書感とランダム・トーク

人間の本質を根本原理から追求研究する内容さらに遡っては生物・植物その他をサイエンス的原理から考察する。どうぞ御寄稿を!

歌ごころ    ランダムトーク寄稿:山崎義雄

2008年12月16日 | Weblog
NHKの紅白歌合戦をあまり見なくなって久しい。もちろん歳のせいもある。私も若い頃は作詞活動をしていて、いまも日本音楽著作権協会の会員だ。しかし昨今の紅白に出場する歌い手は、ほとんど名前を知らない若者達になってしまった。
 ある時、5~6人の仲間の雑談に加わったら、「ユズ」の話をしている。一人が「クズ」もよかったよ、とか言っているので、「ああ、澱粉質のお湯で練って食べるあれネ」と私が言ったら、ぴたりと会話が途絶えて、それから爆笑になった。どちらも一頃人気のあった歌グループの名前だとは知らなかった(ユズ、クズはローマ字標記なのかも知れない)。
 それにしても紅白歌合戦、暮れの夜中にテレビの前に座っているのは、ほとんど行き場のない爺さん婆さんだと思うのだが、何で若者歌手が舞台ではしゃいでいるのか不思議に思うのは私だけだろうか。高齢者向けの歌をもう少し大事にすべきではないか。
 数日前、若者達がわいわいやっているテレビ番組で、誰かが「演歌って何歳ぐらいから歌い出すンだろう」という疑問が出て、これに若い女の子が「人生ろいろあって、ハアーって思ったらしみじみしてくるンじゃないですかー」と言っているのを聞いて笑ってしまった。私は爺様ながら「ながら族」で、テレビやラジオを付けっ放しでパソコンで原稿を入力したり本を読んだりすることが多い。
このエッセイをパソコン入力していた時もテレビがついていて、紅白出場が決まった何とかいう女性歌手の歌が流れてきた。「なぐーてやるーておもーてた」という呪文のような一節があって、「なんじゃこりゃー」と思ってテレビ画面をみたらテロップに「殴ってやるって思ってた」とあった。これは作曲上の言葉としての表現も大事な歌詞も、まともな日本語になっていない。近頃はこんな歌が多い。
稀代の作詞家、言葉の魔術師と言われた阿久悠の、ラストメッセージともいうべき著書「清らかな厭世」には、「言葉を無くした日本人へ」というサブタイトルがついている。麻生首相も漫画オタクで漢字が読めない。言葉の意味がますます軽くなって行く。
演歌もだめだ。歳をとって情感が薄れたせいもあるが、昨今の底の浅い軽薄な演歌は聞きたくない。むしろ古い歌い手の、義理、人情、根性、誠意など古い徳目を歌い込んだ歌が改めて心に浸みてくる。
今の時代は、例えば「父や先生や名もなき職人達からボソッと語られる」ような「大人たちが英知と生への実感で作り出した言葉」が失われた時代だという阿久悠の嘆きがよく分かる。