
🟦⬛️柳宗悦先生と棟方志功画伯⬛️🟦
あの民芸運動の主唱者である。民芸とは「民衆的芸術」を略した柳の造語だった。宗悦は同時に思想家、美術評論家としても活躍した。柳宗悦(1889~1961)は海軍少将の三男として生まれ、学習院で乃木希典院長のもと、ドイツ語を西田幾多郎、英語を鈴木大拙に学び、恩賜の時計を手に―つまり首席で―東京帝大に進学卒業した、エスタブリッシュメントかつ折り紙付きの秀才であった。武者小路実篤、志賀直哉に代表される白樺派は同時代の作家や美術家に大きな影響を与えたが、宗悦は雑誌『白樺』の発足メンバーの一人だった。メンバー同士は激情のあまり絶交状を交わし合うことも日常茶飯事だったが、白樺の友人に対しても、後の民芸運動の仲間に対しても宗悦は決して喧嘩をしない人であった。ところが家庭内では違った顔を見せていた。「柳は、一口に言うと外面のいい人で(略)あたくしが爆発の引受所なんです」と兼子夫人が回想している。彼女は民芸品収集で常に苦しかった柳家の生計をアルト歌手として舞台に立ち続けながら支えていたという。伝記というものは偉人英雄の意外なエピソードを知ることが楽しみの一つではあるが本書も例外ではない。他にも北大路魯山人との論争―と言っても柳は礼状まで書いて、返って魯山人を激怒させたのだが―、朝鮮民族美術館の設立や沖縄の民芸に対する傾倒など、宗悦の広範囲な活躍には教えられることが多い。蛇足だが、棟方志功は宗悦を生涯の師と仰いでいた。宗悦もそれに応えるかのように、1936年、日本民藝館の開館時に、志功の新作「華厳譜」が大広間の壁一面を飾った。評者は津軽塗という工芸の側の人間だったのだが、美術家・村上善男の示唆により日本民芸協会にも所属したことがある。開祖亡き後の民芸運動の時代の空気を思い出しながら、改めて柳宗悦という一代の先覚者に思いを馳せる。
1976年 平凡社 刊行
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます