【第一次世界大戦とシベリア出兵】
大正3年~7年(1914年~1918年)にかけて4年4ヶ月間、第一次世界大戦がありました。日本は日英同盟を締結しており、イギリスから参戦の強い要望があり、参戦します。ドイツの租借地の島々にも軍艦を派遣して、占領します。更には、ヨーロッパ戦線にも出兵してくれとの要請もありましたが、これは断ります。
このとき日本は、中国に二十一ヶ条の条約をつきつけますが、中国が「ヨーロッパ戦争のどさくさにまぎれて中国に無理難題をふきかけた」と大々的に宣伝したので、この二十一ヶ条は日本が悪いことをしたようになってしまいました。しかし、仔細にこれを見てみますと、大正11年(1922年)に結ばれたワシントン条約では、これが九ヶ条にまで削られています。この九ヶ条も当時の日本としては、中国と協約を結んでおかなければ、以前の三国干渉のときのような目にあう危険がある為、やむを得ざる処置でした。しかも、これらの条約は、ヨーロッパ諸国が中国と結んでいた条約と少しも変わるものではなかったのです。
さて、日本が世界大戦に参戦したことによって、アメリカは譲歩し、大正6年(1917年)に「石井・ランシング協定」を結びます。この協定は、「日本は中国と隣接しており、日清・日露の両戦争で何十万人もの兵が満州で戦死している」といった満州における日本の特殊事情をアメリカが認めたものです。
大正7年(1918年)にはシベリア出兵があります。これはアメリカやイギリス等が、ソビエトロシア(革命後の共産主義ロシア)から逃れてきた白系ロシア人やチェコ軍を助ける為に出兵したものです。そのとき、ニコライエフクス(尼港)で、日本人700人以上がソ連の共産党ゲリラ部隊のパルチザンによって惨殺されるという、尼港残虐事件が起きました。その尼港の残虐事件の記念碑が、実は靖国神社の大鳥居の上の方にあり、多くの方々が戦前は靖国神社参拝のたびに、このような残虐な事件があったのかと胸を痛めて弔意を表したものです。
<続く>
大正3年~7年(1914年~1918年)にかけて4年4ヶ月間、第一次世界大戦がありました。日本は日英同盟を締結しており、イギリスから参戦の強い要望があり、参戦します。ドイツの租借地の島々にも軍艦を派遣して、占領します。更には、ヨーロッパ戦線にも出兵してくれとの要請もありましたが、これは断ります。
このとき日本は、中国に二十一ヶ条の条約をつきつけますが、中国が「ヨーロッパ戦争のどさくさにまぎれて中国に無理難題をふきかけた」と大々的に宣伝したので、この二十一ヶ条は日本が悪いことをしたようになってしまいました。しかし、仔細にこれを見てみますと、大正11年(1922年)に結ばれたワシントン条約では、これが九ヶ条にまで削られています。この九ヶ条も当時の日本としては、中国と協約を結んでおかなければ、以前の三国干渉のときのような目にあう危険がある為、やむを得ざる処置でした。しかも、これらの条約は、ヨーロッパ諸国が中国と結んでいた条約と少しも変わるものではなかったのです。
さて、日本が世界大戦に参戦したことによって、アメリカは譲歩し、大正6年(1917年)に「石井・ランシング協定」を結びます。この協定は、「日本は中国と隣接しており、日清・日露の両戦争で何十万人もの兵が満州で戦死している」といった満州における日本の特殊事情をアメリカが認めたものです。
大正7年(1918年)にはシベリア出兵があります。これはアメリカやイギリス等が、ソビエトロシア(革命後の共産主義ロシア)から逃れてきた白系ロシア人やチェコ軍を助ける為に出兵したものです。そのとき、ニコライエフクス(尼港)で、日本人700人以上がソ連の共産党ゲリラ部隊のパルチザンによって惨殺されるという、尼港残虐事件が起きました。その尼港の残虐事件の記念碑が、実は靖国神社の大鳥居の上の方にあり、多くの方々が戦前は靖国神社参拝のたびに、このような残虐な事件があったのかと胸を痛めて弔意を表したものです。
<続く>