テンキチのブログ「誠」

忘れてはならない誠=真実を記しておきます。テンキチが気づいた其の度に。

真実の歴史講座 -12-

2005年07月08日 20時51分12秒 | 歴史のこと
  【第一次世界大戦とシベリア出兵】

 大正3年~7年(1914年~1918年)にかけて4年4ヶ月間、第一次世界大戦がありました。日本は日英同盟を締結しており、イギリスから参戦の強い要望があり、参戦します。ドイツの租借地の島々にも軍艦を派遣して、占領します。更には、ヨーロッパ戦線にも出兵してくれとの要請もありましたが、これは断ります。
 このとき日本は、中国に二十一ヶ条の条約をつきつけますが、中国が「ヨーロッパ戦争のどさくさにまぎれて中国に無理難題をふきかけた」と大々的に宣伝したので、この二十一ヶ条は日本が悪いことをしたようになってしまいました。しかし、仔細にこれを見てみますと、大正11年(1922年)に結ばれたワシントン条約では、これが九ヶ条にまで削られています。この九ヶ条も当時の日本としては、中国と協約を結んでおかなければ、以前の三国干渉のときのような目にあう危険がある為、やむを得ざる処置でした。しかも、これらの条約は、ヨーロッパ諸国が中国と結んでいた条約と少しも変わるものではなかったのです。
 さて、日本が世界大戦に参戦したことによって、アメリカは譲歩し、大正6年(1917年)に「石井・ランシング協定」を結びます。この協定は、「日本は中国と隣接しており、日清・日露の両戦争で何十万人もの兵が満州で戦死している」といった満州における日本の特殊事情をアメリカが認めたものです。
 大正7年(1918年)にはシベリア出兵があります。これはアメリカやイギリス等が、ソビエトロシア(革命後の共産主義ロシア)から逃れてきた白系ロシア人やチェコ軍を助ける為に出兵したものです。そのとき、ニコライエフクス(尼港)で、日本人700人以上がソ連の共産党ゲリラ部隊のパルチザンによって惨殺されるという、尼港残虐事件が起きました。その尼港の残虐事件の記念碑が、実は靖国神社の大鳥居の上の方にあり、多くの方々が戦前は靖国神社参拝のたびに、このような残虐な事件があったのかと胸を痛めて弔意を表したものです。

<続く>

真実の歴史講座 -11-

2005年07月07日 08時12分57秒 | 歴史のこと
  【日露戦争の勝利が大東亜戦争の遠因②】

 これを聞いたルーズベルト大統領は何と言ったか。「間違いなく日本の陸海軍はアメリカの敵である。全世界にこれ以上危険な敵はいない。」と怒ったというのです。この頃からアメリカは日本を敵視し、支那大陸(特に満豪)に対する利権を狙って進出します。しかしその為には日本が邪魔です。日本の力をいかにして削ぐか、いかに日本を打ち負かすかを考え始めたのです。
 日露戦争でバルチック艦隊が沈められた時に、孫文はロンドンにいました。当時イギリスは、日英同盟のよしみで、バルチック艦隊が現在どの位置にいるかを教えてくれるなど協力的でした。資金も貸してくれました。ですから、バルチック艦隊を東郷艦隊が全滅させたとき、イギリスはさぞかし喜ぶであろうと、孫文は思いました。ところが、あにはからんや、ロンドンはシーンとして通夜のようであったそうです。何故なのか、孫文は考えました。この答えとして孫文はこう言っています。「血は水よりも濃し。」つまり、イギリスもロシアも同じ白人です。「白人同士が有色人種を支配し、植民地を持つことで繁栄してきた。然るに、同じ白人のロシアが負かされたということは、やがて植民地が独立する恐れがあるひとつの象徴であり、前兆かもしれない。」とイギリスは危惧したのです。ですからロンドンは、シーンとしてしまったのです。
 ドイツのニコライ皇帝は「黄禍論」を唱えました。「やがて有色人種の日本が世界に勢力を伸ばし、これまで侵奪した自分たちの植民地が覆るのではないか、黄禍の時代がくるのではないか。」と心配したのです。

