く>

真実の歴史講座 -31-

2005年08月15日 09時51分04秒 | 歴史のこと
  【自存自衛の為の開戦】

 明らかにアメリカもハルノートは宣戦布告と考えているのであります。これはアメリカでも問題になっています。どういうことかと言いますと、11月27日には戦争体制に入っており、開戦の秘密指令も出しているのですが、このことは大統領や一部の者だけが知っていて、議会には何も言っていないし、国民にも知らされておらず、これは重大なる国民への背信行為だというのです。
 そうしたことをアメリカの歴史学者ピアード博士(アメリカ歴史学会会長)は『ルーズベルト大統領と1941年の開戦』という本に詳しく書いています。これが日本語訳で発行されれば正しい事実がかなり分かったのですが、当然のごとくマッカーサーは翻訳を禁止します。とにかくピアード博士は「ルーズベルト大統領は真珠湾攻撃を百も承知していた」と書いているのですから。また、アメリカでルーズベルトに対する査問委員会が開かれるのですが、民主党の大統領に対して野党の共和党は委員会の人数からして少なく、政治工作によりルーズベルトは無罪になったことなども書かれています。ジョン・トーランドも『真珠湾攻撃』という本で、この間の事情を詳細に書いています。このなかで、スティムソンは真珠湾攻撃を知っていたと立証しています。
 日本では、ハルノートを突きつけられて、12月1日に御前会議が開かれます。そして、この御前会議で日米開戦やむなしと、全員一致で可決します。誰一人として反対意見をする者はいませんでした。
 大東亜戦争に至る経緯に侵略性など全くなかったのです。「開戦の詔書」にあるとおり、我国は自存自衛の為に、まさにやむを得ずして立たざるを得なかったのであります。

 昭和16年12月8日、日米開戦に伴い発せられた「開戦の詔書」には、米英との戦争に至ったことはやむを得なかったとして「アニ朕ガ志ナラムヤ」と昭和天皇の望んだことではなかったことが主張されている。また、中国(中華民国)については「帝国ノ真意ヲ解セズ、ミダリニ事ヲ構ヘテ東亜ノ平和ヲ攪乱」と、米英については「平和ノ美名ニカクレテ東洋制覇ノ非望ヲタクマシウセムトス」と批判している。

<続く>

真実の歴史講座 -30-

2005年08月14日 20時32分48秒 | 歴史のこと
  【ハルノートは事実上の宣戦布告】

 既に開戦を決意しているアメリカは、甲案も乙案も蹴ってきます。つまり、11月26日に所謂「ハルノート」を突きつけてくるのです。これはもう宣戦布告です。日本が譲歩に譲歩を重ね、最終的に甲案・乙案まで作って努力したものを、ハルノートは木っ端微塵に拒否したのです。拒否したばかりか、ハルノートが突きつけてきた内容とは信じ難いものでした。
 一つには、「仏印は勿論のこと、支那全土から一切の陸海軍及び警察を全面的に撤収せよ。」
 二つには、「日本が日清と日露の両戦争で獲得した権益、即ち満州を放棄せよ。」
 三つには、「支那においては蒋介石の重慶政府以外は全部否認すること、つまり汪兆銘政権や満州政権も認めない。」
 四つには、「日独伊三国同盟条約を破棄しろ。」
 日本は真っ青になりました。閣僚全員が、これは宣戦布告と認識しました。このことをパール博士は次のように述べています。「このような最後通牒を受けたならば、例えモナコ王国やルクセンブルク公国でも、アメリカに対して武器を持って立ち上がったであろう。」これだけ舐められ、コケにされれば、どのような国でも立ち上がらざるを得ないだろうと言うのです。ハル国務長官自身も「私のやることはこれで終わり。後はスティムソン(陸軍長官)とノックス(海軍長官)の出番だよ。」と言ったそうです。
 スティムソンの日記には、「日本を最初の発砲者たらしめるのは危険であったが、どちらが侵略者であるかを明白にし、アメリカ国民の完全な支持を得るには望ましい方法だ」と書いてあります。その日記には、ハル、スティムソン、ノックス、ルーズベルトの4人が集まっては、如何にすれば日本が挑発に乗ってくるかを何回も何回も相談したと書いてあります。
 この日本に対する挑発の一例が、カムラン湾沖に出した4隻のおとり船です。おとり船というのは軍艦に仕立てた廃船です。これを浮かべて、日本軍がこれを攻撃したら応戦のきっかけにしろというのです。ルーズベルトは12月1日を日本の攻撃日と判断し、その日に各地の軍司令官宛に戦争準備指令を出しています。ところが、ハワイの軍司令官だけには出していません。
 もう一つ重要なことが後から発見されています。パトナム少佐の日記がウェーキー島で日本軍に押収されたのですが、この日記には、11月27日、即ちハルノートの翌日、アメリカが開戦の極秘命令を出していることが詳しく書かれてあるのです。パトナム少佐自身がウェーキー島に派遣され、日本の軍艦を発見次第、即刻攻撃してよいとの秘密命令を、彼が受けていたのです。

