昨日予告した今日と明日を入れ替えさせてください。なので今日は「パライソの海」初演の時、自分なりに天草四郎、天草島原の乱について読んだ本のことを書くといって結局書いてなかった気がするので、もうかなり忘れてしまいましたが、書きたいと思っています。で、12/05(月)にレーベル(レコード会社)のことを書かせてください。
と言っても、あまりに時間が経ち過ぎて内容を殆ど忘れてしまいましたので、ネットで調べたことを元に書かせていただきます。
ベニバラ兎団 本公演 vol.20 『パライソの海 -小さな花の夜露に映る月- 』千秋楽は今日の昼でした。
天草生まれの作家ノジャワトール・ボンソワール(野沢トオル)さんもずっとこの題材を取り扱いたいと思ってきたそうですが、歴史の教科書に「天草四郎」「天草一揆」「島原の乱」といった言葉は出てきたかと思います。キリシタン迫害で、16歳の天草四郎がヒーローに祀り上げられ、一揆の先頭に立ちます。
何故か幕府軍はこの一揆軍を制圧して、全てのことをなかったことにしようとしたそうです。このためか、今も正しい史実は判らないらしいですが、2万の一揆軍が命を賭けて戦ったのは、愛する者のため、平等に自由を手に入れるため、より良い未来を信じて。
でもそれらをなかったものとされてしまったら、命を賭けて戦った者達はそれこそ「無駄死に」になるだけ。時代を、歴史を返ることもできなかったら本当にこの世に生まれてきたことすら無意味になってしまう。
一説によると天草四郎は「豊臣秀頼(豊臣秀吉の息子)の落胤((らくいん)とは父親に認知されない庶子、私生児のこと。)であったとする伝説もあるが信憑性は低い。」ということで、そのため資金が豊富だったのでは?と噂されていた?四郎の馬印が豊臣秀吉のものと同じ瓢箪であることなどから、大坂夏の陣において死亡したはずの秀頼が大坂城を脱出して薩摩へ逃れていたとする論拠だそうです。
原城に立てこもり、3ヵ月に及ぶ籠城戦を続けたものの、最終的には食料も弾薬も尽きて原城は陥落し、一揆軍は幕府軍の総攻撃によって全滅させられたそうですが、幕府軍としては、「死亡したはずの秀頼が大坂城を脱出して薩摩へ逃れていた」ということが世に知られることを恐れて、一揆軍は全滅させ、全ての人の口を塞ごうとしたそうです。
キリシタン迫害も教科書には載っています。でもどれだけ残酷な所業だったのか、ただキリシタンだったというだけで、生きたままじわりじわりと水攻めで殺されたり、信徒や家族の前で、生きたまま神父などが炙り焼きにされたりしたそうです。考えてみてください。もしも自分がその身になったら、「いっそのこと早く殺してくれ~。」と懇願したくなるでしょう。
今でこそ日本は世界でも類を見ないくらいに、宗教の自由が守られているかと思います。世界中では宗教戦争が起きていて、同じ宗教でも宗派が違えば殺しあう。
でも今の日本ではそれは完全になくなりました。それは彼ら「天草一揆」「島原の乱」の一揆軍の命を賭けた戦いがあったおかげだとは思えませんか。そうでなければ彼らの「生まれてきて生きてきた意味」は見出せません。
天草出身の野沢トオルさんは、だからこそこの作品を自分達の劇団でやりたかったのではないかと思います。
3年前に青山円形劇場で初演をし、その翌年熊本県天草市で再演をして、今回東京新宿で再々演されました。
ベニバラ兎団の作品はどれも好きですが、その中でも私はこの作品が一番好きです。仲間と未来を信じて篭城して、自分の未来はもうここで終わるけれども時代が、世の中が変わることを信じ、仲間とのパライソの海での再会を約束し、散っていく。
決して腕に覚えのあるヒーローの集まりとかではなく、一般のキリシタンや庶民が団結して起こした一揆。
ここを読んでくだっさっている方々は私が「なんちゃってクリスチャン」と書いているのを知っている方も多いかと思いますが、それでも考えたことはあります。
「この踏み絵を踏め」と言われた時に果たして私はどうするんだろうか?踏んでしまうのだろうか、拒否するのだろうか。
正直「絵」は「絵」でしかないと思います。でも、それでも踏めるか?たぶん踏まない気がします。ただの「絵」を踏ませる相手の強要に屈したくないと思ってしまう気がするからです。
私は人の先頭に立つのとかは嫌なので、それは何としても阻止するかと思いますが、裏切ったり、人を陥れるくらいなら…。