<続く>

真実の歴史講座 -10-

2005年07月06日 20時04分48秒 | 歴史のこと
  【日露戦争の勝利が大東亜戦争の遠因①】

 戦争には必ず遠因と近因があり、契機があります。即ち戦争というものは歴史の中にあるのであり、正しく歴史を理解することが、正しく戦争を理解することになります。戦争というものは、歴史的背景を無視してはありえないのです。
 例を挙げますと、あの忠臣蔵ですが、12月14日に本所松坂町に四十七人が切り込んだことだけをもって忠臣蔵としますと、「真夜中に土足で他人の家に押し込み、年寄りの白髪頭の首を切っただけのことじゃねぇか!」となります。これでは正しく忠臣蔵を理解しているとは言えません。忠臣蔵と言えば、少なくとも松の廊下から始まって、浅野内匠頭が切腹を仰せつかり、赤穂城を明け渡し、浪人になった家臣たちが主君の無念を晴らすため、忠義の心を持って身をやつし、偽装し、敵情を探り、苦労を重ねて、松坂町の討ち入りとなるわけです。討ち入りになるまでのことを知らなければ、忠臣蔵を理解することはできません。本所松坂町から始まっては、正しい歴史にはならないのです。
 これと同じように、「日本が真珠湾を奇襲攻撃したから、日本が悪いんだ」では歴史ではありません。真珠湾に至るまでの長い長い歴史があるのです。このことをまず理解する必要があります。
 それでは真珠湾に至るまでの歴史を勉強していきましょう。前述しましたように、コロンブスがアメリカ大陸に到着したあたりから、西洋の侵略が始まり、アフリカ、中南米、アラビア、アジアといった世界全般、特に有色民族に対しての侵略行為、暴虐行為、搾取がありました。その侵略は、トィンビーの言を借りれば「羊の毛を刈るが如く」で、西欧は容易く完勝、常勝であったのです。
 しかし、1904年~1905年に、極東の島国、人口4000万の小国、日本という背の低い有色人種の国が、世界一の白人帝国主義、ロシアに勝ったのです。これはまさに驚天動地のことでした。500年間以上負けたことのない白人に、初めて有色人種が勝ったのです。これによって、アジアを始め世界の有色人種が目覚めることができたのです。これが日露戦争の世界史的意義です。そして前述のように、日本が日露戦争に勝ったことが、大東亜戦争の遠因となるのです。
 アメリカ大統領、セオドア・ルーズベルトの斡旋でポーツマス条約が結ばれるのですが、実はこの当時からアメリカは満州を狙っていたのです。具体的に述べますと、小村寿太郎外相が日本に帰る前に、アメリカの鉄道王、ハリマンが日本に乗り込んできて、桂太郎首相にこう持ちかけます。「あの満州鉄道を共同経営しようではないか。アメリカが資金を出すから、両国で使おうではないか。」桂首相は、日本も多額の借金をしてやっとのことで勝利したのだから、これはいい話だと乗ります。しかし、小村外相は、帰国後次のように主張して破談にするのです。「何ということをするのですか。これでは十万の命と、二十億の国帑が一空に帰してしまうではないですか。日清戦争から日露戦争にかけての犠牲が全て無駄になってしまう。両戦役の犠牲は、一本の満州鉄道の権利を獲得することにあったのだ。」

<続く>

真実の歴史講座 -9-

2005年07月03日 08時59分32秒 | 歴史のこと
  【日露戦争の勝利とアジアの覚醒②】

 インドネシアもイスラム教徒が団結して「ブディ・ウトモ(尊い努力の意味)運動」を起こします。1908年、日露戦争3年後のことです。しかし、オランダの弾圧が厳しく、啓蒙運動に終わりました。
 フィンランドでは、バルチック艦隊が全滅したことにより、ロシアに奪われていた領土(失地)を回復します。それを記念して、今でも東郷元帥をラベルにしたビールが愛飲されており、5月27日の海軍記念日には、子供たちが日の丸の旗を掲げて日本大使館に表敬に来るそうです。
 トルコのイスタンブールには「乃木通り」という名の通りがあります。
 エジプトでは「日本の娘さん」という詩が今なお市民に愛唱されているそうです。昭和52年(1977年)、エジプトのサダト大統領は次のように言われました。「私は近く日本を訪問するが、そのときは真っ先に明治神宮を参拝するつもりだ。今日エジプトが独立し、このような繁栄ができたのも、その根源をたどれば、明治天皇殿の率いる日本軍が白人帝国主義のチャンピオンだったロシア帝国を打ち負かしたことに起因する。エジプトで今なお愛唱されている『日本の娘さん』という歌は、日露戦争に従軍看護婦として出征する日本の女性を称えた詩なのです。」ガリ国連事務総長が日本を訪れたとき東郷神社に参拝しましたが、彼はサダト大統領と同じくエジプト人なのです。
 日露戦争における日本の勝利は、岡倉天心の言う「アジアの覚醒(めざめ)」であり、大川周明博士の言う「有色人種が初めて明るい太陽を仰いだ日」であったのです。しかし、その世界を驚嘆させた輝かしい勝利が、実は皮肉にも大東亜戦争の遠因となるのです。