<続く>

真実の歴史講座 -29-

2005年08月13日 10時13分59秒 | 歴史のこと
  【11月5日の御前会議】

 そこで日本は、もう一度御前会議を開きます。11月5日です。ここで甲案と乙案を決めます。甲案は、交渉を平和裏に進ませるためにアメリカの希望をできるだけ取り入れ、支那における通商は100%開放する、支那と仏印に進駐している軍隊を2年以内に引き揚げる、日独伊三国同盟は死文化する、というものです。この甲案が破れた時のために、さらに乙案も用意します。乙案は、日本の南部仏印進駐以前の状態に復帰するというものです。11月5日の御前会議においてこのように決定し、11月7日に来栖大使を甲乙両案持たせ派遣したのです。
 しかし、悲しいことに、当時日本の重要な暗号等はことごとくアメリカに解読されていたのです。ルーズベルトは、日本がどのような案を持っているか全部知っていたのです。因みに、12月8日、日本は「ニイタカヤマノボレ」という暗号でもって真珠湾を攻撃しますが、これもルーズベルトは知っていたのです。アメリカのトーランドという作家が『真珠湾攻撃』という本を書いていますが、これにもルーズベルトは日本の軍艦が真珠湾に近づいて来るのを知っていたと書かれています。真珠湾を警備していたキンメル大将には、そのことは全く打電されていません。後に、軍事電報ではなく、わざと商業電報を打ちましたが、もう間に合いませんでした。

<続く>

真実の歴史講座 -28-

2005年08月12日 20時24分25秒 | 歴史のこと
  【白紙還元の御諚】

 昭和16年10月16日、近衛内閣は瓦解し、東條英機内閣ができます。東條内閣のような軍部内閣が誕生したから戦争になったと言う人もいますが、そうではありません。東條大将は天皇陛下から大命を拝受した時に、陛下から「9月6日の御前会議における決定は白紙に戻して考え直すように」との御言葉を戴きます。「10月上旬までに交渉がまとまらない場合は対米英戦争を決意する」を削除し、あくまでも外交交渉を推し進めよ、との御言葉を賜るのです。これを「白紙還元の御諚」と言います。
 これを知ったアメリカ駐日大使、グルーは本国に電報を打ちます。「今こそ日本と和を結ぶチャンスである」と。イギリスの駐日大使、クレギーも「日本は本当に和平を望んでいるから、今こそ和を結ぶべきである」と本国に打電します。しかし、既に戦争を決心しているルーズベルトもチャーチルも、そのような報告を無視して、戦争準備を内々に着々と進めるのです。
 このように日本だけが外交交渉に努力している間にも、石油は禁輸となり、9月27日には鉄鉱石・石炭・錫・銅といった資源が輸入できなくなります。このまま行けば、経済はジリ貧となり、日本という国が潰れてしまいます。戦う以前に戦わずして日本は滅びてしまうのです。敵の言うがままに尻尾を振って降参するか、それとも決然と立ち上がって戦うか、という二者択一の議論が起こります。和平を唱え続けていた海軍までが、これはもう立ち上がってやらなければ自滅だと決意します。その時点で、日本が備蓄している石油の量は、平時で2年、戦時では1年分にも満たなかったのです。それほどまでに日本にとっては絶体絶命の事態だったのです。

<続く>

真実の歴史講座 -27-

2005年08月11日 20時26分52秒 | 歴史のこと
  【開戦を既に決意するルーズベルト】

 御前会議の後、近衛首相は早速ルーズベルト米国大統領に電話をし、日米首脳会談を申し入れます。ルーズベルトは上機嫌で応対しますが、実は腹の中では開戦を決めていたのです。昭和16年8月、プリンスオブウェールズ号艦上で、イギリスのチャーチル首相と大西洋会談を行い、ここで対日開戦を決めているのです。
 イギリスは、早くアメリカに参戦してもらわないと困るのです。ドイツが既にドーバー海峡に侵攻し、ロンドンを砲撃し始めています。うかうかしているとイギリスは滅びるという危機感をチャーチルは持っています。アメリカに参戦させる何かきっかけがどうしても必要なのです。何故ならば、昭和15年10月にルーズベルトはアメリカ大統領に三選されますが、その時の公約として「アメリカの若者をヨーロッパ戦線に動員するようなことは絶対にしない」と約束したのです。つまり、アメリカは第一次世界大戦のように、ヨーロッパの戦争に参戦することはしないと強く国民に約束して当選しているのです。従って、アメリカが攻撃されるといったような重大な理由でもない限りは参戦できないのです。
 ですから、アメリカは色々と挑発行動を仕掛けました。例えば、潜水艦を使って、二度にわたってドイツの商船を沈めます。しかし、ヒトラーも賢明で、この手に乗ればアメリカが参戦してくることを見抜き、乗ってきませんでした。そこでアメリカは考えました。日独同盟を結んでいる日本を戦争に引き込めば、ヨーロッパ戦線にも参戦可能だと。これを「裏口参戦」といいます。アメリカは巧みに裏口参戦を計画します。スティムソン陸軍長官の日記には、明確にこのことが書かれています。いかにして日本に最初の一発を撃たせるか、という相談をルーズベルト大統領、ハル国務長官、スティムソン陸軍長官、ノックス海軍長官の4人が幾度となく集まって鳩首会談をするのです。ルーズベルトは近衛首相との会談について、最初は調子のよいことを言っていましたが、結局は実現することはありませんでした。

<続く>

真実の歴史講座 -26-

2005年08月10日 21時58分03秒 | 歴史のこと
  【米・英の中立条約違反】

 昭和15年にアメリカは日本との通商条約を破棄します。続いてイギリスも破棄します。そして、アメリカは支那事変末期にABCDラインを形成します。A(アメリカ)、B(ブリテン=イギリス)、C(チャイナ=中国)、D(ダッチ=オランダ)、この4ヶ国が日本に対する貿易を止めてしまうのです。経済封鎖をしたのです。これは日本にとっては大変なことでした。今でもそうですが、資源の少ない日本は、外国から資源を輸入して、それを加工して輸出するという経済体制でした。その輸入が止まってしまってはどうにもなりません。
 昭和16年6月17日には、日蘭(オランダ)交渉が破談になります。小林一三商工大臣が1年間に亘って、オランダの植民地、インドネシアの石油を輸出して欲しいと交渉するのですが、不調に終わります。そして遂に8月1日、アメリカが石油禁輸を行ないます。これで日本に入ってくる石油はゼロに等しくなります。血の一滴は石油の一滴と言われた時代です。軍艦も、戦車も、トラックも動きません。それ以前に工業がストップしてしまいます。米国大統領ルーズベルトは、日本に石油の輸出禁止をすれば、戦争になってしまうことを百も承知しており、そのことを方々で演説しています。日本に対して石油を止めれば、戦争になることなど判っていながら、敢えてこれを決行したのです。
 日本はその以前、6月28日にベトナムの北部仏印(フランス領)に進駐します。その理由は、重慶に押し込められた蒋介石政権に対して英米は援蒋物資(蒋介石への援助)を送り込んでいましたが、これを止めるためのベトナム進駐でした。さらに米英は「ビルマルート」というビルマから雲南を通って四川省の重慶に通ずる道を作り、裏側からの援蒋ルートで武器弾薬や食料等を送っていたのです。つまり、米英はハノイからとビルマからと、二つのルートから蒋介石の抗日軍事援助を行なっていたのです。
 パール博士はこれについて、「アメリカは中立条約を公然と犯した。即ちこの時点で、日本と戦争を開始したことになる。日本への宣戦だ。」と言っています。さらに、昭和15年に、アメリカは軍事顧問団と200人の飛行士を蒋介石軍に送り、日本と戦わせています。つまり、軍事的にアメリカは対日参戦しているというのがパール博士の見解であります。これは国際法からしても、アメリカの行動は中立条約違反であります。さらにアメリカは、昭和15年9月の段階で重慶政府に対して2500万ドルの借款を、11月の段階で1億ドルの借款を与えています。12月にはイギリスが1000万ポンドを蒋介石に与えています。それに加えて日本に対しては厳しい経済封鎖をしたのです。
 そこで、追い詰められた日本は、昭和16年9月6日に御前会議が開かれ、閣僚や陸軍参謀総長、海軍軍令部総長といった上層部が集まり、次のようなことが決められました。
 一つには、この状態では対米英戦争は避けることはできない。二つには、しかしながら同時に外交に全力を尽くして平和裏に解決の道を探る。三つには、10月上旬までに交渉がまとまらない場合は、対米英戦争の決意をせざるを得ない。このように決められるのですが、このときじっと沈黙して会議の模様をご覧になられていた昭和天皇は、懐から紙を取り出されて、「よもの海、みなはらからと思う世に、など波風の、たちさわぐらむ(明治天皇の御製)」とお詠みになられます。
 つまり、昭和天皇は「戦争を早まって決意したりしてはいけない。もっと外交に尽力せよ。」と仰ったわけです。憲法上、天皇陛下は御前会議で、ご自分の御意見を仰るわけにはいかないので、明治天皇の御製にお託しになられて、お気持ちをお述べになられたのです。