たぶん原城で露と消えた名もない1人になる気がします。だから1人1人が自分と重なってしまったりしました。
と言っても、あまりに時間が経ち過ぎて内容を殆ど忘れてしまいましたので、ネットで調べたことを元に書かせていただきます。
ベニバラ兎団 本公演 vol.20 『パライソの海 -小さな花の夜露に映る月- 』千秋楽は今日の昼でした。
天草生まれの作家ノジャワトール・ボンソワール(野沢トオル)さんもずっとこの題材を取り扱いたいと思ってきたそうですが、歴史の教科書に「天草四郎」「天草一揆」「島原の乱」といった言葉は出てきたかと思います。キリシタン迫害で、16歳の天草四郎がヒーローに祀り上げられ、一揆の先頭に立ちます。
何故か幕府軍はこの一揆軍を制圧して、全てのことをなかったことにしようとしたそうです。このためか、今も正しい史実は判らないらしいですが、2万の一揆軍が命を賭けて戦ったのは、愛する者のため、平等に自由を手に入れるため、より良い未来を信じて。
でもそれらをなかったものとされてしまったら、命を賭けて戦った者達はそれこそ「無駄死に」になるだけ。時代を、歴史を返ることもできなかったら本当にこの世に生まれてきたことすら無意味になってしまう。
一説によると天草四郎は「豊臣秀頼(豊臣秀吉の息子)の落胤((らくいん)とは父親に認知されない庶子、私生児のこと。)であったとする伝説もあるが信憑性は低い。」ということで、そのため資金が豊富だったのでは?と噂されていた?四郎の馬印が豊臣秀吉のものと同じ瓢箪であることなどから、大坂夏の陣において死亡したはずの秀頼が大坂城を脱出して薩摩へ逃れていたとする論拠だそうです。
原城に立てこもり、3ヵ月に及ぶ籠城戦を続けたものの、最終的には食料も弾薬も尽きて原城は陥落し、一揆軍は幕府軍の総攻撃によって全滅させられたそうですが、幕府軍としては、「死亡したはずの秀頼が大坂城を脱出して薩摩へ逃れていた」ということが世に知られることを恐れて、一揆軍は全滅させ、全ての人の口を塞ごうとしたそうです。
キリシタン迫害も教科書には載っています。でもどれだけ残酷な所業だったのか、ただキリシタンだったというだけで、生きたままじわりじわりと水攻めで殺されたり、信徒や家族の前で、生きたまま神父などが炙り焼きにされたりしたそうです。考えてみてください。もしも自分がその身になったら、「いっそのこと早く殺してくれ~。」と懇願したくなるでしょう。
今でこそ日本は世界でも類を見ないくらいに、宗教の自由が守られているかと思います。世界中では宗教戦争が起きていて、同じ宗教でも宗派が違えば殺しあう。
でも今の日本ではそれは完全になくなりました。それは彼ら「天草一揆」「島原の乱」の一揆軍の命を賭けた戦いがあったおかげだとは思えませんか。そうでなければ彼らの「生まれてきて生きてきた意味」は見出せません。
天草出身の野沢トオルさんは、だからこそこの作品を自分達の劇団でやりたかったのではないかと思います。
3年前に青山円形劇場で初演をし、その翌年熊本県天草市で再演をして、今回東京新宿で再々演されました。
ベニバラ兎団の作品はどれも好きですが、その中でも私はこの作品が一番好きです。仲間と未来を信じて篭城して、自分の未来はもうここで終わるけれども時代が、世の中が変わることを信じ、仲間とのパライソの海での再会を約束し、散っていく。
決して腕に覚えのあるヒーローの集まりとかではなく、一般のキリシタンや庶民が団結して起こした一揆。
ここを読んでくだっさっている方々は私が「なんちゃってクリスチャン」と書いているのを知っている方も多いかと思いますが、それでも考えたことはあります。
「この踏み絵を踏め」と言われた時に果たして私はどうするんだろうか?踏んでしまうのだろうか、拒否するのだろうか。
正直「絵」は「絵」でしかないと思います。でも、それでも踏めるか?たぶん踏まない気がします。ただの「絵」を踏ませる相手の強要に屈したくないと思ってしまう気がするからです。
私は人の先頭に立つのとかは嫌なので、それは何としても阻止するかと思いますが、裏切ったり、人を陥れるくらいなら…。
たぶん原城で露と消えた名もない1人になる気がします。だから1人1人が自分と重なってしまったりしました。