「越境の古代史」 田中史生著 筑摩新書 767 2009年2月 書感 六甲颪
・ ・・倭と日本をめぐるアジアンネットワーク・・・
・
この本では日本の古代史をもっと広い中国朝鮮の歴史を参照しながら見直したもので、丁寧に読んでゆくと多くの点で納得できる内容になっていた。その主な点を時代別に
追ってゆくと
1 弥生時代に始めころから外国から稲作文化、金属器文化を受け入れてきたが5世紀ころから朝鮮半島南部の加耶地区からの移住民が増えこの地域の鉄を受け入れ、日本列島からは農業技術をこの地区に伝えた。
2 この民間ベースの交流のほかに東アジア地域には冊封体制というものがあり中国周辺の国の首長が中国から王とか候とかの爵位をうけ、臣の位になると公式の名称が与えられた。たとえば邪馬台国の卑弥呼は魏の国王から「親魏倭王」に任命されると直ちに漢字の導入が進み文化交流が盛んになった。朝鮮半島の諸国、高句麗、新羅、百済等も同様であった。
3 朝鮮半島では倭の国から各地域ベースで移住が起き、また半島から比較的簡単に倭の国に移住し友好的に物々交換をしていた。しかし朝鮮半島では上記3国の争いが絶えず起こり、西暦660年百済は唐と新羅連合軍に滅ぼされそうになったので百済と親密であった大和朝廷は援軍を送ったが白村江の戦いで惨敗した。また高句麗も唐に668年滅ぼされた。
4 この頃から唐を中心とする中華思想は形を整え始め律令が制定され中央集権的な体制となった。こうして王朝名「日本」王号「天皇」が正式採用され、新生中華王朝が誕生した。
5 この結果日本も律令の整備が行われ、仏教も飛鳥寺の建立から始まり大和地方に諸寺
が出来上がった。また7世紀には大和朝廷のもとで貨幣が作られ海外交易にも流通した。
これは中国についで2番目の歴史を誇っている。
以上から日本は弥生時代から海外への移住、帰化が行われ混血が進んでいたのでどの国とも比較的平和に文化交流し、国境の紛争もほとんどなかった。現在の竹島領有問題等は想像もできなかったであろう。
[2009/05/25]
・ ・・倭と日本をめぐるアジアンネットワーク・・・
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この本では日本の古代史をもっと広い中国朝鮮の歴史を参照しながら見直したもので、丁寧に読んでゆくと多くの点で納得できる内容になっていた。その主な点を時代別に
追ってゆくと
1 弥生時代に始めころから外国から稲作文化、金属器文化を受け入れてきたが5世紀ころから朝鮮半島南部の加耶地区からの移住民が増えこの地域の鉄を受け入れ、日本列島からは農業技術をこの地区に伝えた。
2 この民間ベースの交流のほかに東アジア地域には冊封体制というものがあり中国周辺の国の首長が中国から王とか候とかの爵位をうけ、臣の位になると公式の名称が与えられた。たとえば邪馬台国の卑弥呼は魏の国王から「親魏倭王」に任命されると直ちに漢字の導入が進み文化交流が盛んになった。朝鮮半島の諸国、高句麗、新羅、百済等も同様であった。
3 朝鮮半島では倭の国から各地域ベースで移住が起き、また半島から比較的簡単に倭の国に移住し友好的に物々交換をしていた。しかし朝鮮半島では上記3国の争いが絶えず起こり、西暦660年百済は唐と新羅連合軍に滅ぼされそうになったので百済と親密であった大和朝廷は援軍を送ったが白村江の戦いで惨敗した。また高句麗も唐に668年滅ぼされた。
4 この頃から唐を中心とする中華思想は形を整え始め律令が制定され中央集権的な体制となった。こうして王朝名「日本」王号「天皇」が正式採用され、新生中華王朝が誕生した。
5 この結果日本も律令の整備が行われ、仏教も飛鳥寺の建立から始まり大和地方に諸寺
が出来上がった。また7世紀には大和朝廷のもとで貨幣が作られ海外交易にも流通した。
これは中国についで2番目の歴史を誇っている。
以上から日本は弥生時代から海外への移住、帰化が行われ混血が進んでいたのでどの国とも比較的平和に文化交流し、国境の紛争もほとんどなかった。現在の竹島領有問題等は想像もできなかったであろう。
[2009/05/25]