<続く>
 

真実の歴史講座 -25-

2005年08月10日 10時34分00秒 | 歴史のこと
  【盧溝橋事件の真犯人】

 西安事件の翌年、昭和12年7月7日に盧溝橋事件が起こるのです。ある日本の教科書には、こう書かれています。「どこからか銃弾が飛んできた。その時ひとりの兵士が行方不明になったため、日本軍は発砲を始め、攻撃に転じたので、支那事変へと発展した。」これはとんでもない誤りです。誰がやったのか。中国共産党です。
 7月7日の夜、不法射撃を受けたのは、日本軍の清水中隊でした。清水中隊は夜間演習をしていたのです。話が少し飛びますが、日本軍が他所の国の北京近くで演習をしていること自体が侵略ではないかと言う人がいますが、これは歴史、史実を知らない発言と言えます。義和団事件については既に述べましたが、あの時西太后は降伏後、八ヶ国と講和条約を結びます。その時に、居留民のいる国はその保護のために、その国の軍隊を支那に駐屯させることを約束したのです。日本だけでなく、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス等も軍隊を支那に駐留させていたのです。違法でも侵略でもありません。
 さて、その夜、発砲を受けた清水中隊は、「一木大隊長の命令があるまでは撃ってはいけない」と、実に7時間も隠忍自重したのです。その間、三回も発砲されています。三回目に撃たれた後、ようやく応戦したのです。中央でも三個師団を出動させようとするのですが、現地で調停中なので待つべきであると、二回自重しています。被弾した当夜の清水中隊の状況ですが、鉄兜を持っていませんでしたし、実弾は各人30発だけ万一に備えて持っていましたが、これは厳封して箱に詰めたままで、射撃はもっぱら空砲でした。とても戦闘しようとする部隊の有り様ではありません。その翌日、中国共産党は中国中の新聞や団体に「北京が危ない。日本が立ち上がった。我々は戦うんだ。戦闘準備しろ。」といった檄文を電送します。7日の夜に事件が起こり、8日の朝には既にこの行動に出ているのです。実に手際よく事前に準備されていたのでしょう。
 もう一つの証拠を挙げましょう。葛西純一という中国共産党に籍を置いた人が、中国共産軍の「戦死政治課」という共産党の教科書にこう書かれてあると言うのです。「劉小奇指揮の下に抗日救国青年隊が決死的に中共の指令に基づいて実行した」と。明らかに中国が先に発砲したのです。
 ①7月8日の朝、既に開戦を主張する中国共産党の檄文が全国に撒かれたこと、②中国共産党の教科書にも既に載っていること、③盧溝橋事件50周年の昭和62年に、中国は「七・七事件」の書籍を出版しており、これにも共産党の策略が成功したといった内容が書かれていること等々、どちらが仕掛けた事件かは、明々白々であります。
 さて、次項以降では、日米交渉の歴史と、何故真珠湾攻撃になったかについて述べます。また、日本の軍隊が東南アジアに進出しますが、これがどのような状況下に行なわれ、現地の人々がどのように歓待したかを述べます。日本の三年半の軍政の間に、日本軍は青年たちに民族意識を芽生えさせ、軍隊を作ります。これがアジアの植民地の相次ぐ独立に繋がるのです。例えば、インドネシアでは「ムルデカ」即ち「独立万歳」が国民の間に拡がります。インドでは、チャンドラ・ボースが「デリーへ、デリーを目指せ」を合言葉に進んで行きます。戦争には敗れましたが、インド独立軍は戦後も祖国インドで結束して、イギリス軍に対抗し、独立を実現させるのです。インド国会議事堂の正面にはチャンドラ・ボース、右にガンジー、左にネールが掲げられています。このインド独立の最高功労者チャンドラ・ボースを助けたのが日本です。日本は侵略戦争などしていないのです。