<続く>

真実の歴史講座 -8-

2005年07月02日 23時38分15秒 | 歴史のこと
  【日露戦争の勝利とアジアの覚醒①】

 日露戦争における日本の勝利、これはかつてない大きな影響を世界に与えました。コロンブス以来400年間、白人の侵略戦争や侵略政策に対して勝ったことのない有色人種が、初めての勝利を得たのです。ことにバルチック艦隊40隻を、3隻を残して全部撃沈し拿捕した完勝は世界戦史にかつてない、ネルソン以上の快勝として、東郷平八郎元帥の武勲は今日なお、米・英・仏の教科書にも写真入で掲出されています。
 戦勝国の日本に留学生として来日した中国の青年は、1万人以上と言われています。その青年達を集結させて、孫文は「中国革命同盟会」を東京で結成します。この同盟会が核となって、遂に1911年、辛亥革命を成功せしめるのです。
 ベトナムの革命家、ファン・ボイチョウは、青年王子、クォン・デ候を会長に「ベトナム光復会」を結成します。彼らは戦勝した日本に、軍事支援要請のために来日しますが、犬養・頭山・大隈ら日本のアジア主義者は、ベトナム青年の教育が先決であるとして、革命青年の要請を説得します。当時ベトナム独立運動に挺身する200余名の青年を密出国させ、日本に留学させるのです。これを「東遊(トンズイ)運動」と言います。
 フィリピンではアギナルドとリカルテ将軍が独立運動に立ち上がりました。日本から6名の義勇軍がこの独立戦争に参加しています。また、独立支援のため日本の廃戦器を満載した船「布引丸」が残念なことに上海沖で台風に遭遇して沈没してしまいます。
 インドでは総督ハーディング卿暗殺事件が起き、その首謀者であるビハリー・ボースとクプタ青年が日本に亡命してきます。後のインド首相、ネールは「私は16歳であった。私がインド独立とアジア解放のため一身を捧げる決意をしたのは、この時(日本勝利の時)である。」とその自叙伝に述べています。
 ビルマでは傑僧オッタマ僧正が、日本が何故勝利したかを探求するため、来日して全国を巡行し、その得た結論を『日本』という著書に集約しました。この著書が、独立を志向するビルマ青年のバイブルとなり、やがてタキン党が結成されます。後年、タキン党の青年志士30人が、密出国して海南島や台湾で日本式軍事訓練を受け、大東亜戦争を日本軍と共に戦い、遂に独立を果たすのです。その主導者が有名なアウン・サンです。スーチー女史は、このアウン・サンの娘です。

<続く>
 

真実の歴史講座 -7-

2005年06月29日 21時05分06秒 | 歴史のこと
  【日本の命運を賭けた日露戦争】

 明治天皇の一生を綴った『明治天皇紀』という書物がありますが、それによりますと最後の御前会議の時「天皇涙潸々たり」とあります。天皇陛下は泣かれたのです。勝つ見込みなどないとされていたのです。しかし、ここで戦わなければ、日本は明らかにロシアの植民地となってしまう。コロンブスの時代から西欧の白人帝国主義は、かつて有色人種と戦って負けたことはありませんでした。しかもロシア帝国は、世界一の陸軍と世界第二位の海軍を誇る世界最強の大帝国であります。ニコライ皇帝は公衆の面前で、日本のことを「サル、猿」と言ってました。「サルどもなど歯牙にかけるな!」といった勢いです。
 御前会議の夜、伊藤博文は金子堅太郎を呼んで「君はルーズベルト大統領と同窓だそうだが、一戦終わったら仲介に立ってくれるよう頼んでくれ」と頼み、高橋是清には「イギリスに飛んで、日本の国債を買ってくれるよう奔走してくれ。大蔵省の金庫は空っぽだ!」と頼みました。そして伊藤自身、「私も一兵卒となり、銃をとって前線で討死する覚悟だ」と言いました。児玉源太郎参謀長は「緒戦で必ず勝ってみせますから、そしたら必ず和議を結ぶよう頼みますぞ」と伊藤や桂首相に幾度も念を押したのです。4000万国民が一体となってこの戦を戦った、文字通りの自衛戦であったのです。

<続く>

真実の歴史講座 -6-

2005年06月28日 12時07分00秒 | 歴史のこと
  【日英同盟の締結】

 このロシア帝国の傍若無人の侵略ぶりに危機感を抱いたのは日本だけではありません。支那に多くの権益を持つイギリスも、同様に危機感を抱いたのです。小村外相は林薫駐英公使をして日英同盟を打診するのですが、当時英国は超一流の誇り高き国家で、他国と同盟を結んだことのない国でした。それが極東の人口4000万人足らずの小国日本との同盟ですから、にべもなく断られても当然です。ところが義和団事件で見せた日本軍の厳正なる軍紀と国際法厳守の姿に、イギリスは注目していたのです。
 実は元老の伊藤博文は、ロシアを説得することが先決であるとして、日英同盟に反対していました。伊藤が反対では日英同盟を結ぶことなどできません。しかも伊藤は自信を持って単身ロシアの首都ペテルスブルクに乗り込みます。そして日露親交条約の話を持ちかけるのですが、適当にあしらわれた末、約束を反故にされます。かくて伊藤も遂に日英同盟の締結に賛成し、条約はめでたく成立するのです。

<続く>

真実の歴史講座 -5-

2005年06月25日 20時10分26秒 | 歴史のこと
  【ロシアの満州・朝鮮侵出】

 事件は終わり、八ヶ国と清国との講和条約も結ばれ、各国の軍隊はそれぞれ引揚げたにもかかわらず、ロシアだけは兵を引きません。各国は連名でいく度も抗議しますが、ロシアは兵を引くどころか満州に増兵し、恒久的陣地を構築します。そればかりか朝鮮にまで乗り出し、39度線まで兵を入れてきました。当時朝鮮は、日清戦争以後は自主独立を保障されたにもかかわらず、一向に独立の気概なく、大院君と王妃との内紛に明け暮れている有り様でした。
 三国干渉で、日本は「臥薪嘗胆」を合言葉に民族意識は高まり、「遼東還付の詔勅」を戴き、民族の団結と軍備の拡張に君民一体となって取り組みました。しかし朝鮮は、日本が三国干渉に屈服すると、親日派内閣を倒し、取って代わって親露派が勢力を拡大していきます。ロシア公使、ウェーバーは閔妃一派に接近し、これを懐柔してロシア軍をソウルに導き入れます。ロシア皇帝直属の「鴨緑江木材会社」に名を借りて偽装した軍隊を満州や竜厳裏に送り込み、ここに要塞を築きます。また、極東大守、アレキセーエフは、さらに朝鮮南端の巨済島や馬山裏にも侵出して来たのです。巨済島は日本の対馬の対面に位置し、晴れた日にはその姿が手に取るように見える島です。ここにロシアは軍港を作り、要塞を築こうとしたのです。まさに日本列島の腹部に刃を突きつけたのであります。
 外相の小村寿太郎はロシアと交渉し、「満州は中国の領土故何も言わないも、朝鮮に兵を入れたり要塞を築くことはやめて欲しい」と懇請します。これを「満鮮交換交渉」といいますが、この交渉も無駄でした。
 そうこうしているうちにロシア公使ウェーバーは、ロシア兵約200名をロシア公使館防衛という名目でもって引き入れ、親露派朝鮮人と謀って国王を王宮から奪取し、ロシア公使館に移しました。
 それから約2年間、朝鮮国王はロシア公使館の中で政務を執らされるという異常事態が続くのです。ということは、朝鮮政府はもはや完全にロシアの傀儡に成り下がったということです。

<続く>

愛知万博が開催できた真相秘話

2005年06月24日 12時15分20秒 | 社会のこと
 今年の3月25日から愛知県で国際万国博覧会(愛知万博・愛地球博)が開催されています。まずまずの人気ぶりで大勢の人々が訪れているようですが、そもそも何故日本で国際万国博覧会が開催されることになったか、その経緯、理由を知り、驚き、感動を受けました。
 その真相を明らかにしたのは、元南極観測船ふじ艦長で「マダガスカルに眠る特殊潜航艇を守る会」幹事の松浦光利氏で、次のように語りました。
 
