(まだまだしぶとい) チラシの裏日記

鉄道写真中心に、撮影行記やその思い出話、音楽鑑賞記などを

昨日の続きだが

2024年03月11日 | ネットあれこれ
 相変わらず某家頁にある50年以上昔の運転時刻表の シ召 に嵌ってる訳だが。
 話に聞いていたけれど、一言に貨物列車と言っても昭和40年代の半ばまでは、特急、急行、地域間急行、小口、輸送力、専用、専用普通、普通、各駅解結···と、鬼のように種別が分かれていて、コレを実際のダイヤグラムに落とし込むと破線が太くなったり細くなったり、点線になって剰えモールス信号みたいになったりダンゴが付いたりした訳で。

闇だよ。

 更に新鶴見(信)っつうか新鶴見操なんかに入ったら、”前袋”に着いた上り東海道貨物は到着線入って折返し線通って···と複雑な処理をされた後で”御幸”から品鶴線を通って(武蔵野線はまだ開通してない時代)、大崎三角線から山手貨物線、田端操から東北本線に出ていく。尤も山手貨物線は当時、大崎、恵比寿、渋谷、新宿、目白、池袋、巣鴨と貨物扱い駅が連なっていて、新宿貨物駅に至っては中央本線(飯田町、八王子両方向)に入線していくのもあったから、四六時中なんかしら貨レが停まっていた。
 そうかと思えば、新鶴見操発新鶴見操行き「循環貨物」が走ってたりした。新鶴見操“御幸”を出発し品鶴線で品川に出て、東海道線客線を蒲田、川崎、鶴見と回って、折返し新鶴見操”前袋“に入っていく解結貨物で、1日に数本走ってたのが「時刻表」上にみられた。他にも品川から蒲田までの区間貨レがあったりしているが、今現在の再開発されて跡形も無くなった蒲田や川崎の南武線側をみた後で、そういうのがあったと知らされても俄に信じられないだろう。
 今の貨レはひたすら高速貨と専用貨物しかなくて分かりやす過ぎる位に分かり易い。当然本数も減った訳で、50ン年前にタイムスリップしてみると何が何やら、「専用普通?何繋げてるんですか?」という有り様だ。けれども、嘗て鉄道貨物が主役だった頃の様子が、頑張ってググれば「魚拓」じゃなくて活きた家頁として見られるのは有り難い限り。これで実際に撮った記録とかあればいいのだが、何せ山手貨物線からして鬼のように走ってた位だから···

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