<続く>

真実の歴史講座 -24-

2005年08月06日 20時43分58秒 | 歴史のこと
  【松井大将と蒋介石の会談】

 松井石根大将は退役後、孫文の「大亜細亜主義」の理想を実現するため「大亜細亜協会」を創立し、その会長になりました。そして、中国の蒋介石をはじめ西南支那の軍閥に会いました。孫文の唱えた『日本なくして中国なし、中国なくして日本なし』という、この日中和平の大義を確認するために中国に行ったのです。松井大将は、まず広東、広西に行き、孫文の第一の弟子である胡漢民や軍閥の李宋仁、白崇檮らと会いました。そして「南京の蒋介石と合体して統一した中国を作れ。蒋介石は米英と密着して排日・抗日・侮日を煽っているが、これを中止せしめて、"国父"孫文の言う日中和平の大義を実現しようではないか。」と説いて廻ったのです。
 松井大将は、最後に南京に蒋介石を訪ねました。松井大将は蒋介石が日本に留学したとき、下宿の世話までした間柄です。松井大将は、南方の胡漢民ら軍閥と会ってきたことを説明し、「日中がいがみ合うのは兄弟喧嘩と同じだ。白人どもは、これをけしかけて戦わせようとしているが、それに乗せられてはならぬ。排日・侮日を煽るのを止めよ。日本の青年将校の暴走は、わしの責任で食い止める。君も孫文の弟子なら、同じ弟子の胡漢民らと結んで、孫文の理想を生かそうではないか。」と口説きました。陳群という親日家の外務大臣や陸軍大臣の何應欣将軍も共に食卓を囲んで会談を二度重ねました。松井大将は、この会談で「日中和平松井私案」なるものを起草して、蒋介石に手交しました。蒋介石は、松井大将と二度三度と固い握手をしました。そして別れを惜しみました。
 松井石根大将が中国遊説を終えて帰国したのが昭和11年の4月でしたが、その年の12月に起きたのが、西安事件であります。蒋介石は、周恩来の突きつけた六ヶ条の条件を呑んで身柄を釈放されます。その内容を要約しますと、こうなります。
一、反共政策を止めて国共合作を図れ
二、南京政府を改組して各派を参加させ、親日閣僚を更迭せよ
 この西安事件が日支事変、いわゆる日中戦争の近因になったのです。

<続く>

真実の歴史講座 -23-

2005年08月05日 14時18分22秒 | 歴史のこと
  【日支平和を阻む中共軍】

 さて、歴史は進み、1936年(昭和11年)に西安事件が起きます。共産党は江西省瑞金に蟠踞して、その兵力は10万人と言われていました。これを、蒋介石の国民党軍100万人が取り囲みます。共産党はここを脱出し、「大長征」と自称していますが、その実は追われ追われて北へ逃げたのです。最終的には、1935年11月、延安まで逃げ延びるのです。10万人の兵力が6千人にまで減ったと言われています。中国共産党は、壊滅寸前まで追い込まれたのです。そこで、毛沢東は延安を警備している張学良をそそのかして、蒋介石が督戦のためにやって来たのを捕まえます。西安で蒋介石が張学良の捕虜になったのです。いわゆる西安事件の勃発です。
 そこに延安から周恩来がとんで来ます。蒋介石は、もはやこれまでと覚悟します。毛沢東は、蒋介石を晒し首にして中国中を引き回そうと主張します。しかし、ちょうどその時、ソ連のスターリンから電報が入りました。「蒋介石は生かして、日本と戦わせろ」というのです。毛沢東は地団駄を踏んで悔しがったそうです。スターリンの戦術は、日中を戦わせて、蒋介石も日本も共に弱ったところで共産党が天下を横取るというシナリオです。その戦法通り、実際に現在の共産中国が生まれたわけです。
 かつて、故佐々木更三社会党委員長が、中国に行って毛沢東に「中国に侵略して日本は悪いことをしました」と謝罪すると、毛沢東は次のように言ったそうです。「何を仰いますか。日本が国民党と戦ってくれたからこそ、我々は天下を取れたのです。」まさしくその通りです。我々はこのような時代を経てきたのです。

<続く>