 「8年前の平成9年(1997年)、万博開催地が決定される直前、世界各国の立候補地は熱心な誘致活動を展開していました。そのなかでカナダのトロントと日本の愛知が有望とされていましたが、カナダの方が優勢で、投票では大差でカナダになるだろうと言われていました。
 投票が行なわれる2ヶ月前の5月31日、アフリカのマダガスカル共和国の北端のディエゴスアレス湾を見下ろす高台で、日本海軍特殊潜航艇四勇士慰霊碑建立除幕式が、日本・マダガスカル両国の官民多数出席のうえ盛大に挙行されました。55年前の同日(昭和17年5月31日)、湾内に在泊していたイギリス艦隊を攻撃し、大戦果を挙げ、戦死又は行方不明となった四勇士、岩瀬勝輔大尉・高田高三兵曹長・秋枝三郎中佐・竹本正巳少尉の慰霊碑です。
 除幕式には、マダガスカル共和国総理大臣の夫人が出席されました。夫人は、祖国のために一命を捧げた4人の勇士と、それを称えた立派な式典に感激され、出席していた渡辺俊夫駐マ日本大使とマダガスカルに眠る特殊潜航艇を守る会の吹田幌会長に深甚の謝意を述べられました。そして、ご主人の総理に報告し、日本に対する協力を推進することを約束されました。
 当時、マダガスカルはアフリカ統一機構(OAU53ヶ国=現AU)の議長国でありました。マダガスカルの総理は、参加国に2005年万博開催地の日本への投票を呼びかけました。
 投票の結果、20数表の大差でカナダを逆転し、日本での万博開催が決定したのです。カナダに投票される予定のアフリカ諸国の票が日本に投じられたのです。」

 マダガスカルの国民は、初めて非白人国家が白人国家に勝利した日露戦争の偉業をよく理解しており、日本に尊敬と信頼の情を持ち続けているそうです。第二次世界大戦が勃発したとき、マダガスカルの人々の間では、日本帝国海軍がやって来て自分たちを白人(フランス)の植民地支配から解放してくれるのではないかという噂が囁かれたほどです。そして、実際に日本海軍の2艇の特殊潜航艇がディエゴスアレス軍港にやって来たのです。
 最後に松浦氏は次のように言いました。

 「マダガスカルの国民を感動せしめた四勇士。その余徳が愛知万博を導いた。万博開催に当たり、遠くアフリカの国の人々をも感動せしめた日本軍将校の勲を思い起こして欲しい。」

<以上>
 

真実の歴史講座 -4-

2005年06月22日 20時22分33秒 | 歴史のこと
  【三国干渉とロシアの南侵】

 この義和団事件が日露戦争の原因になるのです。この事件をきっかけにロシアは北からなだれ込んできました。土井晩翠の「アムール河の流血や」という歌をご存知ですか。アムール河に5千人の中国人をぶち込んで、人間筏にして流したという悲惨な事件ですが、この事件を手始めにロシア軍は南下して満州を占領してしまうのです。
 明治27年(1894年)から28年の日清戦争の結果、日本は下関条約で、次の条件を締結しました。
  一、清国は朝鮮が完全な独立国たることを認める。
  二、台湾、澎湖島及び遼東半島を日本に割譲する。
  三、賠償金2万テールを日本に支払う。
 しかし、締結からわずか1週間目に、ロシア・ドイツ・フランスの三ヶ国が日本政府に「遼東半島の割譲は東洋平和のためにはよくないので清国に返還せよ」と迫ったのです。いわゆる三国干渉です。日本はこの三国と戦う力などありはしません。涙を呑んでこの無謀な抗議に従いました。「夷を以て夷を制す」という支那流の外交政策で、遼東半島を取り戻したつもりだったのですが、この見返りとしてドイツは膠州湾(青島を含む)を、フランスは広州湾を掠取します。そしてロシアは、日本が返還させられた遼東半島をそのまま横取りするのです。清国は、この三国によって重要地点をもぎ取られてしまいます。清国の「生体解剖」と言われる所以です。
 そのうちロシアは、東清鉄道の施設権を取り、第二次アヘン戦争のドサクサを利用し、火事場泥棒式に沿海州を奪い、日本海にウラジオストックを開港します。このウラジオストックという名称は、ロシア語で「東方を制圧せよ」という意味だそうです。ロシアはシベリア鉄道をさらに延長して、このウラジオに連結すると同時にチチハルから南下して、大連と結ぶ「南満州鉄道の施設権」を得るのです。その時に義和団事件が起きたのですから、待ってましたとばかりに大軍を満州に送り込んできたのです。

<続く>